<松下昇>は解読可能か?
私にとって<松下>の表現過程は頭脳的に解読可能な対象ではない。むしろ、その言質を整然と留めた資料を精査すれば自分の理解が深まるという発想は危ういと感じている。何故なら、記録(文字面)によって得られるイメージは、自己抽象の水準に規定された了解域に入り込み、<松下>の言質をかく在らしめている内在的~外在的構造への回路に対しては逆に閉じてしまう傾向にあるからである。
生前の彼と任意の<場>において対面しながら、私(たち)は己の現存性に付託し(され)た像の構造を解体しなければ、もう一歩<松下>の提起の本質に接近しえないという体験を何度も繰り返した。
この理解不可能性が、<松下>の方から来るというより、己の表現過程に内在する矛盾の振れ幅から来るものであることを了解することで提起の本質に応えようとした。
<松下>が無謬だったからではない。「現実過程を呑み込んでいく幻想過程における各個の<当事者性>がどこでどう屈折するか、どのように飛躍が可能か」という<69年>性を孕んだ問いの深度を、<松下>が他の誰よりも包括して存在したからである。
だからといって、常人がなしうる以上の難しい提起だったわけではない。もし彼の要請が今自分にとって困難~不可能なものであるならば、その困難さ~不可能性の拠ってくる構造を表現域に浮上させる闘争こそが必要なのであり、その苦痛を超えて行く<喜び>を共有して存在しようと呼びかけたのである。
…<全てのテーマを自主ゼミ~ないし仮装被告団~へ>…
頭脳的にはどの水準の誰にでも理解できる、きわめて単純な事実性の底に広がっている権力と存在の深淵に対する感受性の励起が提起にはこめられていた。
そして、言葉は<時>と<場>においてしかよみがえらない。
このように言うと、宗教的で任意の者に自由に開かれていないとか、松下昇を教祖に召上げるとかの批判が浴びせられるが、どのような思想もありふれた孤独な個体に宿り、他の個体との関係を介して<身体>化して生きつづけていくのであるかぎり、その思想の内在的~外在的構造が語る<言葉~沈黙>への感受性を研ぎ澄ますことは不可欠であり、聞きうる<時>と<場>の一瞬毎の創出は避けられない。
2007.11.30 eili252
或る死
3月10日、職場から病院に駆けつけた時には、母は人工的な呼吸や脈拍によってかろうじて生の側につなぎ留められているだけであった。若い医師は「何らかの病因による急激な異変ではなく、数ヶ月の時間を経て徐々に進行して行った老衰としか言いようの無い状態であることを全ての医学的数値が示しています」と言った。翌日、85年3ヶ月20日間の全てが終わった。
無口で温和だった父と対称的に直情的な保守主義を貫いて息子の幻想性に干渉し続けた原イメージは私の中で最期まで消えなかったのだが…。
6年前のつれあいの<死>を受容していく過程は自らの<死>の受容過程でもあったにちがいない。「<死>は肉体が終わる前に行きわたっていたよ」とでも言いたげな逝き方であった。
いつの間にか未明に入り込み浮遊する意識に対して、外側からは対「認知症」といった視線で関わることしかできなかったけれども、生命時間の曲線を静かな妄想の内に思想化しながら私達の曲線に繋いで過ぎて行った。このように別れることができたことはお互いに稀な幸運であったと今は思う。
2007.11.29 eili252