2009-02-22
■ 「刊行委員会 規約」について
'1/31付けで、eiliさんのブログに「刊行委員会 規約」が掲載された。
刊行委員会 規約
第1条 (目的)
この会は、<大学>闘争とも呼ばれる情況性で生起し、現~未来的に潜在しているテーマ群の資料収集及び刊行を目的とする。
第2条 (名称)
この会は、各構成員の団体名もしくは個人名を気付として内外にその主体性を明確化しつつ、統一的に「刊行委員会」と総称する。
第3条 (会員)
この会は、仮装被告団もしくは自主ゼミ実行委員会を名乗ったことのある者、もしくは名のろうとする者によって構成される。構成員は相互に対等性を有し各々刊行委員会を代表するが、その趣旨を対外的に活用する過渡的な<代表>を定める。
第4条 (会議)
この会の構成員は、それぞれ自発的に任意の会議を提起することができる。その際、会議の主要テーマに関わる全ての<非>存在者を包括しうる方向性を模索し、かつ留意しなければならない。
第5条 (会計)
この会へのカンパ及び刊行物等の売上金は、第1条の目的に使用される。但し、緊急切迫の申し出があった場合、申し出を受けた会員の責任において、また、総体への報告を前提として他の用途に転用することができる。
第6条 (資産)
この会の基本資産は、松下昇気付刊行委員会が当刊行委員会に委託している表現群の<著作権>を含む。そのパンフ化やネット上の転載もしくは出版等による応用は、刊行委員会の運動として開かれて行く水準に応じて各々の自由意志に委託される。
(付則)
*この規約は1996年5月6日に発効している。
*規約は上記日付をはさんだ連続性の仮装でもある。
*趣旨は会員の活動状況と連動して深化の過程にある。
<代表>者 郵便番号802-0025北九州市小倉北区寿山町6-35-206
仮装被告団~刊行委員会気付 永里繁行
刊行委員会のメンバーであるところの野原燐としては、直ちに意見表明するべきところ、1ヶ月近く遅れてしまった。
わたし自身における刊行委員会、および共同性における刊行委員会のいずれもが現在、わたしの内で明確なイメージを結んでいないことが応答が遅れた原因である。だからといって放置することはできない。いままで応答が遅れ申し訳ない。
「規約」というスタイルも馴染がないものだ。eiliさんから投げかけられた提起として、どう受け止めることができるか考えていきたい。
まずわたしたちというものを、刊行委員会と規定することがベターかどうか。松下と自己との関係において、自主ゼミ実行委員会運動と自己との関係において、各自の思想がそれぞれかなりニュアンスを異にするに至っている。そのような差異をお互いにどう了解することにより、わたしたちはわたしたち足り得るのか。景気や老齢との関わりもあり、露骨な貧しさ、欠如といった問題も露出しつつある。そうした問題も含めて、自己と情況の関わりとして松下思想を生かしていくことができるのか。
松下パンフの集積があり、具体的刊行作業の要請があり、そうした外部からのベクトルに答えるべく刊行委員会は存続しつづけてきた。それは正しいあり方であったが、それだけではすでにもたない時期に来ているのではないか。
11月にせっかく集まる機会を得たのに、何も提起できず、情況は動かなかった。
とりあえずeiliさんの提起を受入れ、わたしはこの規約案に賛成する。その上で、eiliさんに提起をすることにしよう。少しづつ動かしていきたい。
ひとつの封筒が
パソコンの横に数年前から置いてあり、いくらかお金が入っている。どうしても現金がなかったときはときどき借りたりしてまた返しておいた。今確認すると、17,000円、ある。これは刊行委員会のお金である。・・・
2009-02-13
■ 論文とは何か
についての確定的定義=
CiNiiに載っていること。
http://ci.nii.ac.jp/cinii/servlet/QuotDisp?LOCALID=ART0000632412&DB=NELS&USELANG=jp
書誌情報
不確定な論文への予断
松下 昇 1
Matsushita Noboru 1
1神戸大学教養部
1College of Liberal Arts, Kobe University
ただし本文はここにはない。CiNiiというのは本文がある場合とない場合の区別が判然としない。
こちら→ http://666999.info/matu/data/hukakutei.php
ところでわたしの 「不確定な予断からの波紋」は原本がふたつ存在しweb版とワープロ版で、後者は縦書きだ。後者にはミスプリがかなりある。*1
例えば「存在-表現を開始しようと」の-が、縦書きでも横棒のままになっている。また、松下の多用した「〜」は機種依存文字で文字化けの原因になる。訂正〜校正を持続することは松下の命令なのでやらなければならない。
*1:今朝久しぶりに読みかえすと
2009-02-11
■ (書簡)問いかけ〜審問〜対話
応答とは、最初のことばを、したがって最後の言葉を断念することである。
(ヴァルデンフェルス)
ある本の一節*1から文脈抜きにこの言葉を引用しておく。どこか不思議なだがわたしにはとても大切なことを言っていると思われる断言だ。
わたしはわたしである、という自同律にこの社会は根拠をおいている。しかし考えるとわたしなんて社会的には無に限りなく近いのでありつまり、わたしではなく「自同律」の方がこの社会に必要なわけだ。永遠なるイデアの世界の虚妄性、有害性については書かない。にもかかわらずつねに「わたしはわたしであり」、このひどく軽い断言はわたしたちの認識の外にある。
■ 対話の哲学
まあわたしのブログは、チラシの裏(=モノローグ)に最も近いブログと呼ばれたりするわけですが。それでも読んでくださるかたはいるわけで「対話」として側面も存在します。つまり「対話」というのはふつう常に、当為として価値として語られる。それでつい「はいはいわかりました・」といった心理反応を引き起こしがちだ。そうではなく(哲学的に考えるなら)誰しも対話から逃れて存在しうるわけではない。
(1) 対話は時間のうちで展開されるのではなく、むしろ時間は対話において生起する。というのも、時間が生起するためには、他者が居あわせることが必要だからである。
(2) 対話者がそれぞれみずからの語ることを他者に依存しているということは、対話者が、最初のことばと、最後の言葉を断念することである。しかしこれは、対話者が対話によって開かれた世界のただなかに、そのつど「いま」、現在進行形で生きるということにほかならない。ここからすれば、対話者にとって世界はいかなる「外部性」ももたず対話者に内在的である。
(3) 対話者がそれぞれ他者に依存するということは、彼が「待つ」ということを学ぶことである。「待つ」ことによって、未来はそのつど先取りされる。ここでは世界は「いまだ到来しないもの」としてそのつど存在することになる。世界は対話者に対していつでもある一定の超越性を保ち続けるのである。
(村岡晋一)*2
ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig,1886年12月25日 - 1929年12月10日)ドイツ生まれのユダヤ人哲学者。)の対話論の村岡氏によるまとめ。「この哲学にもとづくならば、デカルトやカントのように、この世界に存在するものの確実性が〈わたし〉という意識の確実性に支えられているとか、ハイデガーのように、世界とは私という〈現存在〉が投げ企てるものだといった、どうみても無理のある考え方をする必要はもはやなくなる。」とのこと。
世界は「いまだ到来しないもの」「開かれたもの」だ、と聞くとなんとなく元気がでるような気がする。と、その程度の感想なわけですが。というか、わたしは偶然にも「世界はいまだ到来しないもの、開かれたものだ」という思想に出会い、それを生きようと*3してきた。(当たり前のことをなにを大そうにともいわれるでしょうが。)
あなたと私の対話のなかに、わたしたちがすでに前提としている〈最も遠い他者〉を招き寄せること!、この条件を付け加えるなら、この対話の哲学はとても使えるもの、ではないでしょうか。
2009-01-20
■ 松下データをコピー
先日、パソコンのハードディスクが壊れて、結果的には1日ほどで直ったのですが、そのとき一番思ったことは、いままで取り貯めた、松下概念集及び時の楔通信の画像ファイルとそのテクスト化されたものが失われることへの不安でした。
なおって、まずしようと思っていたのですが、いまとりあえず、データをCDロムに焼いてみました。
データを整理してから焼くべきなのですが、1回目として乱雑なままやりました。
CDから読んだ最初の断片。
わたしが松下資料総体に関わろうとするときも、「対処すべき関係は指数関数的に増大する」と、捉えるべきであろう。
関係とは何か?これはいかにもばかげた問である。私より先に関係があるから欲望し生きているのではないか。 ベクトルを純化する必要があるようにいまの私には思える。
私たちが、ある問題と全面的にかかわろうとする場合に、対処すべき関係は指数関数的に増大し、一方、問題点の拡大ないし刺激を私たちは対数関数的にしか感じない、という仮説に出会った。たぶん不可避的に。体験的には、それらの対応関係を最も簡単な一次関数=正比例として想定しそうになるが、実験的には異なるようである。
関係としての指数・対数性(概念集・4−1)
ちなみに約290Mバイトで、CDの半分以下です。
同じデータが何重にもなっているはずなのに。集めきれていない分もありますが。(つまり文字だけなら文学全集が百くらい一枚に入るのかな)
2008-12-31
■ 仮装証言とは何か?
誰でも知っているように、完全犯罪は常に可能だ。犠牲者は一人暮らしだった。犠牲者は殺されてしまった。しかがって犯人が語らない限り証人は誰もいない。
語りえないものと語りえるものを分断すれば、何ものかを語りえないものへと抹消した暴力に加担する結果に。語りえないものによって穿たれた亀裂に目を凝らし、語りえるものと語りえないものを架橋する倫理的態度が…
『「語りえない」ものと「語りうる」ものの可能性の中で主体は分裂しているが、他方で「語りうるもの」と「語りえない」ものの間にこそ「証言」の主体はあるのだ』
犠牲者の経験を引き継ぐことが、肝要なのです。たとえ「痕跡」しかなくても、私たちの心と体に刻みつけること。辛く苦しい作業ですが、二度と同じ歴史をくりかえしたくないと思うなら痕跡を刻み引き継ぎ続けましょう F
Fは 高い声で叫んだ。風が吹いてきて叫びは吹き飛ばされた。
・・・それは何を意味するか。
Fが叫んだ内容を私は聞き取ったわけではない。しかしいまここにFはいないので私が語るしかない。Fが言いたかったことは私に分かるから。そして、ここは裁判所だ。わたしがここで発言するためにはFと名乗らなくてはならない。私は「Fです。」と語り始める。(野原)
4)仮装とは何か?
「仮装概念と接している存在の違法性領域に注目せよ」という北川透の指摘。・・・
「当事者Aがある日時においてBという場所に居た」とCが証言する。「事実(真実)」は単一で矛盾がないそのような実体であると、法ー裁判システムは本気で信じている(ことになっている)。
このような「事実」観は簡単に捨てるべきものではないでしょう。例えば南京大虐殺でどこでどれくらいの人数が殺されたのかといった、問題に対し実証主義的議論は必要だからです。
自主ゼミ実行委員会は、実証主義的議論を否定するものではないでしょう。ただあるサバルタンが、無罪の証拠を提出できなかったとしても、彼女が沈黙している(させられている)彼女の抑圧の総体を担う覚悟のある者だけが、彼女を裁きうる、とイエスのように言うでしょう。(野原)
4-2)「当事者Aがある日時においてBという場所に居た」とCが証言する。実証主義的事実観あるいは、それに抵触するが排反はしない〈本質〉主義的事実観において「Aはそこに居た」という事実がある。それをC1という人は証言しうる。しかしC1は、闘争に背を向け秩序に埋没したいという気持ちに囚われているため、証言しない。そこでかってC1の親友だったC2が、私がC1であるとして証言する。
仮装証言の原型とはこのようなものでしょう。(野原)
引き継ぐことは私にはできない。
わたしにできるかもしれないことは〈仮装証言〉することだ。いくじなしの野原にできるかどうか。