松下昇~〈 〉闘争資料

2008-12-18

序文の哲学者

 語る声は「すでにあった」「すでに完結してしまった」という「すでに」時間性と「いまだ知らない」「いまだ完結していない」という「先駆けて」の時間性のあいだで不可避に引き裂かれる。『存在と時間』のハイデガーならば、自分自身に呼びかける良心の声に導かれた先駆的な決断によって、全体性は救い出される。だが、ヘーゲルにおいては「すでに」と「先駆けて」の二つの時間性は序文のなかで出会うことになる。


 序文とは一種の控えの間であって、そこでは、すでに始まってしまったこと、つまりそれは全体性としてしかありえないのだが、そういったものとの限界と境界線をめぐるネゴシエーションが行われるのである。

(田崎英明 p178 isbn:4791711300


松下昇も 序文の哲学者である。

序文しか書けずに死んでしまった。そうかもしれない、生きること*1が本文でないのだとしたら。

*1:わたしが

2008-12-16

やにわに履いていたスリッパの片方を投げつけ

裁判長の却下決定に対し、被告人たちから異議を申し立て、これも棄却された。直後に、公判調書によれば、「被告人はやにわに履いていたスリッパの片方を法壇に向って投げつけ、片方を後方の傍聴席の方へ投げつけた。〔…〕被告人は『異議中立の理由は届いているのか…』等と裁判長に喰ってかかり」裁判長は被告人を退廷させて判決を宣告した。

1981年2月4日〈神戸〉地裁 より p11 時の楔通信 第〈4〉号

 

ブッシュ大統領に向かって、靴を両方投げつけた新聞記者のニュースが世界中を駆け回りました。わたしのブログでも取り上げました。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081215#p3

松下(たち)は法定で卵を投げたスキャンダルで知られているわけですが、この記者が投げたのは靴であり卵よりは少し硬い。しかし物理的破壊力より象徴的破壊力を狙ったという点では共通しているといえるでしょうか。

27年前の被告人(U氏)と今回のムンタダール・ザイディ記者では相異点の方が多く、並列することの意味は明確ではありません。しかし、全く孤立しているかにみえる情況どうしが意外な同型性をもっていることの発見も、自主ゼミのテーマだったはずと、とりあえず書き付けておきましょう。

2008-12-01

楔にはなれなくとも

時の楔通信を読む という時間は

その時間を作っていた過去を 押しやるのではなく

懐かしむのでもなく つきあっていく方法を

教えてくれた・・・

(と言っておきたい)

2008-11-30

2008年の松下昇

2008年の松下昇

2008.10.19 野原燐

ごぶさたしています。

ある切迫から、この手紙をお届けしたいと思います。これはある集会への案内です。

その集会では例えば次のようなテーマが論じられます。「時の楔通信(第〈0〉号 1978.11 から  第〈15〉号 1986.7 まで、8年間発行されたメディア)」を読む。

それだけでなく、この集まりが具体化するきっかけになった、金本浩一さんが発行された書簡集(1)〜(3)(特に3)についても語りたいです。

別の言葉で言うと「< >〜{ }闘争は、存在の根拠としての、言葉の本質を最も自在に解放するたたかいであり、言葉を支える根拠が、これまでにない世界史性の<遊び>へ突入する試み」と言われる その闘争について です。

日時は、2008.11・30(日曜)で  13:00から16:30

神戸学生青年センター 阪急六甲北側 歩いて5分 078-851-2760 です。

 今回、このような集まりを開こうとするきっかけはいくつかありますが、ひとつはやはり、村尾建吉氏による4冊にも及ぶ松下昇〈全〉表現集の刊行でしょう。「まだ本当には出会っていない「一九六八年」にむかってこちらから手を差し伸べていきたいし、まだ気づいていない多くの問題に出会うたびに、本書で報告し、問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかけるので、」と公開を宣言することから彼の今回の出版活動ははじまりました。村尾の公開性を、自主ゼミの原則との関連で問う私たちの質問に対して、「言葉を交わす気には毛頭なれ」ないなどとしか対応できず、それにもかかわらずその後も刊行を続けているようです。わたしたちが介入することを村尾(ら)はむしろ待っている、と思っています。

さて、小さな集まりをかってわたしたちは繰り返していたので、今回は再開始になります。

「本件に関わる中心的テーマは、ある行為を含む何物かを中断し得る根拠、そして再開しうる根拠は何か。なしくずし的回帰としてではなく情況的生命を真に復活し得る〈再開始〉の根拠の対象化、にあるといえる。」p3 通信<10>号  ある行為とは、やはり占拠〜バリケード化 といった行為が想定されていよう。しかし、そういった行為でなくてもよいのだ。行為の主体が個人ではないこと、それから行為を色づける情況性の存在、自己変革〜超越性という未知の次元への感受性といったものが、あらかじめあるのだ。松下はそれを言葉で説明したりすることなくとも暗示することによりそれを強化し影響力を行使しえた。冷静過ぎる説明だがそうも言えよう。「情況を作っていく」ベクトルを自己に受肉することが当為になる。

橋を、広場を、部屋を、かんたんに通りすぎるな。権力にも、寄生虫的な参加者にも視えない空間が存在するのだ。汝はなぜここにいるのか。もはや、ここから脱出することはできない。

間違ってはならない。(自己とは区別されたものとしての)情況を自己に受肉するのではないのだ。自己つまり仕事や金に囚われているところの自己はわたしにとって疎遠なものにすぎない。であるから、わたしにとってすでに世界は1/3くらい変わってしまっているのであり後は〈再開始〉を愉悦として/苦悩として、行っていけば良いのだ。   案内文がうまくかけませんでしたが、以上です。

(10.12UP)

2008-11-29

”事実も又成長する”

松下昇は、神戸大学における全共闘運動に積極的に参加し、起訴され長い裁判闘争を闘った。

1980年にも {冒頭陳述}書というタイトルの文書を神戸地裁あて提出している。まず自らの事件についてこのように言っている。

α、本件の発生に関する基本的把握について。

  本件は大学闘争の提起してきた、さまざまの問題を包括的に

内~外包しているから、たんに個々の事件の集積として扱ったり

法的にのみ評価するだけでは決定的に不十分である。

  従って被告人側も、公訴自体が大学闘争の全過程と、どのよう

に交差しているかを、まず明らかにしたい。これについては、す

でに昭和五一年九月二十一日に提出したレジュメで基本的にのべて

いるので(略)

 前記のレジュメを、あえて要約すれば、本件の、それぞれの公

訴が提起される時期は、大学=国家が、大学闘争の諸テーマの深

化~拡大に恐怖し、抑圧しようとした、いくつもの時期に一致し

ており、たて前としての大学の自治なるものは、権力と一体化し

た反人民~反存在的なものにすぎない。

検察側は起訴はしてみた

ものの闘争の本質をみぬくことはおろか、有罪の立証さえなしえ

ていないことが万人の眼に開示されつつある。

 私たちにとって権力の弾圧も又、逆用しうる自主講座~自主ゼ

ミの一参加形態であり、”事実も又成長する”という認識から、

検察側立証の~四~年間に、さまざまの新しい発見をしてきた。

検察側にとって事実は過去形の固定したもので、法的? 文章で

記述可能と信じられているらしい。

(時の楔通信第〈2〉号 p15)

 「事実が成長する」とはどういうことであろうか?

歴史を階級闘争史観や国家主義史観などに還元可能なものと考える思想とはそれは相反する。

例えば慰安婦問題であれば彼女たち、底辺にあって売春(であるようなないような)仕事をしている女性たちというものはまともな学の対象にならず、インタビューの対象にもならず、声無き民としてたまに憐れみの対象になるだけであった。しかし近年では彼女たちをひとつの主体として(エージェンシーとして?)微細な権力関係に分け入り、その発言しにくいといった思いも汲み取ろうとする様々な試みがなされている。同じ事象であってもはるかにきめこまかい把握が可能になってきた。

「事実が成長する」とは例えばそういうことでもあろう。


大学闘争は「もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体との格闘」と、松下においては定義される。闘う主体が十全には対象化してきれていない問題意識において格闘は行われた。したがって、可視的な闘争の終了後、裁判でそれをどう位置付けるかといった闘いは単に付随的なものではなく、本質的な問いかけを自分たちに迫るものと考えられた。「事実が成長する」とはそういうことであったであろう。


えーこの文章には、デリダも歴史修正主義も出てきませんが、下記に(も)刺激されて書きました。簡単に言えば、「事実が成長する」はデリダのせりふであってもおかしくない。でそれが歴史修正主義に利用できるかは、歴史修正主義をどう定義するかの問題だ。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128


”事実も又成長する”(2)

神戸地方検察庁 検察官検事S は言う。

(1)右請求書記載の立証趣旨は全べて証人の評価意見を求めようとするものであり、刑事事件における証拠調べである証人尋問は、証人知覚に残った事実の痕跡を、該証人の記憶を通して表現させる手続きであって、証人の意見を開陳する場ではない。

これに対して、松下は次のように激しく反発する。

>> 

証人を実験動物のように切りきざみ、利用し、証人の主体性を黙殺する発想の最低水準の定式化である。公判参加者は被告人、弁護人をふくめて、つねにこの発想に近づいてしまう危険をもつことを自戒しなければならないが。(p25 同パンフ)

 しかし、

「事実」を意見が違う多数が構成していくためには、(1)のような方法論が、ベストではなくともベターだという感覚は、(松下も認めているように)なかなか否定しがたい。これをどう突破していけばよいか。


過去の事実性を転倒不可能とみなす一切のもの

どのような〈悪意〉をもつ眼や〈疲れやすい〉耳にも否定することの困難な〈詩〉の共同実現〜その向こうへの巡礼

p12 時の楔通信〈15〉号


 {私}たちは、パンフや通信の発行が、それ自体としてプラスであると考えたことはなく、全てを表現論的にもとらえなおすところから出立しているが、同時に、権力や存在から一瞬ごとに迫ってくるテーマを放置すれば、たちまち、風に散り、忘却されることも味わってきた。〈十〉年をこえて、きざみつけてきた原則や方法を死滅させてはならないし、過去の事実性を完結したもの、転倒不可能なものとみなす一切のものに、戦いをいどむことなしに一瞬も生きていけない、という、うめきの中で{時の楔}を構想している。

p2 時の楔通信〈0〉号

転載歓迎

あらゆる人が、私たちの表現を掲載し、なにかに共闘していく方向を私たちは歓迎する。同時に、それぞれの発行者〜読者にとっての〈法廷〉における{最終意見陳述}が問われていくことも確かであるが。

(時の楔通信第〈4〉号 p1)