2009-06-27
■ 積の公式と逃走路
α/β/γについて 考えつづけた。
今月頭から、持病の喘息のせいで調子がひどく悪かった。ゆっくり歩いても十数歩のところで息が切れたちどまって休憩しなければならなくなる。(いまではほぼいつもの状態に戻った。それでも普通の人に比べれば能力は低い。)
臨床医は症状によって気管支喘息を定義している。発作性の喘鳴、咳、息切れ、胸部の圧迫感(時間により程度が変化し、気管支拡張薬にて改善する)などが気管支喘息を疑う所見としている。病理学者は組織学的に定義を行っており、好酸球の浸潤や気道壁の肥厚、リモデリングによって特徴づけられる持続性の炎症と喘鳴としている。一方、生理学者は機序によって定義を行っており、多くの異なる刺激に反応して、過剰な気管支平滑筋収縮を引き起こす気道過敏性の状態を気管支喘息と定めている。
喘息についてwikipediaを見ると、自分のことであり良く知っているはずのことが全く知らない言葉で語られ続けており驚いてしまう。
要は、「2世紀にはガレノスは喘息が気管支の狭窄・閉塞によるものであることを記し、」とあるように気管支の狭窄・閉塞による呼吸機能の低下である。
わたしたちの身体を出入力システムとして考える場合、最も重要なのは呼吸による外界からの空気の取入れ/排出である。食事/排泄もあるが、呼吸は常に働き続けないと生きつづけられない。
気管支の狭窄・閉塞により一度に吸える空気量が減少する。
通常吸っている呼吸量をM0とし、それが半分に減った場合をM1とする。
通常の呼吸効率をN0とし、現在のそれをN1とする。
得られる酸素は、M*Nに比例する(Lとする)
α 危機状態を解消するためには、閉塞している気管支を元の太さに戻せば良い。
β それができない場合、呼吸効率をあげればよい。(呼吸回数を増やす、空気の酸素濃度を増やすなど)
γ それができない場合、少ない酸素に適応するしかない。(ほとんど動かずに居るなど)
わたしたちは一定の日常生活のリズムを意識において絶対化しているからLを定数と考えがちだがそうではない。正常な日常においてもLにはかなり大きな変動がある。
M*N=L を(一定の範囲で)成立させるためには、単純に言うと
α Mを増やす
β Nを増やす
γ Lを減らす の3つの方法がある。
その3つの解決方法は等価である。
というか、M*N=L の結果であるLは身体のなかで赤血球などに感知され多様な動きが連なっていく。多数のパラメーターがあり、負または正のフィードバックがある。破綻はない。生から死への移行において、死への瞬間は定義できず、いくつかの奇妙なカタストロフが指摘できるだけだろう。
わたしが数歩歩いて立ち止まったとしてそれはわたしの意志によるのかそれとも身体がそうしたのか、決定できない。いずれにしても、意識はM/N/Lの三つの要素のうち一つだけしか認識できないことが多い。だから、わたしたちの反応はしばしば見当違いで間違った方向へ行ってしまう。
職場の仕事で考えると、10人でやっていた仕事を5人でやれと言われたら、そのときもやはり
α M(人数)を増やす
β Nを増やす 労働強化
γ Lを減らす の3つの方法がある。
βには、一つの仕事が10のステップからなっていたとして、それをむりやり5のステップに切り詰めてしまう、ということも含まれる。わたしたちの社会が息苦しい労働強化に陥っているのは、βに付いてのこのような理解を許さない(発想できない)不自由さにもよっている。
問う〈 〉の位置量や運動量が不確定であるにしても、その積は〈 〉として現れている……という風な仮定をする〈 〉があれば。
表面に現れたMという指標(シーニュ)以外に、現実にはNやLという次元がありむしろそちらの方が影響力を及ぼしているのだがわたしたちはそれに気づくことができない。そうであるとしてそれは私たちを元気づけることができるのだろうか。肯。
わたしたちがもはやどうにも行けない絶望と認識しているとき、その認識には誤りがあり現実には逃走路がN次元的に走っていることを、それは示すから。で、絶望に出会うことによって、人は逃走路に気づく可能性に開かれる。
*1:ここに書いたことは、松下のαβγとは無関係だ。
2009-06-26
■ 告知とは何か?
第3回松下昇からの波及・・・ 開催
直前にこっそり告知しようと思ったが、私はこのブログも匿名でやっているので、テキスト(著者名を含む)を私が一方的に開示することはできないな。
テキストについてはメールでおしらせする(noharra69アットマークジーメールコム)ことにする。
日時:6/27土曜 3時から
場所:カフェ・コモンズ(http://cafe-commons.com/ いまリンクが切れている!)高槻市阪急富田駅前 ウエストビル5F
■ それなりの必死の必然性を持つ
・・・α、β、γが、たとえば政治の領域において、相互に、時間的脱落感、空間的脱落感、組織的脱落感をもっているとして、これらの脱落感は同位であり、どれか一つに拠ることも、循環することも虚しい。・・・p86
はじめに異和がある。その変移を徹底化しようとするするとき生まれるのがαであると定義される。(異和という言葉は使われていない。できれば消去していきたい。)
異和という言葉は疎外論者吉本の語彙であるとして、松下は疎外論者ではない。そう読みたい。
・・・α、β、γのいずれも、なにものかが〈 〉から疎外されようとしているときの回復の衝動から発生している点では同位である。けれども〈 〉の運動は、それなりの必死の必然性をもっているのも事実なのだ。・・・
国家が正義から疎外されようとしているときの回復の衝動から発生している点では同位、とは例えば、日本共産党、革共同、ブントと想定してみて、一方で小異を捨てて大同に付くという思想があるが、それとは逆の〈その変移を徹底化しようとせよ〉〈冬から冬までゼネストだ(吉本)〉という強い潮流が1960年代にあり、その精華として松下が居るのだ。
変移の徹底化それ自身を追求しようとした、と理解しておく。
>>>β、αの運動に対する表現内からの不安を放置するとき<<<
反発に導かれ過激な言動に走ったとしても、ふりかえってそれは自己の思想たりえているのかという疑問。そのような表現内からの不安は放置されてはならない。というか「過激さ」というスタイルそのものが、表現内からの不安自体の表現であろう。
それが回復の衝動から発生していることは事実であるが、それでもそれに掛けつづけることは「回復」という原点から決定的に離脱していくことを意味する。それで良いのだ。と松下は言っている、と思う。
・・・
2009-06-13
■ 議論(自主ゼミ)と自己変容
わたしはある友人(KR)たちとこの十年間哲学とかの読書会を1〜2月に1回やってきた。KRが自宅を提供して会を支えてくれたのだ。わたしのネット上でのある発言が元になり、TM氏から私は罵られ、Fさんからは顔を見たくないと言われるに至り、五人でやっていた読書会は宙吊り、中止となったようだ。これはなかなかさびしい。ところで最近体調も悪い。喘息のせいで気道が狭くなったままなかなか回復しない。やれやれ。
自己が自主ゼミに参加するのではなく、自主ゼミが自己を変容させるという主客の転倒の思想が、あまり考えていないときにもわたしのなかにあるのだなあ、ということを発見したわけです。それが、以下をコピペする趣旨です。
その過程でブログ記事以外にKRさんあて3通のメールを書いた。(彼からは5通)
ps.
議論するとはどういうことなのでしょう?
議論しているKNは「県税事務所職員であるKN」ではないのは当然である。すなわち、議論しているKNは「日本人であるKN」ではないのは当然である。としかわたしには思えません。
もちろん、自己の存在性にしみついた公務員性の脱構築とか自己の存在性にしみついた日本人性の脱構築とかいうことを議論しなければならないわけなのですが。
最初の段階でどう思うかに、けっこう違いがあるような気がしました。
(KR宛 6/2)
大きな問題点は、対話の姿勢というものをどう考えるか、にあります。相手が自分から見て対話の姿勢を持っているそうした場合にだけ対話し、そうでない場合にはすぐキレてしまって対話拒否する。まあそれは普通の態度ですが良くないです。
自分とは違う人間だと思っても言葉のやりとりをする、ほとんど徒労的営為として形式的に捉えられた対話はあります。ブロガーは否応なく学ぶことですが。
(KR宛 6/2 2回目)
発言する自己の立場を限定するべきだとは考えていません。
・・・議論しているKNは「県税事務所職員であるKN」ではないのは当然である。すなわち、議論しているKNは「日本人であるKN」ではないのは当然である。としかわたしには思えません。・・・
いったい議論というものを何だと思っているのだろうと(いまごろ気づいたのか)思ってしまいます。議論というのは終わりのない過程です。
・・・・ この世界で最も幻想性にあふれた領域で、固有のスローガン、戦術を媒介として問われているのは、おそらく、つぶやきからゲバルトをへて国家、さらには宇宙に至る全ての表現の根拠の変革である。とりわけ、表現の階級性の止揚。死語のなだれ、自己と他者に本質的な死をもたらす沈黙への怒り。倒錯した現実へのなしくずし感覚の根底にある自然さを、どのように粉砕するのか。報復と一行の詩。汝の表現論を示せ。汝の原罪性がそこに、ひっそりと息づいているはずだから。(松下昇)・・・・
議論の場には必ず〈サバルタン〉が召喚され、発語主体としてのわたしは糾弾され・・・変容するでしょう・・・
〈サバルタン〉は定義により、権利をあまり持っていないものであり問題意識を持っていない者には無視されてしまうものです。でもそれは不在であっても、〈議論〉が〈議論〉であるためには本来あるべき位階である。
これはわたしが持っている議論のイメージであり、いますぐには他者と共有できなくともやむをえないと考えています。
(KR宛 6/5)
<存在様式として「わたしがいま植民地主義主体である」ことは認めるべき
だ、と私は思っております> について
「わたしがいま植民地主義主体である」とは、資本主義(帝国主義)という国家ー経済体制の中に生きている存在様式を持つKNと名指される人間をいいます。
いっぽう、野原燐とは〈議論〉という秘儀に参加し消耗し変容していくべき
(私)をさします。後段の「だ、と私は思っております」の私はこちら。(同上)
*1:KNはわたしの戸籍名の仮名。
2009-05-02
■ 呼吸や身体の速度
長い間、ここに書き込むことがなかった。
待機している時と、格闘している時に、
呼吸や身体の戦闘速度が、文体や構想にどのような影響を及ぼすか
・・・という自問を組織化しなければならない。
時の楔通信第<10>号の{序}から少し文章を変えて引用する。
待機と格闘とは情況の対比としても考えうる。全共闘=短かった祭りの季節に比べ不活性な時代があまりに長く続いているわけだが、情況の熱気が「文体や構想にどのような影響を及ぼすか」ということは当然第一に考察されるべきことだっただろうが、あまり果たされていない。
ミクロ的にはわたしたちの地味な生活のなかにもハイになったり沈みこんだりといった変化は存在する。
自己の有り様を常にN次元において変容可能なものととらえその後に敵との関係を開いていこうとする姿勢をうかがうことができる、あらかじめ確立された主体の位置からではなく。
2009-03-05
■ 目次について
なんども同じ文を引用することになるかもしれないが、次の文を引用する。
目次について 目次は、読者が、構成を一瞬に把握するために必要であるとして、作成主体からも、同じことが対極で必要である。
時の楔通信 第〈10〉号 序文より
松下昇とはどういう人だったのか、どのような活動を意図しそれはわたしたちの現在に生かすことができるものなのか? 松下についてのサイトを作成している以上そのようなことをまずイントロとしてまず掲げなければならない。
10年以上そうした活動をやってきたのに関わらず、イントロつまり〈序文〉作成というそうした作業をネグレクトしてきた。
道を歩いていて傍らにあった、ある小石に目を止め、ふと拾い上げてみる。そのような無償で偶然の出会いというものを価値と考え、それに近づこうというという、そういう傾向がわたしにはあるということだろう。
命令、責任、義務といった内容の文を扱いながら、自分の実存としてそれを担おうとせず、コピペしてるだけ〜〜 といった無責任性に逃げようとする傾向による、と自己批判的にまず捉えておく。
松下についての既成のイメージ、革命運動についての既成のイメージ、との関わりにおいて松下を紹介しようとするのではなく、もっと他のものとして紹介したかっただけだ。でいまは既成のイメージなんてものはもはやない。で紹介する以上は枠組を用意するしかない。ただわたしがあなたに対して枠組を用意するという身振りを松下は禁止していたという思いもあるのだ。
百のデータがあったら、必ず1から順番に一つづつ処理していくのが普通でありもっとも確実である。*1松下は世界を整除することを嫌った。刊行リストの柱の一つである「時の楔通信」は創刊号を1号ではなく0号から始めている。しかも、0や1という数字自体を嫌いわざわざ〈0〉〈1〉と、〈 〉をつけて不確定化している。しかも、欠号がある、〈6〉と〈11〉号である。全号をあなたが入手し熟読したとしてもそれだけでは本質には至れない、本質は別の場所にある、と告げているのだ。
わたしの場合、時の楔通信のテキスト化の作業を始めたのだが、4、5、9だけが(おおよそ)作成されている。0〜5、7〜10、12〜15 の14冊のうちなぜその3つだけが作業されているのか? 偶然である。まるででたらめである。
松下にまっすぐに向き合うのは困難であるというのは本当か? でたらめであろうとする戦略は、少なくとも読者を獲得できず、ひるがって作成主体も作成されないではないか。
とりあえず、時の楔通信の本文(OCRそのまま誤字だらけ)の作成と同時に、その〈目次〉の作成をめざそう。