2008-12-31
■ 仮装証言とは何か?
誰でも知っているように、完全犯罪は常に可能だ。犠牲者は一人暮らしだった。犠牲者は殺されてしまった。しかがって犯人が語らない限り証人は誰もいない。
語りえないものと語りえるものを分断すれば、何ものかを語りえないものへと抹消した暴力に加担する結果に。語りえないものによって穿たれた亀裂に目を凝らし、語りえるものと語りえないものを架橋する倫理的態度が…
『「語りえない」ものと「語りうる」ものの可能性の中で主体は分裂しているが、他方で「語りうるもの」と「語りえない」ものの間にこそ「証言」の主体はあるのだ』
犠牲者の経験を引き継ぐことが、肝要なのです。たとえ「痕跡」しかなくても、私たちの心と体に刻みつけること。辛く苦しい作業ですが、二度と同じ歴史をくりかえしたくないと思うなら痕跡を刻み引き継ぎ続けましょう F
Fは 高い声で叫んだ。風が吹いてきて叫びは吹き飛ばされた。
・・・それは何を意味するか。
Fが叫んだ内容を私は聞き取ったわけではない。しかしいまここにFはいないので私が語るしかない。Fが言いたかったことは私に分かるから。そして、ここは裁判所だ。わたしがここで発言するためにはFと名乗らなくてはならない。私は「Fです。」と語り始める。(野原)
4)仮装とは何か?
「仮装概念と接している存在の違法性領域に注目せよ」という北川透の指摘。・・・
「当事者Aがある日時においてBという場所に居た」とCが証言する。「事実(真実)」は単一で矛盾がないそのような実体であると、法ー裁判システムは本気で信じている(ことになっている)。
このような「事実」観は簡単に捨てるべきものではないでしょう。例えば南京大虐殺でどこでどれくらいの人数が殺されたのかといった、問題に対し実証主義的議論は必要だからです。
自主ゼミ実行委員会は、実証主義的議論を否定するものではないでしょう。ただあるサバルタンが、無罪の証拠を提出できなかったとしても、彼女が沈黙している(させられている)彼女の抑圧の総体を担う覚悟のある者だけが、彼女を裁きうる、とイエスのように言うでしょう。(野原)
4-2)「当事者Aがある日時においてBという場所に居た」とCが証言する。実証主義的事実観あるいは、それに抵触するが排反はしない〈本質〉主義的事実観において「Aはそこに居た」という事実がある。それをC1という人は証言しうる。しかしC1は、闘争に背を向け秩序に埋没したいという気持ちに囚われているため、証言しない。そこでかってC1の親友だったC2が、私がC1であるとして証言する。
仮装証言の原型とはこのようなものでしょう。(野原)
引き継ぐことは私にはできない。
わたしにできるかもしれないことは〈仮装証言〉することだ。いくじなしの野原にできるかどうか。