2009-02-11
■ (書簡)問いかけ〜審問〜対話
応答とは、最初のことばを、したがって最後の言葉を断念することである。
(ヴァルデンフェルス)
ある本の一節*1から文脈抜きにこの言葉を引用しておく。どこか不思議なだがわたしにはとても大切なことを言っていると思われる断言だ。
わたしはわたしである、という自同律にこの社会は根拠をおいている。しかし考えるとわたしなんて社会的には無に限りなく近いのでありつまり、わたしではなく「自同律」の方がこの社会に必要なわけだ。永遠なるイデアの世界の虚妄性、有害性については書かない。にもかかわらずつねに「わたしはわたしであり」、このひどく軽い断言はわたしたちの認識の外にある。
■ 対話の哲学
まあわたしのブログは、チラシの裏(=モノローグ)に最も近いブログと呼ばれたりするわけですが。それでも読んでくださるかたはいるわけで「対話」として側面も存在します。つまり「対話」というのはふつう常に、当為として価値として語られる。それでつい「はいはいわかりました・」といった心理反応を引き起こしがちだ。そうではなく(哲学的に考えるなら)誰しも対話から逃れて存在しうるわけではない。
(1) 対話は時間のうちで展開されるのではなく、むしろ時間は対話において生起する。というのも、時間が生起するためには、他者が居あわせることが必要だからである。
(2) 対話者がそれぞれみずからの語ることを他者に依存しているということは、対話者が、最初のことばと、最後の言葉を断念することである。しかしこれは、対話者が対話によって開かれた世界のただなかに、そのつど「いま」、現在進行形で生きるということにほかならない。ここからすれば、対話者にとって世界はいかなる「外部性」ももたず対話者に内在的である。
(3) 対話者がそれぞれ他者に依存するということは、彼が「待つ」ということを学ぶことである。「待つ」ことによって、未来はそのつど先取りされる。ここでは世界は「いまだ到来しないもの」としてそのつど存在することになる。世界は対話者に対していつでもある一定の超越性を保ち続けるのである。
(村岡晋一)*2
ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig,1886年12月25日 - 1929年12月10日)ドイツ生まれのユダヤ人哲学者。)の対話論の村岡氏によるまとめ。「この哲学にもとづくならば、デカルトやカントのように、この世界に存在するものの確実性が〈わたし〉という意識の確実性に支えられているとか、ハイデガーのように、世界とは私という〈現存在〉が投げ企てるものだといった、どうみても無理のある考え方をする必要はもはやなくなる。」とのこと。
世界は「いまだ到来しないもの」「開かれたもの」だ、と聞くとなんとなく元気がでるような気がする。と、その程度の感想なわけですが。というか、わたしは偶然にも「世界はいまだ到来しないもの、開かれたものだ」という思想に出会い、それを生きようと*3してきた。(当たり前のことをなにを大そうにともいわれるでしょうが。)
あなたと私の対話のなかに、わたしたちがすでに前提としている〈最も遠い他者〉を招き寄せること!、この条件を付け加えるなら、この対話の哲学はとても使えるもの、ではないでしょうか。