2009-06-26
■ それなりの必死の必然性を持つ
・・・α、β、γが、たとえば政治の領域において、相互に、時間的脱落感、空間的脱落感、組織的脱落感をもっているとして、これらの脱落感は同位であり、どれか一つに拠ることも、循環することも虚しい。・・・p86
はじめに異和がある。その変移を徹底化しようとするするとき生まれるのがαであると定義される。(異和という言葉は使われていない。できれば消去していきたい。)
異和という言葉は疎外論者吉本の語彙であるとして、松下は疎外論者ではない。そう読みたい。
・・・α、β、γのいずれも、なにものかが〈 〉から疎外されようとしているときの回復の衝動から発生している点では同位である。けれども〈 〉の運動は、それなりの必死の必然性をもっているのも事実なのだ。・・・
国家が正義から疎外されようとしているときの回復の衝動から発生している点では同位、とは例えば、日本共産党、革共同、ブントと想定してみて、一方で小異を捨てて大同に付くという思想があるが、それとは逆の〈その変移を徹底化しようとせよ〉〈冬から冬までゼネストだ(吉本)〉という強い潮流が1960年代にあり、その精華として松下が居るのだ。
変移の徹底化それ自身を追求しようとした、と理解しておく。
>>>β、αの運動に対する表現内からの不安を放置するとき<<<
反発に導かれ過激な言動に走ったとしても、ふりかえってそれは自己の思想たりえているのかという疑問。そのような表現内からの不安は放置されてはならない。というか「過激さ」というスタイルそのものが、表現内からの不安自体の表現であろう。
それが回復の衝動から発生していることは事実であるが、それでもそれに掛けつづけることは「回復」という原点から決定的に離脱していくことを意味する。それで良いのだ。と松下は言っている、と思う。
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