2009-06-13
■ 議論(自主ゼミ)と自己変容
わたしはある友人(KR)たちとこの十年間哲学とかの読書会を1〜2月に1回やってきた。KRが自宅を提供して会を支えてくれたのだ。わたしのネット上でのある発言が元になり、TM氏から私は罵られ、Fさんからは顔を見たくないと言われるに至り、五人でやっていた読書会は宙吊り、中止となったようだ。これはなかなかさびしい。ところで最近体調も悪い。喘息のせいで気道が狭くなったままなかなか回復しない。やれやれ。
自己が自主ゼミに参加するのではなく、自主ゼミが自己を変容させるという主客の転倒の思想が、あまり考えていないときにもわたしのなかにあるのだなあ、ということを発見したわけです。それが、以下をコピペする趣旨です。
その過程でブログ記事以外にKRさんあて3通のメールを書いた。(彼からは5通)
ps.
議論するとはどういうことなのでしょう?
議論しているKNは「県税事務所職員であるKN」ではないのは当然である。すなわち、議論しているKNは「日本人であるKN」ではないのは当然である。としかわたしには思えません。
もちろん、自己の存在性にしみついた公務員性の脱構築とか自己の存在性にしみついた日本人性の脱構築とかいうことを議論しなければならないわけなのですが。
最初の段階でどう思うかに、けっこう違いがあるような気がしました。
(KR宛 6/2)
大きな問題点は、対話の姿勢というものをどう考えるか、にあります。相手が自分から見て対話の姿勢を持っているそうした場合にだけ対話し、そうでない場合にはすぐキレてしまって対話拒否する。まあそれは普通の態度ですが良くないです。
自分とは違う人間だと思っても言葉のやりとりをする、ほとんど徒労的営為として形式的に捉えられた対話はあります。ブロガーは否応なく学ぶことですが。
(KR宛 6/2 2回目)
発言する自己の立場を限定するべきだとは考えていません。
・・・議論しているKNは「県税事務所職員であるKN」ではないのは当然である。すなわち、議論しているKNは「日本人であるKN」ではないのは当然である。としかわたしには思えません。・・・
いったい議論というものを何だと思っているのだろうと(いまごろ気づいたのか)思ってしまいます。議論というのは終わりのない過程です。
・・・・ この世界で最も幻想性にあふれた領域で、固有のスローガン、戦術を媒介として問われているのは、おそらく、つぶやきからゲバルトをへて国家、さらには宇宙に至る全ての表現の根拠の変革である。とりわけ、表現の階級性の止揚。死語のなだれ、自己と他者に本質的な死をもたらす沈黙への怒り。倒錯した現実へのなしくずし感覚の根底にある自然さを、どのように粉砕するのか。報復と一行の詩。汝の表現論を示せ。汝の原罪性がそこに、ひっそりと息づいているはずだから。(松下昇)・・・・
議論の場には必ず〈サバルタン〉が召喚され、発語主体としてのわたしは糾弾され・・・変容するでしょう・・・
〈サバルタン〉は定義により、権利をあまり持っていないものであり問題意識を持っていない者には無視されてしまうものです。でもそれは不在であっても、〈議論〉が〈議論〉であるためには本来あるべき位階である。
これはわたしが持っている議論のイメージであり、いますぐには他者と共有できなくともやむをえないと考えています。
(KR宛 6/5)
<存在様式として「わたしがいま植民地主義主体である」ことは認めるべき
だ、と私は思っております> について
「わたしがいま植民地主義主体である」とは、資本主義(帝国主義)という国家ー経済体制の中に生きている存在様式を持つKNと名指される人間をいいます。
いっぽう、野原燐とは〈議論〉という秘儀に参加し消耗し変容していくべき
(私)をさします。後段の「だ、と私は思っております」の私はこちら。(同上)
*1:KNはわたしの戸籍名の仮名。