松下昇~〈 〉闘争資料

2009-03-05

目次について

なんども同じ文を引用することになるかもしれないが、次の文を引用する。

  目次について 目次は、読者が、構成を一瞬に把握するために必要であるとして、作成主体からも、同じことが対極で必要である。

時の楔通信  第〈10〉号 序文より


松下昇とはどういう人だったのか、どのような活動を意図しそれはわたしたちの現在に生かすことができるものなのか? 松下についてのサイトを作成している以上そのようなことをまずイントロとしてまず掲げなければならない。

10年以上そうした活動をやってきたのに関わらず、イントロつまり〈序文〉作成というそうした作業をネグレクトしてきた。

道を歩いていて傍らにあった、ある小石に目を止め、ふと拾い上げてみる。そのような無償で偶然の出会いというものを価値と考え、それに近づこうというという、そういう傾向がわたしにはあるということだろう。

命令、責任、義務といった内容の文を扱いながら、自分の実存としてそれを担おうとせず、コピペしてるだけ〜〜 といった無責任性に逃げようとする傾向による、と自己批判的にまず捉えておく。


松下についての既成のイメージ、革命運動についての既成のイメージ、との関わりにおいて松下を紹介しようとするのではなく、もっと他のものとして紹介したかっただけだ。でいまは既成のイメージなんてものはもはやない。で紹介する以上は枠組を用意するしかない。ただわたしがあなたに対して枠組を用意するという身振りを松下は禁止していたという思いもあるのだ。


百のデータがあったら、必ず1から順番に一つづつ処理していくのが普通でありもっとも確実である。*1松下は世界を整除することを嫌った。刊行リストの柱の一つである「時の楔通信」は創刊号を1号ではなく0号から始めている。しかも、0や1という数字自体を嫌いわざわざ〈0〉〈1〉と、〈 〉をつけて不確定化している。しかも、欠号がある、〈6〉と〈11〉号である。全号をあなたが入手し熟読したとしてもそれだけでは本質には至れない、本質は別の場所にある、と告げているのだ。


わたしの場合、時の楔通信のテキスト化の作業を始めたのだが、4、5、9だけが(おおよそ)作成されている。0〜5、7〜10、12〜15 の14冊のうちなぜその3つだけが作業されているのか? 偶然である。まるででたらめである。

松下にまっすぐに向き合うのは困難であるというのは本当か? でたらめであろうとする戦略は、少なくとも読者を獲得できず、ひるがって作成主体も作成されないではないか。


とりあえず、時の楔通信の本文(OCRそのまま誤字だらけ)の作成と同時に、その〈目次〉の作成をめざそう。


1972年に記事掲載

http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/19720119/p1


〈 〉焼きを作ったことは松下に何をもたらしたか。大学で料理することは場違いである。シュールレアリスム規範の侵犯。だが料理が料理であるためには、細部の手順をきちんと踏まえなければならない。それが欠けるとたとえたこ焼きのようなチープな料理であろうと食べられるものにならない。若者は規範の侵犯(とその裏面としての排除手続き*2)に気を取られる。しかし料理の実質を疎かにしてはならない。

*1:ただしもっとも効率的であるかどうかは分からないが。

*2:刑事、裁判手続きを含む