松下昇~〈 〉闘争資料

2007-12-30

時間がない。

いや時間はいくらでもあるのに、< >に費す時間がないのだ。なぜなら< >に振り向くためにはわたしはわたしを弯曲させねならず、それが少しだけ支払うに重いものであるというだけだ。

さて、論理的重心を確認し、情況的弯曲を測定することはいつでもできる。

著作権

著作権などという資本主義的な考えは村尾にも、クラブにも当然ありません。(略)あえていえば、それは我々の誰にもなく、(略)松下さんの創出した情況にしかないのではないですか。」(村尾

村尾さんの創出した情況がその〈公開性〉において、著作権を保持する。と村尾は言うべきであった。

そうでないとすれば、村尾の根拠はどこにあるのか?

野原たちの創出した情況がその〈公開性〉において、著作権を保持する。とわたしは言う。

テーマの自己展開の強度

むしろ、自己の軌跡の対象化〜その努力という視点に立ったとき、野原燐がそもそも松下の後継者のような顔をして存在しうるのか?と問いを立てるなら、不合格〜不可能とされることになろう。

・・・

とりあえず「掲載しようとするビラや文章が追求している問題をどう共有していくかが問われつづけている」、という問題設定をわたしたちが共有しているとして考え続けましょう。

野原は松下の後継者なのか、というのは偽の問である。

村尾/野原は松下から切断されている。にもかかわらず松下をコピーする。

自己が自己以上の者である(あろうとしている)という自己の拡大性を自己肯定することが村尾の根拠、他者の表現をコピーしようとする権利の根拠なのでしょうか。

ある共同性は自主ゼミ実行員会を名乗り自己確認することにより、他者の表現をコピーする権利を取得する。野原の立場はありていにいうとこうしたものか?であれば村尾が同じことをすこし違う文体で自己確認しているとしてそれを否定する根拠はどこにあるのか?

村尾は「同じことをすこし違う文体で自己確認している」訳ですらない。自己の根拠を率直に開示していこうとする構えに村尾は欠けている。