昨日、子どもが釣りをしたいというので海に行った。空があり時折海鳥が舞う。夕日が海面を照らす。私という時間。わたしは本を読み、それだけでなく小さな音楽プレーヤーから音楽を聴き続けた。私は何を恐怖していたのだろう。私という時間を恐怖しているのか。
ところで、ブログは日記に似ているが、日記が自己と向き合い自己を構築してしまうツールだとすると、ブログは逆に自己を言説(自己のコミュニケーション可能な地平)に平板化し自己と向き合う恐怖から逃亡するためのツールだといえる。言えるかもしれない。
恋人を裏切る最高の方法は、十年待ち続けることである。そのとき他者(生きていてあなたの意のままにならない)は消滅し、あなた好みの恋人像だけが残るだろう。偉大な人が死んだ後も同じだ。弟子たちは十年間沈黙する。師の思想を語らなければならないが語ることができない。おまえの発言はわたしの思想からの逸脱だと叱責する師の声が、薄れていくのを十年間待ち続ける必要があったのだ。
そうであるとするならいまさら松下について語ることになんの意味があるだろう?ある核心が死滅した後に、ステージが回り小人たちがしゃべりはじめる。
しかしながらそれが嘘だと私は知っている。わたしの私としての自主ゼミの展開が、たとえ稚くとも一つの核心がそこには確かにあったのだから。
その祈りあるいは核心とは何だろうか? それを直ちに問う前に少し迂回しよう。
これまで見慣れた拠点や人間を〈初めてすれ違う〉感覚で把握し、自己や他者の軌跡を六九年から現在に至る〈 〉過程の全テーマとの関連において、大衆団交位相で(いいかえると、関わりのある全ての人に公開され、声をとどけようとする深さで)共同検証するプランが必要ではないか。
(いいかえると、関わりのある全ての人に公開され、声をとどけようとする深さで)
「深さ」あるいは「祈り」という態度は禁じられているとする俗流ポストモダニズムを私は受け入れていた。というより、若い頃からある思想を思いこみによって深めていくといったスタイルに私は嫌悪しか持たなかった。思いこみを硬直させることと祈りを深めることは何処が違うのか。祈りとはある思いを、自己から解放し世界に関係に開いていくことであろう。私は訪ね尋ねなければいけない。〈何か〉が死滅する前に。
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以上はたぶん5/6くらいに一度UPしてその後、削除したもの。
「削除」は何の為になされたのか?