野原氏の1月28日付『下層ではなく 仮想か 仮装』について
<仮装>から<関係>が希薄になるに従って<仮想>に近づくし、逆に、<仮想>が<関係>を際立たせて行くに従って<仮装>にかぎりなく接近しうるといった関係を<仮想>しています。
私は、主観の<自由>の仮象運動という共通性や強度よりも、生のままの現実(累積的な諸力や関係性)に交差する主観の構造の分岐性こそを重要だとみなします。
<仮想>の「創発的」な方向軸は野原氏の引用した文にもあるように偶発的~流動的出来事に向かって流出しており、必ずしも<仮装>の方を向いているわけではないでしょう。
例えば、「松下の<著作権>は~に存する」という場合の仮装性は、「松下の<家族>を含む」を欠いているならば<仮想>であって<仮装>ではあり得ないと、私は思っています。
たとえ権利の行使において<家族>が現行法を根拠に暴走したとしても、そういう事態に交差する過程で各自の<仮装>の本質が現れるのだと考えます。(<家族>が関係性を無視した暴走に陥っていない意味はけっして小さいものではないし、むしろ、その意味を一顧だにせぬ村尾氏という位置からの、<仮想>的な逆<仮装>性が出現している!)
松下表現からの引用における<誤植>は私も気にはなっていましたが、村尾氏本人とは違う思いがけない場からの指摘で、より広い討論のきっかけが生まれているのは祝福ですね。
2007.1.30 eili252
村尾建吉 様
(仮称)仮装被告団~刊行委員会というネット上のページ(同名で検索すれば出てきます)にeili252記名で簡単に感想を記しておりますので、そちらもご参照ください。
今回、直接メールしたのは以下の点を確認しておきたいからです。
①松下昇の表現をこのような形で収録~販売することについて、遺族には一切相談も連絡も無かった旨、松下夫人から連絡が来ました。大変困惑し苦痛を感じておられます。私は答えようがありませんので、あなた(たち)が収録~販売することに関して彼女らの存在を完全無視している根拠を公にしていただきたい、というのが1点目です。
②今回の本は、①の遺族を除く何らかの関係者の間での協議を踏まえた刊行~形態だったのでしょうか、その関係者と協議内容についてお教えください、というのが2点目です。呼びかけの趣旨から考えても、少なくとも刊行過程の<収録>は本の成立条件でしょうから。
③3点目は、最低限①②を包括しない形での収録(転載?)~販売を松下昇があなたに委託したはずはないと原則的に思いますが、事実はどうだったのか遺族を含む関係者に松下の文書なり趣旨なりを公表すべきではないでしょうか、また、言われている「収録」と「転載」の違いをどうお考えなのかお教えください、ということです。
私は現行法的位相に問題を縮小して考えているわけではありませんが、<表現の私的所有の転倒>どころか、今回の本の出現過程は資本制以下への表現論的退行ではないかと感じました。独自の見解や事情がおありなのでしょう。とりあえず、以上についてご回答いただければ「活字の背後」にある問題の<一>部としてより広い場や関係性に伝えながら考えていきたいと思います。
2007年1月4日
北九州市在住 永里繁行(メールアドレス eili252@excite.co.jp
追記・野原さん
村尾氏へのメール写しを載せておきます。前回お手数をおかけしましたが、日記の主体が設定を変えられるページがあることに今頃気が付きました。彼の返信を受け取ってから、必要があれば誰でも読めるように切替ようと思います。
拠点<論>
年の瀬の気配が漂い始めた11月の終り、西宮のT氏から「松下昇クロニクル」が届いた。A4版200ページに及ぶ。
自らの関心に沿って、また一定の網羅性~概観性を意図して、松下昇生誕年から出立年にいたる60年間の軌跡を、関連表現の所在や社会事象と共に要約列記している。ぼう大な資料群の手触りや作業の息遣いが伝わってくる。彼が6年ほど前から独自に手がけているものの改訂版と言えるが、まだ決定版ではない。欠落や重複部分の修正~不可欠な記事の補充~読みやすい形式や質量への抽出~等、関係性への共同作業の提案もこめられている。
T夫妻と松下との出会いは極めて情況的であった。或る事件で無残に失われた幼い命の側から真相に向き合わざるをえない現れが国家権力に利用されてしまうという矛盾に苦しみ、冤罪事件として拡大する支援の動きから孤立して組織的な攻撃にもさらされた夫妻の位置を、法的被告人の位置と対等の深さで松下は包括しようとした。
「正しいことを語っている~権力と闘っている」と自認する組織や個人の陥りやすい欠損~反<存在>性に対する松下ほどの感受性を私は他に知らない。それは、<大学>闘争の過酷な影響から愛息(未宇さん)が障害を持って生まれ、幼いまま他界したことにも関連して、単に思想的射程という以上の<原則>性を帯びて松下の闘いの基調を形成していた。
常に動いている現実過程の諸関係において、最も弱い位置に追いやられる(死者を含む)存在への想像力と自らの存在責任を、各構成員が自己告発する深さで共有し、止揚プロセスを一瞬毎に繰り込みえない運動はもはや本質的には成立に価しないと言うべきだろう。松下の<原則>は他の様々なテーマにも一貫している。
前世紀末の被告人<無罪>の終結を彼が知ることはない。しかし、権力位相での決着を超えて全ての事件性の本質は彼の<原則>の方向軸に生き続ける。
松下昇気付刊行委員会が不可視化した後の<10>年を、自分にとって<失われた10年>と呼ぶことはたやすい。しかし、己が非力につまづいているのだとしても、そう言い切ることで破棄される個々の時間などほんとうは存在しない。既に去った人にとっても、未だ悶々と生きている私にとっても情況の渦中で内向せざるを得ない表現過程がある。
当初浮上した遺稿集~追悼集の宙吊りについても関係者の力量がしからしめたマイナスとのみ発想してはならないのではないか?松下の表現過程自体がパンフ化や出版に関わる旧来の全発想を批判しており、その批判の本質を踏まえた展開主体~関係性が<永久>に未成立~不可能である事態に、< >闘争の真の恐ろしさと、その向こうに広がる新しい何かも予感されて存在するのである。
遺族的位相の人たちとの<著作権>テーマを含む自主ゼミ性を潜りながら、既刊パンフの複写や<販売>を細々と継続している過程で様々な出会いも別れもあった。その一つ一つに十分に対応できなかった禍根が胸を突く。しかし、山浦氏が「松下昇追悼資料集(抄)」を私たちに交差させ、野原氏が自問を重ねながらネット上での表現公開を持続している等の未来に繋がる動きも多く存在する。自らの拠点でまだ可視化することができずにくすぶっている作業群~との関連において何度でもとらえなおしたい。松下の表現過程が照らし出している個々の超生涯的テーマがそれぞれ遠くまで深く孤立しているとしても、各々の足下を粘り強く潜り続けることなしに未踏の共同表現の地平は見えてこない。T氏の作業は象徴的な現れであり、叱咤激励でもあろう。
「松下昇クロニクル」を受け取った数日後、仕事の合間にネットを何気なく検索していて驚いたことがある。71年以来、鋭い批評的通信を発行し続けて来たM氏の主宰するHPで、松下の1969年以前の<全>表現を本に<収録>して複数の書店で販売しているという記事に出会ったのだ。
これはどういうことだろう。HP上の掲載表現について自らの著作権を明記しているのに、松下昇の<著作権>にどう対応したのか「呼びかけ文」を読んでも不明である。
「革命的な本」「40年の隔絶に踏み込む契機」「25時に向き合っていく狂熱を予感」「活字の背後の膨大な世界に触れることが不可欠であるような書物」といった言葉が見られるけれども、松下が刊行してきたパンフ群との関連や位置付け、今回のような<収録>~<販売>方法が生前からの松下の委託によるのか、連続性においてか、あるいは何らかの断絶断念の結果なのか、今、このような形で出現させるに到る関係的必然性が明確に語られているようには見えない。気の利いた既成出版の広告文のようにしか響いて来ないのだ。購入すればそれが見えるのだろうか?
本箱に納まるような表現の有様を忌避せざるをえない不可避性を帯びて連続した表現過程における可視的部分が、主体の出立後は<基本的に廃棄してよい>と言いうるほどの公開性に差し出されているとして、M氏はどのような回路を通って、松下の<遺言>の真意と現在の<無言>を聞き取ったのであろう。その<全>回路の公開性こそが、今は直接応答不可能な他者性の表現を本に収録する以前に、関係性の声として<収録>されなければならない<文学>の外における、自発性・責任性に基づく拠点的対応ではなかったのか?
2006.12.18 eili252
追記・野原氏へのお願い
私の日記は設定上プライベートモードになっているため、任意の人が自由に見ることができないようです。できれば、今回の日記の複写もしくは主宰者の関連コメントを何処かすぐに読める場所に貼り付けてもらえないでしょうか。
<南無阿弥陀仏>
小林秀雄の1文に誘発されて前回・前々回とブログに載せた雑文が何事なのか、自分でもよく分からないままであった。ありふれた日常を引きずりながら深まって行く己の<秋>を見つめている場面に、錐をもみ込むような情感の痛みがいつものように帰って来る。
踏み跡の無い時間の痩せ尾根の緊張感と、それとは一見矛盾する悲哀とを伴った古い記憶が<現在>への批判を強めるからか、貫徹できずに放置してきた<ことば>の破片群が存在と心象の深い裂け目を周期的に吹き上がってくるからなのか?反射的に引き寄せようとする言葉は、治癒や緩和のための療法機能を持ちえず、苦痛を加速して回帰円環の軌道上をできるだけ速く遠くへ通過させようとする足掻きなのかも知れない。
『「愛欲の広海」にさ迷いながら、
わたしの今ここの生こそが肯定される!
わたし自身の斗争スローガンを発見せよ、という命令が、わたしの南無阿弥陀仏である。』
翌21日付でも、
『欲望を否定しなければいけないという命令を立てたとすると今度はその命令が逆に(朱子学の
リゴリズムのように)わたしたちを抑圧してくる。否定自体が無明に転化するみたいな感じか。
そこで悪を恐れるな!といった意見も出てくる。禁止や倫理自体から自由になる必要がある。
それはそうなのだが、それだけでは足りない。私たちはすでに囚われておりそれから自由になる
必要がある。
南無阿弥陀仏。どのようにして? 常に虚数方向に〈死〉を励起することによって。』
どのようなドラマが、<念仏>のリズムをここに呼び込んだのだろうか?
この<南無阿弥陀仏>の影響をどこかで感じていたことに思い至る。
生前の父の呟くような「なまんだぶ」は、他の言葉にはできない何か深い思いや親しさを感じさせたものだ。年とともに縮んでやがて見えなくなった彼を機縁に身内や坊さんの唱える念仏を耳にしながら、「私だけの言葉に包括できるだろうか」といつも考える。
「わたし自身の斗争スローガンを発見せよ、という命令が~」と野原氏は記す。おそらく<念仏>の持つ「自由」への希求リズムを自分にとっての意味に翻訳してみることが、彼もその時とりあえず必要だったのだろう。
「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏が信仰的に現象して来る関係の本質に帰ります」という表明であり、同時に、<私>を形成している属性や力の全否定である。何故なら、一切衆生救済の願心(阿弥陀仏)という現象だけが、(その現象を含む)全てを現象させている「苦」自体としての世界に内在する唯一の転倒契機だから…それに帰依しますと表明することだけが<私>の選びうる<最終>的な言葉だから…ということであろう。
「あらゆる存在に常住不変の実体は無く、存在とは、我も人も、また神も仏も、例外無く縁起(関係という本質)の現象したモノ、ないしはその変化の態様に他ならない」といった存在概念が基底にある。「人たる種と類の(小林によれば)一種の動物状態=無常」に対して自立的であろうとする苦しい観念運動が、生死の実態を包括しようとする壮大な虚構(~フィクション)世界に写像されて<最終>表明を呼び寄せる。
親鸞は往相還相という時間概念で永久的な無明の死に拮抗する生の過程の空間化を試み、狭い「無常」観から人の意識を救出しようとした。しかし、その苦闘の意味は衆生の関係の根に届いているだろうか?権力に収奪される<念仏>を含む言葉の相を歴史は相変わらず写しているだけだ。
発した言葉の実体は、そのままでは無限に広がる関係の闇そのものに呑まれてしまう。言葉も常に「死」を内在させた現象である。野原氏は~虚数方向に死を励起する~積極的な死の内在化を<自由>に直面させよ、と自問する。観念運動に閉じて行くのではなく、開かれて行く「南無阿弥陀仏」の語感から(~へ)の転倒。
ところで、<私>という存在はどのような言葉の構造と一緒なら、死を生の理不尽な切断以上のものとして受け止め、駆け抜けて行けるだろう?
小林の山王権現付近での心理体験も、親鸞の六角堂の夢告体験も、苦闘の限界点で意識が引き寄せた(られた)一種の<臨死体験>であり、<性>の究極的励起とも言いうる質が予感される。
松下昇にも同質のエピソードがいくつか自他のメモとして残っている。或る宗教教団の全国的な集会に参加~発言しての帰途、「レットイットビー」の聞こえて来た駅構内で、製作者の意図さえ超える楽曲の極限的イメージに共振して松下は失神する。生活的~身体的<疲労>度もさることながら、自己の<悪霊性の凝視>の果てに、聖母マリアの言葉に仮託された或る<誘い>の旋律やリズムが、不可避な彼の<現在>を全的に肯定し包括する<ことば>となって交差したに違いない。
親鸞・小林・松下と、勝手に引き寄せた脈絡のない3者の体験に共通するイメージを、私は<極限のエロス>とでも言って見たいのである。おそらくは万人に訪れてくるであろうこういった体験を、各々の生死の際立つ<場>に出現して来る<性>の本質としてイメージしたいのであるが、小林の言う「その一つ一つがはっきり分かっている様な時間」や、親鸞の言う「正定聚」や、野原氏の記す「虚数方向に死を励起すること」とも無関係ではないと思う。<念仏>、否、広い意味での<祈り>の原初性を想像しながら、<死>を駆け抜けて行く自身の<最終>的一句一節を幻視しているのだろう。 2006.10.30 eili252
反転する夢告
「一言芳談抄」は鎌倉初期の念仏者たちによる法語~説話集であるという。今しばらく「なま女房」にこだわってみたい。と言うのも、文明史の基層における女性的なるものの水位が当時の抑圧構造の基準値を超えてあふれ出す様を直感させられるからだ。初期専修念仏集団がもたらした地震は、救済概念の宗教的理念化~思索と実践の<最終>形態の模索と同時に、歴史に閉ざされた性の再発見を随伴せざるをえなかったことによってより増幅し、時の権力の弾圧衝動を誘発した。
1201年、29歳の親鸞が書き留めたいわゆる「六角堂女犯の夢告」は以下の趣旨だろうか?
『「仏道修行者がその宿縁応報によってたとえ女人を犯すことになろうとも、私は玉のような女身となって犯されよう。その者の生涯に亘って荘厳に関わり、臨終に導いて極楽に産んでやろう」救世菩薩はそう文言を唱えて言われた「この文は私の誓願である。全ての民衆に説き聞かせよ」数千万の有情の者らにこれを聞かせたところで夢から覚め(私はその意味を)悟った。』
京都の中心にある六角堂は聖徳太子を讃仰する民衆によって建てられ、密教系の如意輪観音を奉ず。比叡山から100日間通い続けた95日目にこの夢を見たとされる。救世菩薩は太子の化身、言わば<非>性的存在概念である。
<生理的自然としての自分の男性<性>と即対称的な女性<性>が存在するのではなく、人智の及ばない真理からやってくる一切衆生救済の願心が生身の女性に化身して、生理的自然の対象としても自分に現前している>
親鸞の性の意識はこのような宗教的転倒を通して、初めて自らの生理的煩悩を包括する状態に至ったと言えるだろう。妻帯をあからさまに宣言する決断と相前後して、彼は長い厳しい修行の場であった比叡山から法然の元へ下る。
61年後、親鸞入滅の知らせを受けた妻の恵信尼は後生大事に保管していたこの「夢告」の文を書き写し、末娘の覚信尼への返信に添えている。
歴史学者古田武彦は著書「わたしひとりの親鸞」の中で「比叡山脱出の共犯者」という項を設けて「夢告」に対する恵信尼の心理を透視しつつ、他ならぬ彼女の存在こそが比叡山脱出の主原因であったことを論証している。恵信尼は越後の豪族三善氏の娘と言われており、9歳年長の親鸞とは「承元の法難」で彼が越後に流されている時に知り合い結婚したという説、20歳代に京都九条家など上級公家の屋敷に女房として仕えていた時期に出会ったという説がある。古田は後者の説に立つ。
出会いの具体的事実について本人たちの証言は残されていない。私の関心の方向からは、「一言芳談抄」の「なま女房」の背景には複<素>数の若き恵信尼が想定されると言いうるだけだ。
浄土真宗が一定の宗教的地位を確定した後代に書かれたと思われる「親鸞聖人正明伝」には、「夢告」の3年前(親鸞26歳の時)、延暦寺別院赤山禅院での女性との遭遇が描かれている。
年来の宿望比叡山への参詣を実現したいので連れて登ってくれと頼まれ、山の女人結界の理を説く親鸞に対して、比叡山の女性差別を徹底的に批判し、既存仏教の偏狭さを乗り越え、全ての人を包括しうる救いの道を示してほしいと宝珠=如意を託して女性は去る。
3年後に親鸞は如意輪観音(六角堂本尊)を本地とする功徳天女の化身が自分を導くために現れたことを悟る、といった筋だ。ここには「夢告」への道筋を付け、親鸞の宗教的位置をさらに補強しようとする意図がありありと感じられ、門外漢にとっては逆に「ありがたい」気がしない。
巫女に仮装して結界に入り込み、「とてもかくても候、なうなう」と歌う「なま女房」の迫真性とエロスほどにはこちらの内奥に触れて来ないのだ。彼女の歌や鼓を含む行為とその釈明との落差には性のきららかな狂気がほの見える。闇の中で反転する念仏者の「夢告」と非対称の…。
ところで、親鸞の臨終は病のためひどく苦しいものだったのだろう。恵信尼は臨終に立ち会った末娘に宛てた先の私信に、かつて、法然上人が勢至菩薩、夫が観音菩薩として、共に自分の夢に顕れたことを記し、このことは誰にも話したことはなく、夫にさえ法然上人のことしか話していないが、自分はこれが実夢であることを確信している、死に際に苦しんだとしても必ず極楽に生まれているからねと、娘に生じたかもしれぬ揺らぎに釘をさしている。
一方、親鸞59歳の4月、風邪の高熱の中「全くそうだ」と突然言うので真意を問うと、寝込んで2日目から大無量寿経をひまなく読んでいるのだが、目をつぶると経の文字は残らず、(意識内部の)光る様子がはっきり見えるだけだ、念仏以外の何が信心に必要なのか、42歳の頃にも衆生利益のためと思い立って浄土三部経を千部読もうとしたことがあったが、どんな困難の中でも専修念仏こそが真の仏道だと自ら信じ人にも教えてきたのに、何が不足なのか、何が心にひっかかっているのか、人間のこだわりや自力の心は極めて捨てがたいものだ、こう自問の方向を見定めて後に読経が止まった、それで「全くそうだ」と口走ったのだと答えた、といったエピソードをしたためている。
82歳になった恵信尼の心には、夫によって開かれた信仰上の確信と苦悩する夫のそのままの生身の像が矛盾なく同在しているのだ。ここに「とてもかくても候」の真の中身が化身的に具現し続けていたのではないか?
幻想の相において、私たちはそれぞれ先験的に男性であり女性であるわけではない。生理と社会の双方向から己が身体の知覚やイメージを挟撃されながら<性>を措定し選び返しているのである。
権力は常に<性>に対する民衆の成熟と自然を概念的に収奪しながら存在する。これに別の成熟と自然の概念を対置するだけでは権力の自同律的円環に取り込まれるほかない。
「<成熟>概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展開する作業にこそ、六九年以来の<連帯を求めて孤立を恐れず>のスローガンが非対称的にふさわしい。」(概念集4・非対称の性)
2006.9.7 eili252
noharraeili252さん
昨日、久しぶりに「仮称・仮装被告団~」を開いてみると、eili252さんの9月7日付の文章を発見!
2週間ほども読むのが「遅れて」しまい申し訳なく思います。
さて、「なま女房」の出てくるはずの「一言芳談」の入っている岩波の古典文学大系を入手したのですが、さほど長くない「一言芳談」(約30頁)を三回ほど繰っても該当個所がでてきません。小林秀雄の本もでてこない。 ようやくネットで次のような原文を見つけました。その後もう一度見るとありました。
或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死(しやうじ)無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/tamayori.htm
玉依姫という思想 ---小林秀雄と清光館 ---
「なま女房」に対するこの本の註では、「年若い女性。もとしんまいの宮仕えの女房。「なまは若」(句解)。」とありました。
今風にいうと黒のシャネルスーツでも着た新人のキャリアウーマン、つまり即物的エロスから遠い存在をむしろイメージすべきなのかもしれません。「なま」「女房」という言葉の現在の語感からは即物的なあふれ出るようなエロスを受け取る方がむしろ自然でしょうが。
というのは「寺院は女人禁制の場」という建前とは裏腹に、「聖なるエロス」の通俗化されたものにむしろ当時の寺社はまみれていたのではないかみたいな気がするので。だから即物的エロスだとさほど面白みがない。
性も宗教性も超えたところにやってくる〈宗教性〉の輝きと、その女性の迷いのなさが印象的ですね。
さて、わたしのほうは、東京裁判とオウム裁判を交換可能なものとして循環させるヴィジョンを描こうとした松下のひそみに倣おうなどと考えたりしたのですが、ちょっと足踏み中です。
今は気まぐれでコンピュータの勉強をしようとしています。
ほかにもいろいろ書かなければならないことがあるのですが、とりあえずで、失礼します。
今回は、もっぱら「なま女房」についての話になったので、コメントという形でお便りすることとします。
野原燐
noharra2006/11/23 07:10永里さん
いよいよ本格的寒さがやって来そうなこのごろですが、
お元気でしょうか?
永里さんの書き込みは10.30に書かれて数日後に読んだのですが、
返事を書こうと思いながら、長い間書けずにいました。
いまやっと「無情といふ事」を読みました。ひどく短いものですね。
彼が「歴史の新しい見方」といったものに反発していることはよく分かります。
(マルクス主義や進歩主義の歴史観と同時に、皇国主義のそれも批判対象なのか?)
ですが、「歴史の動かし難い形」って一体なんだというのはいっこうに分かりません。「當麻」のように美として語るならまだしも、なぜ「歴史」という言葉を使うのか?
さて、「南無阿弥陀仏。どのようにして? 常に虚数方向に〈死〉を励起することによって。」なんて文章をわたしが書いたこともすっかり忘れていました。
ブログを書くことにより〈自己否定の最も軽薄な意味〉をそれなりに実現しえている、あえて自負として おきます。何をする気も出ずネットサーフィンしているときふと気に掛かった(自己に親和する、あるいは自己を挑発する)文章の断片を引っ張ってきてコラージュするといった手法によって。
「何を言い出すのやらしでかすのやら」仕方のない生きている人間。それをマルクス主義などのさかしらで捉える事への批判がまずある。そのようなさかしらを捨て去って生きている人間の原形質に徹しきったとき、逆説的に祈りや美が生まれる。こう考えると分かったような気もするが、どうなのか?
明確な主張を説得力ある文章で書くべきというベクトルに対し、そうして作られる自己に自足することなく常に垂直方向から自己否定のベクトルを差し込むべきだ。「南無阿弥陀仏。どのようにして? 常に虚数方向に〈死〉を励起することによって。」と書いたとき私が考えたことはこのようなことだったと思います。
>> 発した言葉の実体は、そのままでは無限に広がる関係の闇そのものに呑まれてしまう。言葉も常に「死」を内在させた現象である。野原氏は~虚数方向に死を励起する~積極的な死の内在化を<自由>に直面させよ、と自問する。観念運動に閉じて行くのではなく、開かれて行く「南無阿弥陀仏」の語感から(~へ)の転倒。<<
このように読みとってもらったことに感謝します。
宗教教団の全国的な集会に参加~発言しての帰途の松下の〈失神〉の描写もわたしが全く気付かなかったことでした。
「あらゆる存在に常住不変の実体は無く、存在とは、我も人も、また神も仏も、例外無く縁起(関係という本質)の現象したモノ、ないしはその変化の態様に他ならない」といった存在概念が基底にある。
「わたしはわたし」といった自同律が動かし難く成立する底には、非我であるところの縁起がダイナミックに動いているといったイメージでしょうか。
永里さんの表現の切っ先にたどり着けない凡庸な対応になりました。
とりあえずの返書 とします。
野原燐
追記:105円で買ったちくまの小林秀雄集とは、1977年に出た吉本が編集した奴だと思っていましたが、ここには「無情という事」はありませんでした。これは「近代日本思想体系29」であり(筑摩書房日本文学全集42)とは当然ながら違うものですね。三段組のものですかね。
今回はメールでお返事しようと思ったのですが、読み返してみるとブログ上のことに終始しているので、コメント欄にも張り付けます。