反転する夢告
「一言芳談抄」は鎌倉初期の念仏者たちによる法語~説話集であるという。今しばらく「なま女房」にこだわってみたい。と言うのも、文明史の基層における女性的なるものの水位が当時の抑圧構造の基準値を超えてあふれ出す様を直感させられるからだ。初期専修念仏集団がもたらした地震は、救済概念の宗教的理念化~思索と実践の<最終>形態の模索と同時に、歴史に閉ざされた性の再発見を随伴せざるをえなかったことによってより増幅し、時の権力の弾圧衝動を誘発した。
1201年、29歳の親鸞が書き留めたいわゆる「六角堂女犯の夢告」は以下の趣旨だろうか?
『「仏道修行者がその宿縁応報によってたとえ女人を犯すことになろうとも、私は玉のような女身となって犯されよう。その者の生涯に亘って荘厳に関わり、臨終に導いて極楽に産んでやろう」救世菩薩はそう文言を唱えて言われた「この文は私の誓願である。全ての民衆に説き聞かせよ」数千万の有情の者らにこれを聞かせたところで夢から覚め(私はその意味を)悟った。』
京都の中心にある六角堂は聖徳太子を讃仰する民衆によって建てられ、密教系の如意輪観音を奉ず。比叡山から100日間通い続けた95日目にこの夢を見たとされる。救世菩薩は太子の化身、言わば<非>性的存在概念である。
<生理的自然としての自分の男性<性>と即対称的な女性<性>が存在するのではなく、人智の及ばない真理からやってくる一切衆生救済の願心が生身の女性に化身して、生理的自然の対象としても自分に現前している>
親鸞の性の意識はこのような宗教的転倒を通して、初めて自らの生理的煩悩を包括する状態に至ったと言えるだろう。妻帯をあからさまに宣言する決断と相前後して、彼は長い厳しい修行の場であった比叡山から法然の元へ下る。
61年後、親鸞入滅の知らせを受けた妻の恵信尼は後生大事に保管していたこの「夢告」の文を書き写し、末娘の覚信尼への返信に添えている。
歴史学者古田武彦は著書「わたしひとりの親鸞」の中で「比叡山脱出の共犯者」という項を設けて「夢告」に対する恵信尼の心理を透視しつつ、他ならぬ彼女の存在こそが比叡山脱出の主原因であったことを論証している。恵信尼は越後の豪族三善氏の娘と言われており、9歳年長の親鸞とは「承元の法難」で彼が越後に流されている時に知り合い結婚したという説、20歳代に京都九条家など上級公家の屋敷に女房として仕えていた時期に出会ったという説がある。古田は後者の説に立つ。
出会いの具体的事実について本人たちの証言は残されていない。私の関心の方向からは、「一言芳談抄」の「なま女房」の背景には複<素>数の若き恵信尼が想定されると言いうるだけだ。
浄土真宗が一定の宗教的地位を確定した後代に書かれたと思われる「親鸞聖人正明伝」には、「夢告」の3年前(親鸞26歳の時)、延暦寺別院赤山禅院での女性との遭遇が描かれている。
年来の宿望比叡山への参詣を実現したいので連れて登ってくれと頼まれ、山の女人結界の理を説く親鸞に対して、比叡山の女性差別を徹底的に批判し、既存仏教の偏狭さを乗り越え、全ての人を包括しうる救いの道を示してほしいと宝珠=如意を託して女性は去る。
3年後に親鸞は如意輪観音(六角堂本尊)を本地とする功徳天女の化身が自分を導くために現れたことを悟る、といった筋だ。ここには「夢告」への道筋を付け、親鸞の宗教的位置をさらに補強しようとする意図がありありと感じられ、門外漢にとっては逆に「ありがたい」気がしない。
巫女に仮装して結界に入り込み、「とてもかくても候、なうなう」と歌う「なま女房」の迫真性とエロスほどにはこちらの内奥に触れて来ないのだ。彼女の歌や鼓を含む行為とその釈明との落差には性のきららかな狂気がほの見える。闇の中で反転する念仏者の「夢告」と非対称の…。
ところで、親鸞の臨終は病のためひどく苦しいものだったのだろう。恵信尼は臨終に立ち会った末娘に宛てた先の私信に、かつて、法然上人が勢至菩薩、夫が観音菩薩として、共に自分の夢に顕れたことを記し、このことは誰にも話したことはなく、夫にさえ法然上人のことしか話していないが、自分はこれが実夢であることを確信している、死に際に苦しんだとしても必ず極楽に生まれているからねと、娘に生じたかもしれぬ揺らぎに釘をさしている。
一方、親鸞59歳の4月、風邪の高熱の中「全くそうだ」と突然言うので真意を問うと、寝込んで2日目から大無量寿経をひまなく読んでいるのだが、目をつぶると経の文字は残らず、(意識内部の)光る様子がはっきり見えるだけだ、念仏以外の何が信心に必要なのか、42歳の頃にも衆生利益のためと思い立って浄土三部経を千部読もうとしたことがあったが、どんな困難の中でも専修念仏こそが真の仏道だと自ら信じ人にも教えてきたのに、何が不足なのか、何が心にひっかかっているのか、人間のこだわりや自力の心は極めて捨てがたいものだ、こう自問の方向を見定めて後に読経が止まった、それで「全くそうだ」と口走ったのだと答えた、といったエピソードをしたためている。
82歳になった恵信尼の心には、夫によって開かれた信仰上の確信と苦悩する夫のそのままの生身の像が矛盾なく同在しているのだ。ここに「とてもかくても候」の真の中身が化身的に具現し続けていたのではないか?
幻想の相において、私たちはそれぞれ先験的に男性であり女性であるわけではない。生理と社会の双方向から己が身体の知覚やイメージを挟撃されながら<性>を措定し選び返しているのである。
権力は常に<性>に対する民衆の成熟と自然を概念的に収奪しながら存在する。これに別の成熟と自然の概念を対置するだけでは権力の自同律的円環に取り込まれるほかない。
「<成熟>概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展開する作業にこそ、六九年以来の<連帯を求めて孤立を恐れず>のスローガンが非対称的にふさわしい。」(概念集4・非対称の性)
2006.9.7 eili252
noharra2006/09/24 11:18eili252さん
昨日、久しぶりに「仮称・仮装被告団~」を開いてみると、eili252さんの9月7日付の文章を発見!
2週間ほども読むのが「遅れて」しまい申し訳なく思います。
さて、「なま女房」の出てくるはずの「一言芳談」の入っている岩波の古典文学大系を入手したのですが、さほど長くない「一言芳談」(約30頁)を三回ほど繰っても該当個所がでてきません。小林秀雄の本もでてこない。 ようやくネットで次のような原文を見つけました。その後もう一度見るとありました。
或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死(しやうじ)無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々
http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/tohoku/tamayori.htm
玉依姫という思想 ---小林秀雄と清光館 ---
「なま女房」に対するこの本の註では、「年若い女性。もとしんまいの宮仕えの女房。「なまは若」(句解)。」とありました。
今風にいうと黒のシャネルスーツでも着た新人のキャリアウーマン、つまり即物的エロスから遠い存在をむしろイメージすべきなのかもしれません。「なま」「女房」という言葉の現在の語感からは即物的なあふれ出るようなエロスを受け取る方がむしろ自然でしょうが。
というのは「寺院は女人禁制の場」という建前とは裏腹に、「聖なるエロス」の通俗化されたものにむしろ当時の寺社はまみれていたのではないかみたいな気がするので。だから即物的エロスだとさほど面白みがない。
性も宗教性も超えたところにやってくる〈宗教性〉の輝きと、その女性の迷いのなさが印象的ですね。
さて、わたしのほうは、東京裁判とオウム裁判を交換可能なものとして循環させるヴィジョンを描こうとした松下のひそみに倣おうなどと考えたりしたのですが、ちょっと足踏み中です。
今は気まぐれでコンピュータの勉強をしようとしています。
ほかにもいろいろ書かなければならないことがあるのですが、とりあえずで、失礼します。
今回は、もっぱら「なま女房」についての話になったので、コメントという形でお便りすることとします。
野原燐