今朝友人から次のようなメールが来た。
もうすでにご存知かもしれないが、
『存在と言語』(「松下昇〈全〉表現集」(1969年以前)の収録を含む)
という本が刊行されていますよ。
↓
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/index.htm
平積みされているのを目撃しました。
白夜通信のHPでは、次のように記されています。(詳しくはサイトを参照せよ)
『存在と言語』(「松下昇〈全〉表現集」(1969年以前)の収録を含む)
『存在と言語』の取り扱い書店は以下の通りです。
1冊 3,500円(税込)です。
(略)
本書はここに収録される「松下昇〈全〉表現集」と共に、〈未来からの記憶群〉にむかって差し出されようとしている。本書に出会う人々はしたがって、過去の時系列からではなく、未知を掠め去る異分野から出現してくれることを願っている。いま語りえていることがどれだけ未来の影に届こうとするのか、そのことだけが私たちにとっての最大の関心事である。「一九六八年」の〈祭り〉を味わってきた全共闘世代は、その〈祭り〉に参加したときのワクワク感を片時も忘れていないだろうが、本書刊行もまた、まだ誰も味わったことのない新たな〈祭り〉のワクワク感をつくりだすことに懸けている。「底が突き抜けた」ワクワク感をもう一度腹の底から味わってみたい、というのが本書刊行の本音である。
まだ本当には出会っていない「一九六八年」にむかってこちらから手を差し伸べていきたいし、まだ気づいていない多くの問題に出会うたびに、本書で報告し、問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかけるので、まだ見ぬ永遠の恋人である読者は、自らの人生を展開する必然性の度合いで、自らと本書にむかって姿を現してほしい。
「松下昇〈全〉表現集」(1969年以前)を収録。
(内容)
・なぜ、いま本書を刊行するのか
・松下昇〈全〉表現集(一九六九年以前)
山本元すゐとやくそく
ハイネにおける幻想の生起と崩壊
ゴットフリート・ベンとベルトールト・ブレヒトにおける表現主義
遠嵐
北海
ブレヒトの方法ハイネ『北海』における詩と散文の相関性ブレヒト『処置』の問題
循環
奇妙な夜の記憶
ハイネの序文に関する序論
包囲
不明確さを構想せよ―学内作品コンクール選評―
〈第n論文〉をめぐる諸註
ブロッホ『誘惑者』書評
情況への発言〈あるいは〉遠い夢
反権力の自立的拠点松下昇×清水正徳対談
松下昇×野口武彦対談―懸賞小説選評― 神戸大学文学賞・詩作部門選評
不確定な論文への予断
とりあえずお知らせ。
上記で引用した文章にはそれほど異和感はない。
「松下昇〈全〉表現集」:なぜわざわざ〈全〉という言葉をつけるのか?
というのがまず気になったところ。
とりあえず・・・
さて、村尾建吉とは
69年~70年代前半の神戸大学<>闘争に 学外から参加した人々のひとりです。白夜通信というひどく分厚いガリ刷りの表現を多量に刊行し続けていました。北川透がやっていた「あんかるわ」に転載され、わたしのような読者に神戸大学<>闘争の存在を知らせたという功績があります。転載は20号近くに及んだのではないかな。
ちょっとした暗示にふるえる<者>たちよ、諸君の存在そのものが<<<<<< >>>>>>に規定されているかぎり、諸君は“注文の多い料理店”へおしよせる<客>であり、<客>に仮装した<仮装被告>なのだ。未だ果たされぬ<祭り>の膨大な参加者の<一>人であることに悲しみと誇りを抱きつづけよ。
1972.2.5 白夜通信10号 あんかるわ31号 より
文章の任意の一例です。
(野原燐)
拠点<論>
年の瀬の気配が漂い始めた11月の終り、西宮のT氏から「松下昇クロニクル」が届いた。A4版200ページに及ぶ。
自らの関心に沿って、また一定の網羅性~概観性を意図して、松下昇生誕年から出立年にいたる60年間の軌跡を、関連表現の所在や社会事象と共に要約列記している。ぼう大な資料群の手触りや作業の息遣いが伝わってくる。彼が6年ほど前から独自に手がけているものの改訂版と言えるが、まだ決定版ではない。欠落や重複部分の修正~不可欠な記事の補充~読みやすい形式や質量への抽出~等、関係性への共同作業の提案もこめられている。
T夫妻と松下との出会いは極めて情況的であった。或る事件で無残に失われた幼い命の側から真相に向き合わざるをえない現れが国家権力に利用されてしまうという矛盾に苦しみ、冤罪事件として拡大する支援の動きから孤立して組織的な攻撃にもさらされた夫妻の位置を、法的被告人の位置と対等の深さで松下は包括しようとした。
「正しいことを語っている~権力と闘っている」と自認する組織や個人の陥りやすい欠損~反<存在>性に対する松下ほどの感受性を私は他に知らない。それは、<大学>闘争の過酷な影響から愛息(未宇さん)が障害を持って生まれ、幼いまま他界したことにも関連して、単に思想的射程という以上の<原則>性を帯びて松下の闘いの基調を形成していた。
常に動いている現実過程の諸関係において、最も弱い位置に追いやられる(死者を含む)存在への想像力と自らの存在責任を、各構成員が自己告発する深さで共有し、止揚プロセスを一瞬毎に繰り込みえない運動はもはや本質的には成立に価しないと言うべきだろう。松下の<原則>は他の様々なテーマにも一貫している。
前世紀末の被告人<無罪>の終結を彼が知ることはない。しかし、権力位相での決着を超えて全ての事件性の本質は彼の<原則>の方向軸に生き続ける。
松下昇気付刊行委員会が不可視化した後の<10>年を、自分にとって<失われた10年>と呼ぶことはたやすい。しかし、己が非力につまづいているのだとしても、そう言い切ることで破棄される個々の時間などほんとうは存在しない。既に去った人にとっても、未だ悶々と生きている私にとっても情況の渦中で内向せざるを得ない表現過程がある。
当初浮上した遺稿集~追悼集の宙吊りについても関係者の力量がしからしめたマイナスとのみ発想してはならないのではないか?松下の表現過程自体がパンフ化や出版に関わる旧来の全発想を批判しており、その批判の本質を踏まえた展開主体~関係性が<永久>に未成立~不可能である事態に、< >闘争の真の恐ろしさと、その向こうに広がる新しい何かも予感されて存在するのである。
遺族的位相の人たちとの<著作権>テーマを含む自主ゼミ性を潜りながら、既刊パンフの複写や<販売>を細々と継続している過程で様々な出会いも別れもあった。その一つ一つに十分に対応できなかった禍根が胸を突く。しかし、山浦氏が「松下昇追悼資料集(抄)」を私たちに交差させ、野原氏が自問を重ねながらネット上での表現公開を持続している等の未来に繋がる動きも多く存在する。自らの拠点でまだ可視化することができずにくすぶっている作業群~との関連において何度でもとらえなおしたい。松下の表現過程が照らし出している個々の超生涯的テーマがそれぞれ遠くまで深く孤立しているとしても、各々の足下を粘り強く潜り続けることなしに未踏の共同表現の地平は見えてこない。T氏の作業は象徴的な現れであり、叱咤激励でもあろう。
「松下昇クロニクル」を受け取った数日後、仕事の合間にネットを何気なく検索していて驚いたことがある。71年以来、鋭い批評的通信を発行し続けて来たM氏の主宰するHPで、松下の1969年以前の<全>表現を本に<収録>して複数の書店で販売しているという記事に出会ったのだ。
これはどういうことだろう。HP上の掲載表現について自らの著作権を明記しているのに、松下昇の<著作権>にどう対応したのか「呼びかけ文」を読んでも不明である。
「革命的な本」「40年の隔絶に踏み込む契機」「25時に向き合っていく狂熱を予感」「活字の背後の膨大な世界に触れることが不可欠であるような書物」といった言葉が見られるけれども、松下が刊行してきたパンフ群との関連や位置付け、今回のような<収録>~<販売>方法が生前からの松下の委託によるのか、連続性においてか、あるいは何らかの断絶断念の結果なのか、今、このような形で出現させるに到る関係的必然性が明確に語られているようには見えない。気の利いた既成出版の広告文のようにしか響いて来ないのだ。購入すればそれが見えるのだろうか?
本箱に納まるような表現の有様を忌避せざるをえない不可避性を帯びて連続した表現過程における可視的部分が、主体の出立後は<基本的に廃棄してよい>と言いうるほどの公開性に差し出されているとして、M氏はどのような回路を通って、松下の<遺言>の真意と現在の<無言>を聞き取ったのであろう。その<全>回路の公開性こそが、今は直接応答不可能な他者性の表現を本に収録する以前に、関係性の声として<収録>されなければならない<文学>の外における、自発性・責任性に基づく拠点的対応ではなかったのか?
2006.12.18 eili252
追記・野原氏へのお願い
私の日記は設定上プライベートモードになっているため、任意の人が自由に見ることができないようです。できれば、今回の日記の複写もしくは主宰者の関連コメントを何処かすぐに読める場所に貼り付けてもらえないでしょうか。
さっそくAJさんに知らせたところ返信あり。 16 Dec 2006 09:10:21 +0900
野原様
寝耳に水とはこのこと、ちょつとウイニーの開発に似た
一種の海賊版ですね。生前松下さんが商業出版を嫌って
“値段付け”なんかも固定化せずあくまで<カンパ>の位相で
と言っておられたことや、なるべく手にとる人の表現との交換
を、と言ってたことはこの怪出版でどの辺に置かれているのでしょうか?
出版者は収益(あるとして)を、どうするつもりなのかね?
大都会では出回っているのでしょうが、徳島のようなド田舎では
駅前に大きな新刊屋があるだけでジュンク堂のチェーン店は見当たらず
不知、の世界でした。我らが孔版は森ノ宮あたりの”空閑文庫”で
閑古鳥をやっている(ところで、空閑さんは新店を出したらしい)と
思ってましたが、「思想はどんな形ででも流布されればよい」かどうか、
97年だったか三宮でmeetingをやった時、多少の議論はあっても継続
はされていなかった、ですものね。
神戸大学生協に山積み、というのは「商業ルート」を逆手にとって
松下講師が未来から逆襲して来た、と考えるべきなのか?この項いずれ。
問題群の現在的展開として刊行はなされなければならない!
えーとわたしたちは遺言の一句「私の文書および口頭による指定のある場合」を厳格に判断する厳格派として出発しました。
6.遺品は私の文書および口頭による指定のある場合を除いて譲渡、複写、刊行はせず、 基本的に廃棄してよい。
{時の楔}通信の出現の契機は、{私}たちを包囲する関係性の切迫がうみだしたパンフ{時の楔}--〈 〉語…に関する資料集--が提起しつつある問題群を、時間性との格闘の中で持続的に展開していこうとする過程が示している。
松下の意志とは、例えば上記にあるように、
「松下のテキストの刊行」といわれるような行為をなすとしてもそれは、過去のテキストのコピーではなく「大学闘争~<>闘争が提起した~提起すべきだったすべてのテーマを<いま・ここ>に立ち上がらせる」行為でなければならない。ということです。
このような視点から見るとき、村尾氏の「刊行行為」は、
「まだ本当には出会っていない「一九六八年」にむかってこちらから手を差し伸べていきたいし、まだ気づいていない多くの問題に出会うたびに、本書で報告し、問題の打開にむけての参加を繰り返し呼びかけるので、」というフレーズがあったとしても、その〈参加〉を刊行過程にどれほど組み入れられたのかに疑問が残るものである。
(書きかけ)
☆1☆
委託プランに限らず、すべての〈 〉過程には、どんな評価や対処も許容される。ただし、~意識~発語~文体~行為~のズレにはあくまで注意深く。ズレ自体は恥ではないがその総体をいつでも開示しうること。そうでないとその表現の根拠は解体していることを、なにものかに告げられている、という自覚が必要だろう。
松下昇 ※17 p9 時の楔〈への/からの〉通信 ~1987年9月~
したがって村尾の試みも直ちに許容されないものではない。しかし、本屋に置かれた3500円もする本とはそれ自体、表現の私有制を表現しているのである。したがってそれが松下思想の裏切りでないとするためには、
過剰な〈いのち〉の強力な羽ばたき、情況との交差、 というものが刊行内容だけでなく刊行過程自体にも内在しなければならない。だが、それは存在するのか?
☆2☆
松下昇も「新たな読者の出現を期待します。」と書いた。
「私が配布しうる表現は、あえていえば巨大な表現過程の断片にしかすぎず、読者と共に、表現生成の現場へ出かけ、かつ、未知の時=空間へ同位相の表現を架橋していく手がかりたらしめたいと願っている。
(「印刷されたものを真に生かすための表現過程論(序)」p94 表現集(続))」
松下にとってパンフ類の配布はそれが委託販売に近い形態をとった場合でもなにより「配布過程を逆行して、表現生成の現場へ共に出かける呼びかけ」としてあった。
村尾氏は今回の試みで、どのような呼びかけを実行しようとしたのか?
資料:表現集の< >化について(松下昇)
☆3☆
今はじめて気づいたのだが(というか最初の友人からのメールにもはっきり書いてあるので、見ながら重要性が低いと判断していたのだろうが)村尾氏の刊行したのは、「松下昇〈全〉表現集」と題する本ではない。それは副題で、題は『存在と言語』というのだ。
画像もある。http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/File0016.jpg
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro11-jobun.pdf で、
「言葉そのものが人間を表現し展開していこうとする体験」「自分の言葉の中に自分を存在させることができなければ」と村尾は書く。これは松下のハイデッガー的歪曲だろう。
「 いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。」情況(現実)と「自分」との格闘の場として松下は世界を捉えていたのであって、「言葉そのものが人間を表現し展開していこうとする体験」などという発想はありえない。確かにスローガンだけでなくテーマも言葉で表現されたものかもしれない。
一つの発語であっても、その発語行為を情況や発語主体の自己史の方へ引きつけて考える。下記のような錯綜する表現過程に於いても、総体としての表現過程情況を名指しうるとする松下の思想と、「言語そのもの」を主語として展開する解説は背反する。
『存在と言語』というタイトルはどこから見ても松下の趣味から遠い。(「存在と時間」のパロディなのでしょうか。)松下の最初の本にわざわざそうしたタイトルを付けることは、松下の思想を歪曲するものと批判されるべきではないか?
☆4☆
『存在と言語』の副題は「松下昇〈全〉表現集」である。
「松下昇〈全〉表現集」から〈全〉を抜かした「松下昇表現集」という本(パンフ)はすでに何度か出版されている。
一九七一年一月にあんかるわ(北川透)から、また1988年8月に「表現集 <>版」が。
今回の本は素材的には上記にいくつかの(それほど重要ではない?)文章を追加し並べ替えたもののようだ。
「表現集 <>版」印刷に当たって松下の書いた文章が、「表現集の< >化について」である。(リンクしている)
ポイントは次の通り。
表現集も発言集も、私の発案というより、共闘者による、既成の<本>の概念をこえようとする試みであるが、ここには大きい啓示がある。その一つは、表現集の内容が、論文とか小説とかいうジャンルの枠を突破して何かへなだれ落ちる、ないし飛翔する方向性を持っており、<表現>集として辛うじて把握しうる瞬間を示していることであり、
もう一つは、
例えば<情況への発言>が、マジック・インキで記され、掲示板にはり出されて以降の筆写~何重もの活字化~コピーを含む応用の総体が、表現過程情況を<身体>とみなす場合の<発言>という位相を帯びてしまうことである。
一つは内容が「論文とか小説とかいうジャンルの枠を突破して何かへなだれ落ちる」その臨界にあるものだ、ということ。これは逆に言えば論文とか小説とかが自負する自立性(実は既成文化からの許可証)をもたず、読者と情況からの積極的関与無しには読み得ないものだということだ。
もう一つは、インテリが書斎で執筆しブラックボックスを経て本が本屋に並ぶという、主体-作品モデルではないということ。
「マジック・インキで記され、掲示板にはり出されて以降の筆写~何重もの活字化~コピーを含む応用の総体が、」表現であり、発言である、つまり書き公開しマスプリし……という総過程にその都度関わる多様な人々もまた情況の一部を形成し、ある意味で表現の主体となるということ。
つまり一冊の本を作ることは、内容的にジャンル的水準を超えていると主張することになる。*1
また、それぞれの多様な履歴を持った文章の、履歴については一旦すべて切り捨てて文章自体を読めと主張することになる。この両方とも松下の趣旨とは違うが、村尾氏はなぜあえてそうした出版形態を取ったのか?
(1/13 村尾建吉 の「建吉」の表示が誤っていた数カ所を訂正。)
*1:ジャンルにおける既知の解読コードを前提としそれをわずかしかはみださないという、既成性との共犯関係において読まれることを、期待していることになる。
☆5☆
1/8に梅田の旭屋書店で、『存在と言語』なる本の現物をはじめて手に取ることが出来た。
予想よりもずっとひどいもの!であった。「『存在と言語』の副題は「松下昇〈全〉表現集」である。」と書いたのは間違いであった。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/File0016.jpg
の画像をよく見てもここには松下昇〈全〉表現集の名はない。しかし画像にはないところの帯の背表紙の部分は2.5センチ角位の大きな活字で村尾建吉の名前が表示されている。帯に“「松下昇〈全〉表現集」(1969年以前)を収録”とある。松下表現は収録されているだけであり、これは村尾個人の著作である。それが村尾氏のこの本に対する法的、実務的規定であるようだ。
しかし中身の8~9割は松下ないし〈松下〉の前史的表現である。これは詐欺ではないか。
松下のものを村尾が売りに出している。そう批判されることは村尾は予想した。そして、松下は著作権を放棄していたはずだという反論で対抗できると考えたのではないか。
自由を求める表現活動と著作権を巡って、著作権を放棄するだけでは背理に陥る可能性があることは、私たちから遠い領域でも早くから気付かれていた。オープンソースやコピーレフトと呼ばれる運動である。
あるプログラムをフリーソフトウェアにする一番簡単な方法は、 パブリックドメイン、すなわち著作権が放棄された状態に置くことです。これにより人びとは、その気さえあればプログラム自身と彼らがそれに加えた改良を共有することができます。しかし、パブリックドメインに置くということは、非協力的な人びとがそのプログラムを 独占的 (proprietary)ソフトウェアにしてしまうことをも認めるということなのです。彼らはプログラムに、量の多少を問わず、なんらかの変更を加えてその結果を独占的な製品として頒布することができます。そのように改変された形でプログラムを手に入れた人びとには、元の作者が人びとに与えた自由がありません。作者とユーザの中に割り込んだ連中がその自由を奪い去ったのです。
村尾氏のやったことは上記の「なんらかの変更を加えてその結果を独占的な製品として頒布すること」に他ならない、と考える。もちろん村尾氏としては「作者(〈松下〉)とユーザの中に割り込んだ連中(村尾)がその自由を奪い去った」とは毛頭思っていないだろう。村尾の思想は松下のそれを継承発展させたものだから、松下思想の私有化には当たらないと思っているだろう。
すでに内容を把握してきた人々には感受されているであろうが、個々のパンフの区分は過渡的なものであり、かつ、ある集合の形態は他の全ての集合の形態と区分されていると同時に全てを内包している。
これら全ての既刊ないし企画中のパンフは何かへ向かって深化ないし飛翔し、既成のイメージないし形式からはみ出していく過程にある。この動きに参加し、応用する人々の一人でも多いことを願う。そして、たとえわたしが身体的条件などでこれらの作業を展開することが困難になった場合にも、それらの人々が仮装的*1かつ本質的な刊行委メンバーとして作業を持続していくことを切望する。
~一九九三年五月~ 刊行委 気付 松下 昇
p3「既刊表現の総体と今後の作業方向」『概念集・9』
表現集〈 〉版を含む、パンフレット群は松下昇の表現とみなされるとしてもそれに留まらず、「何かへ向かって深化ないし飛翔し、既成のイメージないし形式からはみ出していく過程にある」パンフ群として定義されている。したがって「この動きに参加し、応用する」刊行委員会という不定型な組織とその公開性こそは、むしろ著作権を主張する。〈松下〉の自由を他者が簒奪することと闘う為には。
松下の表現が目指した自由を、制限してしまうことにしか、今回の刊行行為はなっていないと考える。そうでないというのなら、どのような自由を展望していると言うのか?
したがってわたしたちは次のように考える。
1.公開。
2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。
3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。
上記の<自主ゼミ実行委員会>の原則を持った討論の場が、現実の場に設定されるべきである。*2
その場で、上の野原の五つの問いかけを含む批判疑問を討議することができる。公開の討論を経るまではこの本の配布は宙吊りにすべきである。公開に極限的に開かれていることを抜きに〈松下〉の表現は成立できないのだから。
村尾建吉さま
前略。失礼します。野原燐( )と申します。
このたび出版された『存在と言語』という本について次の通り、根本的疑問を抱きましたので通信します。下記疑問点に2週間以内にご回答いただくようよろしくお願いします。
また、『存在と言語』という本の存在根拠に関わる問題なので、わたしたちとの話し合いがつくまでこの本の配布を宙吊りにされるよう要請します。
-------
上のようなお願いと要請を付けて、上記☆1~☆5をメールしました。
また念のため、尼崎市あて郵送しました。
ついでに掲示板にも。
http://8311.teacup.com/byakuya/bbs
<白夜光虫>掲示板
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13/8 で「p3「既刊表現の総体と今後の作業方向」『概念集・9』」からの引用として
「仮想的かつ本質的な刊行委メンバーとして作業を持続していくことを切望する。」という松下の文章を引用した。
「わたしたちは刊行委員会である」という自己規定からわたしたちは出発している。それを根拠にしてわたしたちはむしろわたしたちこそが松下昇~刊行委員会の著作権継承者であると主張する。極めて大事な一文である。
ところがそこに誤植があったというのだ。
金本氏からの手紙の一部。
〈仮想的かつ本質的な刊行委メンバー〉という意図的?思いこめた?誤うち*1 に目をうばわれました。松下昇(氏)はここまで行っていたのか、と。確かめると〈仮装的かつ本質的な〉となっていて、仮想的であること(ヴァーチャリティ)がどれほど仮装的に〈響存〉しているか。--この理路がどこのみちであるかわからないのに、追走したがっているからです。
仮装とは、個人AがBの名前の下に何かをすることだろう。
仮装はキーワードになかったので、概念集1 p18~19を転写しいまUPしました。
インターネットなどではIDとパスワードがないとアクセスできないということがよく起こるので、つい一時的にそれを貸してあげるということが起こりがちだ。しかしそれはトラブルの元になるからしてはいけない、というのが一般的な道徳になっている。しかしそれにあえて反抗するのが松下の「仮装」という主張だろう。BがアクセスできるところになぜAがアクセスしてはいけないのか? 情報は基本的には排他的財産ではなく公開しても価値が減らずかえって増大するとも考えられるのだから、基本的に仮装は推進すべきであるという発想。
一方、仮想とは事実でないことを仮に想定すること、とある。しかし英語で
virtual を引くと
【形-1】実質上の、事実上の、実際上の、実質的な◆実体・事実ではないが「本質」を示すもの。
【形-2】仮の、仮想の、虚の、虚像の
とあり、表面に現れていない本質といったイメージがある(むしろ第一義)ことがわかる。これはアリストテレスに遡る。
ところで「virtuel」が、元々の意味は「力をもった」潜在性であるということをこの論考で知りましたが、アリストテレスの「dynamis 可能態」との関連はどうなのだろうと思って中原氏に質問しましたところ、デュナミスがラテン語でヴィルトゥスと訳され、英語のヴァーチャリティにつながったそうです。
ピエール・レヴィという人の「ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ」という本(翻訳有り)がありこんなことを言っているようです。
http://eboshi.s140.xrea.com/MT/archives/2006/04/post_66.html
eboshilog: ヴァーチャルとは何か? デジタル時代におけるリアリティ
本書におけるヴァーチャルとは、アクチュアルと対比させられる概念です。
このヴァーチャル-アクチャルの関係は、ポテンシャルーリアルと対置される対概念であります。説明の都合上、後者から先に描写したいと思います。
ポテンシャルなものとは、既に全てが構成されているが、未発の状態にあるために姿を見せない"可能的なもの"の集まりです。
ポテンシャルな状態に留まっている可能的なものは、何らかの選別作用を経て、現実世界に存在を占めることにより"実体"あるリアルなものへと変貌します。
前者から後者への移行は、あらかじめ決定され定義された可能的なものを無機質に選び出すことで実行されます。すなわち、ポテンシャルなものとリアルなものの関係は純粋に論理的なもので、言わば多対一の決定論的な原則に従います。
これに対し、ヴァーチャルなものとは、存在することへの傾向、ないしは諸力の潜勢態と言うことになります。
ヴァーチャルなものはあらかじめ定義されておらず、要請された"問題"をその時々に応じたやり方で"解決"することによって現実世界に作用し、アクチュアルな"出来事"へと変貌します。つまり、アクチュアルなものはヴァーチャルなものに"問題"を提示し、ヴァーチャルなものはそれを"解決"するために生起的に"到来"するということになります。
あらかじめ定義されないがために、ヴァーチャルなものは常に異なるやり方でアクチュアル化します。問題提示ー解決というこれら二者の関係は、弁証法的なものであり、観念の変容であり、新たな質をもたらす一種の創造・創発であると言えます。
ポテンシャルーリアルとヴァーチャルーアクチュアルの差異は、決定論か新たな創造かという対立と捉えれば分かりやすいでしょう。
先立って構成されているがために、ポテンシャルなものからリアルなものへの変貌は、"可能的なもの"の集まりから定まった"実体"を抜き出す一種の選別作用として捉えられます。
これに対し、ヴァーチャルなものからアクチュアルなものへの変貌は、その弁証法的な性質ゆえにきわめて創発的です。これゆえにアクチュアル化は、常に偶発的であり流動的な"出来事"として把握されます。
長く引用したが、これは松下における 〈 〉の説明にもなっているのではないかと思ったからである。
というわけで、仮想的であること(ヴァーチャリティ)は、松下の仮装というヴィジョンにけっこうひびきあっているように感じた。
(下層は、最近の流行語で、マルクスのプロレタリアート/ルンペンプロレタリアート、ネグリ/ハートのマルチチュードと関連する。)
*1:うちに強調のための傍点
だいぶ前にスキャナー取ったのだが。
いま持っている置き場所が二つあるはずなのだが、
ID,パスワードを忘れたのでアクセスできない。
そこで画像ファイルをここに掲載できない。
そのうち対応します。