☆1☆
委託プランに限らず、すべての〈 〉過程には、どんな評価や対処も許容される。ただし、~意識~発語~文体~行為~のズレにはあくまで注意深く。ズレ自体は恥ではないがその総体をいつでも開示しうること。そうでないとその表現の根拠は解体していることを、なにものかに告げられている、という自覚が必要だろう。
松下昇 ※17 p9 時の楔〈への/からの〉通信 ~1987年9月~
したがって村尾の試みも直ちに許容されないものではない。しかし、本屋に置かれた3500円もする本とはそれ自体、表現の私有制を表現しているのである。したがってそれが松下思想の裏切りでないとするためには、
過剰な〈いのち〉の強力な羽ばたき、情況との交差、 というものが刊行内容だけでなく刊行過程自体にも内在しなければならない。だが、それは存在するのか?
☆2☆
松下昇も「新たな読者の出現を期待します。」と書いた。
「私が配布しうる表現は、あえていえば巨大な表現過程の断片にしかすぎず、読者と共に、表現生成の現場へ出かけ、かつ、未知の時=空間へ同位相の表現を架橋していく手がかりたらしめたいと願っている。
(「印刷されたものを真に生かすための表現過程論(序)」p94 表現集(続))」
松下にとってパンフ類の配布はそれが委託販売に近い形態をとった場合でもなにより「配布過程を逆行して、表現生成の現場へ共に出かける呼びかけ」としてあった。
村尾氏は今回の試みで、どのような呼びかけを実行しようとしたのか?
資料:表現集の< >化について(松下昇)