松下昇~〈 〉闘争資料

2008-11-28

インターネットに掲載する意味は?

上に告知していますように、11/30に

「時の楔通信(第〈0〉号 1978.11 から  第〈15〉号 1986.7 まで」を読む会を 提案しているものです。

したがって0から15(6と11は<ない>ので、14冊)を読まなければならないのですが、なかなか進みません。

遅々として。

その代わりでもないのですが、野原がよむべき資料の一部を

テキスト化、インターネットで読めるようにする、などの作業を行ったりしています。

最近やったのは、下記。誤植などを残したままUPを急いでいます。誰も読まないのに?


六甲 2章()前半 3章

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p3

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p4

ある重要な日付である19841217 に起こったこと

http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/19841217

表現過程としての被拘束空間 (ただし画像1枚要補充)

http://666999.info/matu/kusa/hikousoku2.html

〈 〉獄

http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%80%88%e3%80%80%e3%80%89%e7%8d%84

2008-11-25

この条件でならコピーしても良い!

それぞれの表現が交差している関係性(・・・・・・)の枠を包括的に突破していく動きの過程でならば、いつ、どのように開示してもよいと、そのとき原表現は原表現過程として生き始めるのではないか。

(87.1.29付け 松下昇 k宛書簡)(同パンフp17)

昨日、岡山のk氏から分厚いパンフが届いた。書簡集<4>に相当するもの。

そのなかの一行を引用したい。

松下の「テキスト」を複写し公開しているのだが、それは複写し公開するに耐えるだけの文学的哲学的状況的価値があるからそうするわけではない。

では何によって許されるのか?

「それぞれの表現が交差している関係性(・・・・・・)の枠を包括的に突破していく」という動き自体として、複写は行われなければならない。


ブログをやっていて分かることは、文章は情況に投げかけられ情況を作っていくものだということだ。ネットならでは匿名ならではの無責任性、軽薄性、根無し性があると指摘されるだろうが、それは本質的ではないと野原は考える。

この文章における関係性とはまず第一に、あくまで具体的な関係性を考えるべきであろう。

一方、文章を投げかけていく情況と読み解くこともで、得られる示唆も多い。

2008-11-23

戦後詩についてのメモ

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081123#p1

「戦後詩についてのメモ」はここのために書いたのだけれど、松下の名前が出てこなかったので、野原ブログの方へUPした。

「自分が言語的なデカダンスの中にある」という言表は、論理的におかしいのではという率直な指摘。

2008-11-20

存在様式の変換と霊性

わたしたちは松下の「双方の存在様式の変換を同時におこなうことの自発的な相互確認、それを維持〜発展させる回路の共同創出」(松下昇「委託」概念集1 p24から)というフレーズの意味を求めてきた。松下の死後、彼の残したパンフやテキストを誰かに売るあるいは贈(あ)げることをどう捉えたら良いか?という問に対する答えとして発見したのが、上のフレーズだった。

さて、それにしても「存在様式の変換」とは何だろう?、と考えるときに、次のフーコーの文章は参考になるような気がする。松下と違って双方(二人)の存在様式といった問題意識はないが、ギリシャからデカルトに至る長い時代においては、存在変容をともなう探求というものが常識であったことを知ることができる。

主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性(スピリチュアリテ)」と呼ぶことができるように思われます。この場合、「霊性」と呼ばれるのは、探求、実践、および経験の総体であって、それは具体的には浄化、修練、放棄、視線の向き変え、生存の変容などさまざまなものであり得ます。それらは認識ではなく、主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価なのです。*1

真理に到達するための権利を得ようとするなら、主体は自らを修正し、自らに変形を加え、場所を変え、ある意味で、そしてある程度、自分自身とは別のものにならなければならない。霊性はこう主張するのです。真理は主体の存在そのものを問題にするような代価を払ってはじめて与えられる。

(略)

主体の変形ないし立ち返り(コンヴェルシオン)なしに真理はあり得ない、・・・

この立ち返り(コンヴェルシオン)は、主体をその身分、その現在置かれている条件から引き離す運動(上昇)というかたちでなされうる・・・

この運動をエロス(愛)の運動と呼ぶことにしましょう。(p20 同上)

 わたしたちは「真理」を求めていたわけではないが、「双方の存在様式の変換を同時におこなうことの自発的な相互確認、それを維持〜発展させる回路の共同創出」はいくつもの場面で私たちにとって必須のものであると思われた、論理的には。

しかし一方で、「人間や社会の存在様式の変換」というものをどんなものとしてイメージしうるのか私はまったく分からず困惑していたことも事実なのだ。

フーコーが指摘するように、主体の変形ないし立ち返り(コンヴェルシオン)というものがかってありふれたものであったのならば、それを理解し実践していくことは私にも可能であろうと、思う。

*1:p19「主体の解釈学」isbn:4480790519

2008-11-18

9号3頁から。{ }公判過程〔抄〕

さて、六甲を読むといった作業に寄り道していたので、「時の楔通信」を読むが開始できないままになっていた。

9号3頁から。

〈大阪〉高裁  一九八三年一〇月一一日(第四回公判)

 前回公判までの経過を、できる限りつき放して把握すると、裁判

機構が検察権力との一体化を更におしすすめつつ、被告人側が、ど

のような論理や証拠を提起しようとも、それを無視=抑圧して、年

内に控訴棄却の判決を出そうとしていることは明らかであった。こ

の方向性自体は、すでに公判開姶以来、いや闘争開始以来、明らか

であるということができ、多くの被告人は、例外的な少数を除いて、

この絶対的と感じられる壁の前で、時期のちがいはあれ屈服し、絶

望の身ぶりで武装解除するか、より魅力的に思える別の壁に転進す

るか、これは壁でなく通り過ぎる風景の一つだと自己暗示をかけて

生活にくずれ落ちるというような姿態をさらしてきた。

「裁判機構が検察権力との一体化を更におしすすめつつ、被告人側が、ど

のような論理や証拠を提起しようとも、それを無視=抑圧して」自分たちの

勝手なペースでことを運んでいく。これは裁判に限らず、対権力のどのような

運動(関係)にも見られることである。そのようなとき何をしようと結局

甲斐がないわけである。なので、いろいろな姿態を取りつつ「屈服」していく

しかない。これはただの敗北ではない。闘いというものが存在権利を持たない

ということである。闘いというものははなっから存在権利をもたない。実際、

わたしたちの社会の25年間はそのように過ぎ去った。

そうであっても権力側は必要だと思った変化は採り入れるので社会が変化していかない

わけではない。また言論の自由はあるように見えるので、全体主義だと判断するのも

難しい。

 けれども{ }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対

象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、まだ、対象化を

要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していること

を否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。従って、特定

の裁判官や検察官や各当事者を媒介して公判にかかわるとしても、

それら当事者たちの制約にのみ対処しているわけにいかない。制

約に対処していくのは、それを逆用~転倒していく場合に制約さ

れる。

 しかし考えてみると闘いとは常に、この世の常識の地平に異を唱える

ことであり、裁判のような整ったルールにおいては敗北するに

決まったものだったのではないか。

権力は一部であり大衆の暗黙の承認によってはじめて力を持つ。やってみなければわからない賭。/それでも常に彼らが勝つ賭。

私たちは転倒の可能性を手にしているはずだが、その可能性をどこで見失うのか?

「それら当事者たちの制約にのみ対処しているわけにいかない。」相手の弱点を発見しそこを突くことをしなければならないがそれに満足していると、ともするとブルジョア常識を強化し教条化してしまったりすることにもなりかねない。「それを逆用~転倒していくことができる場合だけに「制約」に対処していこう。」と松下は言う。

国家権力とはネバネバしたスライムの如きものだろうか。切り付けダメージをあたえたはずなのにネバネバしたその体液が私たちの手足にまとわりつき私たちは動けなくなってしまう。

・・・