2008-11-29
■ ”事実も又成長する”
松下昇は、神戸大学における全共闘運動に積極的に参加し、起訴され長い裁判闘争を闘った。
1980年にも {冒頭陳述}書というタイトルの文書を神戸地裁あて提出している。まず自らの事件についてこのように言っている。
α、本件の発生に関する基本的把握について。
本件は大学闘争の提起してきた、さまざまの問題を包括的に
内~外包しているから、たんに個々の事件の集積として扱ったり
法的にのみ評価するだけでは決定的に不十分である。
従って被告人側も、公訴自体が大学闘争の全過程と、どのよう
に交差しているかを、まず明らかにしたい。これについては、す
でに昭和五一年九月二十一日に提出したレジュメで基本的にのべて
いるので(略)
前記のレジュメを、あえて要約すれば、本件の、それぞれの公
訴が提起される時期は、大学=国家が、大学闘争の諸テーマの深
化~拡大に恐怖し、抑圧しようとした、いくつもの時期に一致し
ており、たて前としての大学の自治なるものは、権力と一体化し
た反人民~反存在的なものにすぎない。
検察側は起訴はしてみた
ものの闘争の本質をみぬくことはおろか、有罪の立証さえなしえ
ていないことが万人の眼に開示されつつある。
私たちにとって権力の弾圧も又、逆用しうる自主講座~自主ゼ
ミの一参加形態であり、”事実も又成長する”という認識から、
検察側立証の~四~年間に、さまざまの新しい発見をしてきた。
検察側にとって事実は過去形の固定したもので、法的? 文章で
記述可能と信じられているらしい。
(時の楔通信第〈2〉号 p15)
「事実が成長する」とはどういうことであろうか?
歴史を階級闘争史観や国家主義史観などに還元可能なものと考える思想とはそれは相反する。
例えば慰安婦問題であれば彼女たち、底辺にあって売春(であるようなないような)仕事をしている女性たちというものはまともな学の対象にならず、インタビューの対象にもならず、声無き民としてたまに憐れみの対象になるだけであった。しかし近年では彼女たちをひとつの主体として(エージェンシーとして?)微細な権力関係に分け入り、その発言しにくいといった思いも汲み取ろうとする様々な試みがなされている。同じ事象であってもはるかにきめこまかい把握が可能になってきた。
「事実が成長する」とは例えばそういうことでもあろう。
大学闘争は「もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体との格闘」と、松下においては定義される。闘う主体が十全には対象化してきれていない問題意識において格闘は行われた。したがって、可視的な闘争の終了後、裁判でそれをどう位置付けるかといった闘いは単に付随的なものではなく、本質的な問いかけを自分たちに迫るものと考えられた。「事実が成長する」とはそういうことであったであろう。
えーこの文章には、デリダも歴史修正主義も出てきませんが、下記に(も)刺激されて書きました。簡単に言えば、「事実が成長する」はデリダのせりふであってもおかしくない。でそれが歴史修正主義に利用できるかは、歴史修正主義をどう定義するかの問題だ。