松下昇~〈 〉闘争資料

2014-08-17

らせん状の声・仮装複合の声・時代の声

長い間、ここに書き込めませんでした。

松下のテキストについては、

少しづつネット掲載分を増やしていって下記の目次で確認できるようになっているのですが、その作業も中断したままになっていました。

また概念集の最後、別冊2ラセン情況論は、序文からあとがきまで、14の項目からなるのですが、実はそれ以外に別刷りとして刷られたものが

1項目あります。松下には珍しいサブカル、歌謡についての考察です。

らせん状の声・仮装複合の声・時代の声、という題で、

エンヤ、マライア・キャリー、中島みゆきの3人の歌謡について論じています。

これがリストに題名すら漏れていて、長い間気になっていたのです。先日、N氏から、概念集(全)をpdf化したものをいただきました。

そこで、それからこの項目を選んで、UPすることができました。

(Ubuntuなので、pdfの結合とかうまくできるか心配だったけれど、PDF Chainというのでうまく行った。)5ページある。

http://666999.info/matu/data2/rasen_koe.pdf

「この項目で言及した歌、3曲をテープ録音したものを準備しているので、聴いてみたい方はご連絡ください。」とある。概念集たただの紙のパンフではなく、付録という形で拡大していこうとする志向もあったことを示している。

今はyoutubeがあるので、松下が聴いたものと同じかどうかは分からないがurlを示しておく。

 Mariah Carey - I Am Free + Lyrics

https://www.youtube.com/watch?v=8Ol7JWajXc8

 Enya - The Memory Of Trees

https://www.youtube.com/watch?v=Y7kIyRdpXyo

中島みゆき EAST ASIA はオリジナルはyoutubeにない。*1

ある人が歌ったもの:中島みゆきさんの~EAST ASIA~のつもり♪ (Heartfulchanさん)

https://www.youtube.com/watch?v=G-rsQ7Efy_Q

   *2


あと、極東軍事裁判についてや、タイ人で囚われたナターシャさんについての記事など、一度上げたが、そのサイトが消滅したものがあるので、整理補充していかないといけない。

*1http://ja.wikipedia.org/wiki/EAST_ASIA

*2youtubeという便利なものがあるからそれを使うという態度は、松下的でない。「テープ録音はもちろん〈無断〉ですが、その意味は機会をつくりつつ彼女たちへ伝えていきます。きっと同意するでしょう。」と。商品としてではなく表現課程としてとらえ対話をしていくという志向を書き留めている。インターネットの時代は、そのような志向から見て、〈進んだ〉時代となっているわけです。

2013-01-04[デリダ]

デリダと松下昇のためのメモ

お正月なので、大きく考えてみましょう。

デリダと松下昇についてざっと考えて見ます。高橋哲也『デリダ』*1から引用します。


脱構築は、ある無制限な「肯定」の思想だ。

倫理的・政治的な無責任をよしとするどころか、「責任」の観念のある前代未聞の刷新を提起しようとするものだ。p118

…問いはまだ、それが探求しようと決意した言語を見出していないし、共同体の内部でのそれ自身の可能性を確信してもいない。問いの可能性についての問いの共同体。それはまことに微々たるもの、ほとんど無である。…p120

この3行については、私たちの〈自主ゼミ実行委〉の定義として採用しても良いと思われます。


(略)

プラトン主義形而上学は他者排除の暴力である、これがデリダの最初のテーゼだった。*2

しかし、プラトン主義形而上学を拒否できたら非暴力の世界を作れるわけではない。(cfp122)(レヴィ=ストロース、レヴィナスはその錯誤に陥った。)そこにあるのはむしろ、原エクリチュール、原暴力だ、と。


でナンビクワラ族の固有名の禁止について、p124以下で紹介しています、高橋は。


0.ある人の唯一性、独自性、固有性

α.固有名を付ける  原暴力

β.固有名を隠蔽する 第二の暴力

γ.固有名の禁止の侵犯

δ.固有名の禁止の侵犯=人類学に対する批判


ところで、α.固有名を付ける事は、あるシーニュ(単語)をもって独自性を指示することである。それがシーニュである以上、厳密に固有の名前など存在しない。

固有名の書き込みが原エクリチュールであり、第一の暴力であるわけです。

上のリストを補充拡大すると次のようになります。

(-2. 純粋無ないし純粋無意味 テロリズム)


ー1.自己の複数性、複素数性

けして生じなかったものの喪失、けして与えられはしなかったが夢見られ、いつも既に二重化され繰り返され、自己自身の消失においてしか出現することのできなかった一つの<自己への現前> 


0.ある人の唯一性、独自性、固有性 p126

「現前・主体・意識・生き生きした志向」

α.固有名を付ける  原暴力

原エクリチュールは道徳性と不道徳性の根源、倫理の非倫理的開始、暴力的開始

規定すること形容することも同じ


β.固有名を隠蔽する 第二の暴力

修復的、防御的、道徳を設定し、エクリチュールの隠蔽を命じる

プラトン主義 善悪の階層秩序的二項対立を構成


γ.固有名の禁止の侵犯

悪、いさかい、秘密の暴露、レイプ (経験的可能性)原暴力から出現 p127 


ある人Aが批判されるとき、彼は人格主体として、社会的・道徳的意識によって自己同一的存在として知覚される。p128

上の表での0.とαはむしろ等しい、と考えることができるわけだ。


「β(固有名を隠蔽する)第二の暴力」を乗り越えるためにはどうしたらよいだろう。

「光が暴力のエレメントなら言説に先行し言説を抑圧する沈黙と夜の暴力を避けるために、ある別の光をもってこの光と戦わなければならない。p136」「自分が言説として暴力的であることを自覚した言説、最小の暴力として選び取られた言語をもって 戦う。純粋無ないし純粋無意味に抗して」

がヒントになるだろう。


これについては、松下の方が分かりやすい、ように思います。

〈ー1.自己の複数性、複素数性〉という境位に戻ればよいわけで、それは単に書斎を出て、会議(大衆団交)の場に降り立てばよいだけだ、というのが松下の答えだ。

「これまでのあらゆる革命運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと。*3」とヘーゲル風に規定されもするが、別の言い方もできる。



さて、高橋の本では次の文もあります。

Ouiを答えと思わなければ、ならない。p172

〈私〉の措定、存在の措定、言語の措定はこのウィに対してなお、派生的でありつづけている。

私たちは一つの委託を行った。*4

大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程*5」を比喩するために、最小の重さを持って私たちの前に登場した「33箱」=資料群、はゼロ=ゼロックス室(A367)である。上のリストでは、「ー1」になる。*6

したがって、わたしたちはそれにウィをいうしかないのです。


さらに、デリダは「ウィつまり、原-根源的な責任=応答可能性の継承が、まったき他者に発する均質で連続的な〈伝統〉として形成されてしまう事」に対して警告を発しています。*7

この抗議が〈散種〉であるわけです。(略)

つまり上のリストで、0より小さい領域でさらに肯定的にとらえうるものはすべて、西欧では「神」と言われる。それを避けるためのパフォーマンスが〈散種〉なのだろう。

*1:現代思想の冒険者たち、講談社

*2:「日本は日本であるという同一律」が他者排除の暴力である、私たちは日本における最初のテーゼとしてこれを確認しておく必要がある。

*3http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%97%98%E4%BA%89

*4:私には納得しきれなさが残っているのだが。

*5:同

*6:けして生じなかったものの喪失、けして与えられはしなかったが夢見られ、いつも既に二重化され繰り返され、自己自身の消失においてしか出現することのできなかった一つの<自己への現前>

*7:p177

2012-12-16

mySqlがまた使えるように

mysqlに、文章を放り込んで、それを取り出してhtmlにして表示させる。私の場合、月に平均1個くらいしか作らないのでむだなのだが、でもそれで一応ちゃんと動いていたのだ。ところが今年5月を最後に何度やっても、500 Internal Server Error が出てまったく表示できなくなった。

昨日もいろいろ考えたがダメで、今朝okなものとダメなもののファイルをよく見ると、属性(パーミッション)が、前者が -rw-r--r--,後者は -rw-rw-r-- となっている。

後者を前者と同じように訂正すると、なんと表示されるようになった。やった! 半年ぶりの悩み解決したぞ!

サンプル:「歯みがき粉」概念集・4    ~1991・1~ p15  

http://666999.info/matu/tate/tidea64.php


縦書き表示にもしたいと思ったが、それはなかなか難しそうだ。(上記ファイルはフォルダ名だけ「縦」になっていてかっこ悪い。)

それにしても熱意のない素人でも、半年経ってから進歩することがあるとは、うれしい話だ。

2012-12-09

京都で

小さな集まりを持った。

概要を書けばよいのだが、書かない。

2012-11-03

「註」をUP

今日は、縦書きで、下記をUP。

30分でできるので、〈書経〉として、週2回以上行っていきたい。


71 註  4-30 http://666999.info/matu/tate/t71chu.html


・・・一つは、〈私〉たちを根底のところで規定したり影響を与えたりしている概念(といい切れないものも含めて)に、いわば無重力状態で出会ってみようとする態度であり、もう一つは、それらに出会った場合には、自分の身体的な時間性の根拠に引き寄せて感触を確かめようとする態度であった。・・・


この文章をUPした理由は、上記に惹かれたからだ。

実は私は、7/30付けで、K氏に手紙を出した。

7/15,16に、ハンディスキャナーというものを〈徳島〉に持っていきました。

電子的画像ファイルを簡単に取ることができます(コピーのかわりにパソコンで見れる画像が取れる)(そのかわり、画像が歪んだりすることもある)

試しに何枚か画像を取ってみました。コピーミスなどを整理して15枚ありました。そのうち、13枚を印刷してみました。

それぞれを読んで、抜書と感想をメモしたものが下記です。

〈徳島〉とはどこなのかここでは書かない(「松下氏の遺したもの」が<A>から<N>を経て移動した場所)。

さて、それについて、

10/26金曜、Tさんから電話があった。

「上記の行為つまり資料の転写、配布は、間違っているから直ちに止めるように。」と強く主張された。

私はそれを一旦もっともだと受け入れることにした。(というか電話はすぐ切れたので切れた後に、そう思ったということだが)

つまり、任意の資料は〈原本性〉を持つ。ある固有の〈いま・ここ〉のなかで固有の自己史を背負った人が情況への悲鳴として表現したその湾曲のエネルギー(ポテンシャル)といったものを、テキストの表面的な意味よりも重視するのが、松下の表現論である。〈原本性〉はそうした意味である、と。

そうすればその〈原本性〉に至る強い意志を欠いた、単なるコピーは許されない。彼/女はそう言いたかったのであろうと、そんな風に思った。


反省というのは難しい行為だ。反省とはともすれば口だけの行為になってしまう。自らが偶然あるいは意志をこめて行った当初の行為の重みを越えることはできない。


で、どちらにしても、

「〈私〉たちを根底のところで規定したり影響を与えたりしている概念(といい切れないものも含めて)に、いわば無重力状態で出会ってみようとする態度」は大事であると感じたわけである。

noharranoharra2012/11/10 06:3311/10 「く」変換ミスを発見。あとで直す。