註


 本文で記した内容への補充を意味するのが普通であるが、ここでは更に次のヴィジョンを補充したい。

①本文の流れと同じベタトルでの補充と、本文の流れとは異なる(ズレ、逆、垂直など)ベクトルの補充がある。

②本文の表現主体と註の表現主体が同じ場合と異なる場合がある。

③本文と註の表現の構造が固定している場合と相互に他方の本文であったり、註であったり変換しうる場合がある。

 これらのヴィジョンにこだわらずに、概念集4を作成する作業の最後の項目として何かをくあとがき〉風にかきとめてみよう。後でまた冒頭のテーマにもどるかも知れないが…

 概念集1、2、3の序文に相当する項目を読み返すと、それぞれの段階のパンフにおいて、方向や範囲や内容に関して、それまでと異なるものを目指していることを自分では痛切に感じる。私の力不足から、読者にはたんなるバックナンバーの差として受け取られる可能性があるかも知れないが、〈私〉がこめようとし、応用しようとしているものは、意外に重要であるという気もしている。4では、何か新しい構想を立ててから作業にとりかかるという方法をとらなかった。むしろ、各段階のパンフごとにそれまでと異なるものを目指す、という方法と異なるものを目指した。意志的という以上の直感に導かれて。

 構成や内容について最低限こころにとめていた原則があるとすれば、今やっと原則という概念で取り出すのであるが、一つは、〈私〉たちを根底のところで規定したり影響を与えたりしている概念(といい切れないものも含めて)に、いわば無重力状態で出会ってみようとする態度であり、もう一つは、それらに出会った場合には、自分の身体的な時間性の根拠に引き寄せて感触を確かめようとする態度であった。これが、どの程度の成果をもたらしているかは大変こころもとないし、提起はしたものの殆ど充分に展開しえていないことも自覚してはいるが、これまでにない解放感が、ふとかすめ過ぎるので、これだけでも今はよいのではないか、と思っている。

 さて、冒頭の①~②~③と対比して、ここまで記したことは、どのような〈註〉でありうるだろうか。また、さらに今後どのような〈本文〉がありうるだろうか。様々の示唆や批評や提起を刊行委メンバーとしての読者にお願いしたい。

   松下 昇
         (概念集 4   ~1991・1~ p30~より)
          参照 概念集目次