松下昇~〈 〉闘争資料

2012-11-03

「註」をUP

今日は、縦書きで、下記をUP。

30分でできるので、〈書経〉として、週2回以上行っていきたい。


71 註  4-30 http://666999.info/matu/tate/t71chu.html


・・・一つは、〈私〉たちを根底のところで規定したり影響を与えたりしている概念(といい切れないものも含めて)に、いわば無重力状態で出会ってみようとする態度であり、もう一つは、それらに出会った場合には、自分の身体的な時間性の根拠に引き寄せて感触を確かめようとする態度であった。・・・


この文章をUPした理由は、上記に惹かれたからだ。

実は私は、7/30付けで、K氏に手紙を出した。

7/15,16に、ハンディスキャナーというものを〈徳島〉に持っていきました。

電子的画像ファイルを簡単に取ることができます(コピーのかわりにパソコンで見れる画像が取れる)(そのかわり、画像が歪んだりすることもある)

試しに何枚か画像を取ってみました。コピーミスなどを整理して15枚ありました。そのうち、13枚を印刷してみました。

それぞれを読んで、抜書と感想をメモしたものが下記です。

徳島〉とはどこなのかここでは書かない(「松下氏の遺したもの」が<A>から<N>を経て移動した場所)。

さて、それについて、

10/26金曜、Tさんから電話があった。

「上記の行為つまり資料の転写、配布は、間違っているから直ちに止めるように。」と強く主張された。

私はそれを一旦もっともだと受け入れることにした。(というか電話はすぐ切れたので切れた後に、そう思ったということだが)

つまり、任意の資料は〈原本性〉を持つ。ある固有の〈いま・ここ〉のなかで固有の自己史を背負った人が情況への悲鳴として表現したその湾曲のエネルギー(ポテンシャル)といったものを、テキストの表面的な意味よりも重視するのが、松下の表現論である。〈原本性〉はそうした意味である、と。

そうすればその〈原本性〉に至る強い意志を欠いた、単なるコピーは許されない。彼/女はそう言いたかったのであろうと、そんな風に思った。


反省というのは難しい行為だ。反省とはともすれば口だけの行為になってしまう。自らが偶然あるいは意志をこめて行った当初の行為の重みを越えることはできない。


で、どちらにしても、

「〈私〉たちを根底のところで規定したり影響を与えたりしている概念(といい切れないものも含めて)に、いわば無重力状態で出会ってみようとする態度」は大事であると感じたわけである。

noharranoharra2012/11/10 06:3311/10 「く」変換ミスを発見。あとで直す。