http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/8/12 の続き
今日はどうしても書かなければならないことがあるという気がしているのだが、もう夜になったしどうしたものか。
タイトルは「掲載の困難性について」とした。わたしたちは概念集などの仮装被告団~刊行委員会がかって刊行したパンフ類を、コピーし、販売し、またはこのサイトに公開しようとしてきた。そのような作業をかりに掲載という言葉で代表して書いておく。作業を進めようとする気持ちとは裏腹に、その作業が孕んでいる困難の度合いが増しているのかもしれず作業はいっこうに進みません。(実際には作業は進めていきます。)
この問題を考えるために{時の楔}に関するレジュメという文章を読んでみる。これは1978年に<占拠中のドイツ語ゼロックス室>気付{自主ゼミ}実行委員会 によって編集~発行されたわずか16頁ほどの薄っぺらなパンフである『時の楔 < >語…に関する資料集』の主要な部分を占める文章(レジュメ)である。
{時の楔}とは何か。色々な答え方が可能であろうが、いま私たちは「掲載の不可能性」というテーマを考えているので、わたしたちが、このサイト(グループ)で行おうとした「掲載」活動“がつくりだし,同時に出会っている<資料>の対象化作業の一形態”がそれである、と答えることもできるのだ、と考えておく。
{時の楔}というものは、規定されているのかと思うと平気でそれを飛び越えるかのような不定形で人に不安を与えるもの、という印象を与えてしまうのではないか。わたしたちは例えば金を出して本を買うことにより、本を読むのも読まないのも百%「私」の自由である、といった私の特権性を手に入れる。しかし本来わたしたちは現実つまり関係性のからまりの中にしか生きていないわけであり、関係性から自由な主体でありうるという前提は虚偽なのである。「すでに自らもその出現過程にどこかでかかわってしまっているのではないか,という位相に自らの関係性を発見していただけれぱ幸いである。」という発想は、丁寧な語調とは裏腹に押しつけがましさを感じさせるが、そこで直ちに拒否感に走るのではなく、「自由な主体」というアプリオリを疑ってみるという示唆を受け取るべきである。
なおこの文章では、<占拠中のドイツ語ゼロックス室>が強調されているが、これは1978年現在において占拠中であったがその後排除されるという経過をたどる。概念集3のp20「空間や留置品と共に成長する深淵」(未掲載)などを参考のこと。
(続く)
上の文章のタイトルは最初「掲載の不可能性について」だったのですが、「本当に不可能になったら嫌だな」と思い、「困難性」という言葉に置き換えた。文中も一カ所。
それにともない、下記の文章を削除した。
「困難性と不可能性はまったく違った概念であるにもかかわらず、何ものかを裏切ってあえて不可能性という言葉をタイトルに使用します。」
(2/27)
概念集というのはB4版数十頁(30頁前後)のパンフレットである。
たとえば一番最初の項目である「概念(序文の位相で)」であれば、テキストファイルで約4キロバイト弱。2頁で2千字、1頁千字弱ということかな。1頁四百字詰め原稿用紙換算で約2枚。掛ける37頁だから、ちょっとした短編ということになるが、B4版なのでカサ高い。余白と字が大きいからだが、松下の文体は非常に凝縮されていてしかも飛躍が多いので、余白が多くないととても読めない、という気もする。
概念集などの配布形態 については次の3種類が考えられる。
1)印刷(パソコン~ワープロ~ガリ印刷含む)された物
2)画像ファイル版
3)テキストファイル版
バイト数を数えると、1頁で3)は約4kbだったわけだが、2)は約90kbくらいになる。1)はたった1枚の紙とはいえ実際の物なので情報量には換算できない。あえて言えば無限倍か。この数値はコピーのしやすさに反比例すると考えることができる。紙片であってもコンビニに行けば10円でコピーできる。1枚なら大したことはないが37枚なら370円とそこそこの値段になる。それもコピー機を利用できる環境があった場合のことで、なければ1字づつ手で写さないといけない。それに対し電子ファイルは原理的に一瞬のうちにすべてが正確にコピーでき、メールを使えば海外にまで転送可能となる。コピーの容易さに抵抗するベクトルを〈重さ〉と考えると紙は電子ファイルの数百倍以上の〈重さ〉となる。
なぜ概念集の配布の話を始めたかというと、概念集の新しい注文があったときに、わたしがいちいち作業するのは怠け者の野原において苦痛である、そこでそれを省力化する方法を考えたところ、上記の電子ファイルをそのまま送付すれば簡単だと思いついたわけであります。しかしながら甘い話には罠があるかもしれないと警戒する気持ちが一方で湧いてきます。
α:画像データの取り込み
β:画像データの印刷(B4かA4か?)
要裏表印刷
(この二つを合わせた物がコピー機によるコピー)
心配点:
1) 相手がβ、γの過程をたどる保証がない。
自分の好きな物だけしか印刷しない場合、松下がパンフ全体に込めた意志が伝わらない。
2) 相手が再配布するのが非常に容易になる。
3) 概念集シリーズの画像化が先行すると、刊行リストのなかで、概念集だけがクローズアップされてしまう。身体や祈り~違法性を置き去りにした概念だけのインテリ好みの松下像の捏造に繋がる。
4) Windowsパソコンでブロードバンド接続している人、つまり現在のネット社会に(過剰?)適応している人を対象にした提案である。MacやLinuxユーザーに対してはどうするのか?
とりあえず思いついただけでもたくさんの懸念があるわけです。そこでこのような便利さ~〈軽さ〉の対極にあるもの、として「時の楔 < >語…に関する資料集」を取り出してみた、と言うわけです。
さて、{時の楔}に関するレジュメ に戻ろう。以下※1から※33までそして最後に2つ、数行の断片が並ぶ。
※1 作業の基底で問われ続けているのは,大学~制度とのかかわり,出版~表現の前提を,全て疑いなおす必要のある現情況の位置。
わたしたちの時代において「疑いなおす必要のある」ものを優先順にリスト化してみると、どのようなものになるだろう。むしろ「とりあえず疑いなおす必要のないもの」のリストを掲げる方が簡便だろう。
これらのスローガンだけ見ると戦後左翼の復権と全くイコールである。しかしここまで負け込んでしまった原因を作ったのは戦後左翼そのものであったこともまた事実であろう。話が逸れている。
40年前を現在から見れば、「主体」というものが信じられていた幸福な時代に見える。右翼も左翼も自分なりの近代を信じ大衆はものを言わなかった。そこにはインテリと大衆という社会的区分が存在し、労働組合や各種自治会~会社などがインテリのイデオロギーを大衆に啓蒙した。現在は個に分断された大衆がマスコミ(テレビ)により直接イデオロギーを注入されネットがそれに追随する形だ。
このように考えると、「大学~出版~」の権威を破壊した全共闘運動は、何かと戦っていたつもりでより大きな悪を招き寄せた、ということになる。このような一般論がどれほど有効か、私にはよく分からない。(「大学~出版~」の社会的権威は地に落ちた、そうであるからこそその内部では昔からの権威主義の強化が起こっている、と言えるのか。)
しかし松下の文章は、「大学~制度とのかかわり,出版~表現の前提」について問うているものであった。つまり可視的な「大学~出版~」ではなくその背後にあり対象化困難な「制度~表現~」に対して疑いは向けられなければならない。イデオロギー注入装置としての「大学~出版~」といったたかだか近代国家的な百年スパンの発想とは違い、千年あるいはそれ以上のスパンをもった“世界史性の質と量”から{全てを疑いなおす必要}はやってくるのである。
※9 従って,先験的に何かの本やパンフや,それについての企画があって,個々に完結性を帯びているのではなく,それらを可視的な媒介とする関係性の運動の総体こそがより巨大な発行の過程ないし実体であるといえる。
概念集という薄っぺらなパンフが14種類あるという先験からわたしたちは出発しようとした。とりあえず本文37頁の「概念集・1」をテキスト化しネットに載せようと。(思い返せば10年前からわたしはそういう志向を持ち試行は行ってきたのだった。)にもかかわらず2ヶ月経つが、本文は最初の2頁が掲載されただけで先に進んでいない。この原因はもちろん野原の怠惰にあるが、野原を押しとどめたものがあったのであろうとも考えられる。
概念集のコピーは一瞬でできる。概念集とは、「私たちのくぐってきた〈 〉闘争過程と、はるかな異時・空間に生起しうる〈 〉闘争過程に共通する本質を、経験ないし思考を媒介して言葉によって抽出することは可能であり、必要でもある*1」という発想により表現~刊行されたものであるから、それを掲載し読んでもらうことは善であり遂行されるべきだ。そうであるにもかかわらず掲載は遅延し続けた。
「掲載」を媒介として「それらを可視的な媒介とする関係性」をどこからどこへ動かそうとしているのかについて確信が欠けていたから、かも知れない。
(3/1記)
※14 {時の楔}の作業について,この感覚を少しずつのべてみよう。わずか数ヵ月という短い期間にしぼった<資料>群についてさえも,それらを集め,配列し,編集していく準備は大きい困難にぶつかる。一つ一つを確認し,コピーをとり,討論のための配布をおこなう経済的・労力的な重圧は,ここでは省くとしても,全くその存在さえ確認されないまま,ある力を及ぼしているもの,原本性の宙吊りのために複製不可能なもの……。
今日は早く起きれたので、「レジュメ」を読む作業を続けたいと思った。ところが作業を始めようとして、つい自分のブログのおとなり日記というのを読むと色々興味深いことが書いてあった。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060301
「つくる会はシオニストに乗っ取られた!」というエントリーを昨日書いた。これは日本の愛国主義集団が親イスラエル勢力に乗っ取られた、という内容。これに対して、今日読んだのは「戦国時代日本娘をキリシタン勢力が多数海外に売っていた」という話。親ユダヤ=キリスト教的愛国勢力と、反キリスト教的愛国勢力がいると。でそうしたことはそれなりに興味深い論議の対象ではあるわけです。
ただこのスレッドのテーマのひとつは「コピーの容易性(の持つ落とし穴)」です。ブログでは、カットアンドペーストが一瞬でできるので、2,3個のサイトを見て回るだけでほんの十数分で百行以上の「文章」を簡単に作り上げることができます。
引用ばかりとは言っても自分のブログを簡単に否定したくないというか、否定すべきでないとは思うのですが、圧倒的な「容易さ」がそこにあることは事実です。
ネットに上げられた文章はすべて容易にコピー可能である。しかし既成の印刷文化(書籍、雑誌、ミニコミ)もまたコピーすることを、文化とか政治活動とか呼んでいるにすぎません。
〈全くその存在さえ確認されないまま,ある力を及ぼしているもの,原本性の宙吊りのために複製不可能なもの……。〉
あるいは、
〈それらを集め,配列し,編集していく〉〈一つ一つを確認し,コピーをとり,討論のための配布をおこなう経済的・労力的な重圧〉、大小の砂をすりつぶすような果てしない作業、そのような〈感覚〉を置き去りにして、容易さにだけ溺れてしまうことを、松下は遠くから糾弾している。
おひさしぶりです。2月半ばから急に作業が滞ってまして、失礼しております。
<ワープロによる刊行>を読んだもあって、最近ノートと鉛筆を使う機会を増やしました。
なんというのか、少し自由になった感じがします。いや、ホントに。
不思議なことですが、書き物の生産性があがっています。
印刷された形態では9頁ある「{時の楔}に関するレジュメ」を、やっとテキスト化し、上記に掲載した。OCRを利用しているので作業だけならもっと短時間でできたのだが、一通りでも読んで考えるのに時間が掛かった。
普通の方法では意味を確定できないだろうと思われるようなフレーズに満ちている。
試みにリスト化してみると下記のようだ。
{ }
{松下 昇~未宇}
※1 大学~制度とのかかわり,出版~表現の前提を,全て疑いなおす必要がある
※2 大学闘争のもつ世界(史)性の質と量
※12 言語の発生以来の諸領域はそれぞれの諸領域の区分ないし根拠の解体の水準でしか真に対象化しえないのではないか,という直感
※18 長い苦闘の中でやっと誕生しつつある{卵}たちの生命
※19 その一行の声に至るまでの過程は無数にあり,その宇宙を最大限に巡礼する努力を抜きにして,
※20 いま、開始している作業は,それ自体いかに困難であるとしても,ほんとうは,いまなしうる最もやりやすいことであり,
※23 現在までの詩あるいは詩的な立場と深く異なる位相で出現してきている。
※25 提起に耳を傾けない膨大な存在,世界のこちら側の{私}たちに可視的な提起をしない存在~の総体を参加させえないような詩はもはや成立不可能ではないか。
※27 たとえば構成リストに記された<資料>に出会いたいと考える場合には,このレジュメに出会った経路を逆にたどって{自主ゼミ}実行委員会に問い合せてほしい。
※27 構成リストに記されていない表現の創出にとりくんでほしい。
※28 パンフレットとか発行の概念が転倒し,運動しはじめている
※30 その編集・刊行・販売(資金回収)のすべてに<仮装被告(団)>が責任を負うという注目すべき特性をもつ。
※31 時そのものが楔として,{私}たちに何かの対象化を迫っていることの喩
※32 人類史が現在までに獲得してきたと称する全ての学問・技術の,大学機構に象徴される枠に収監されている体系の個々の名称
非常に深い同時代性で照らし合っている(だろう)フーコー、ドゥル-ズ、デリダなんかと比べると、日常語しか使っていないから、非常に平明とも言えるが・・・
※5 ふしぎな,かつ必然的な一周というべきであろうが,6年前の企画においても,{私}たちは現在と同じ問題,表現と掲載のズレの止揚,発行委員会の仮装性,構成リストの膨大さなどととりくみ,その作業は宙吊りになったとはいえ,そのときの手ごたえを忘れずに生きてきたつもりでいる。
1978年現在、全共闘的なものの残り火は消え去ろうとしていた。しかし松下とその周辺は、“わたしたち”を情況として発見し、情況に働きかけようとしていた。概念集が始まったのは1989年、十年経っている。松下昇の基本的な構えは変わっていない。しかし、松下の孤独(孤絶)はより深まっている。概念集を構成するひとつの文章が、一人の優秀なインテリゲンチャの表現として過不足のないものだと評価しうるとすれば、そこに松下の強いられた仮装~限りない不幸が存在するかもしれない、とも言えるのだ。
※6 従って,現在,{私}たちが,別の位置で,別の構成リストを作成しているということはできないが,もし,当時と現在の構成リストに差異があるとすれば,6年前のリストは,その一つ一つがほほビラなどで公開されており,テーマとして分類しやすかったのに対し,現在のリストは出現~開示の範囲が,さまざまの幻想領域を横断しつつ孤立しており,テーマごとに,まるで別の星雲に投げこまれたような異相を呈するであろうということであり,これこそ情況の困難さの証し(同時に,ほんとうの何かが始まる証し)と考えてよい。
さらに30年経ち、情況の困難さは目を覆うばかりだ、とまず言えるとしても、松下がすでに「見てしまった」と言った、“大学~マスコミ~「左翼」の真の姿”が露呈しただけかもしれない。さてわたしたちは30年前と同じく非力であるがそのことが問題なのではない。わたしたちは強力すぎるパソコンや情報手段(インターネット)を持っているとも言える。すでに編集された巨大な〈構成リスト〉~刊行リストもある。わたしがわたしの夢と切迫を自己のものにするなら、わたしたちは絶望するに及ばないのだ。
おひさしぶりです。
掲載作業についてですが、本当に予定通りに“仕事を進め”られないわたしに自分でもあきれています。もちろん自分だけで立てた予定だから文句を言われる可能性はないわけですが。
あ・・・概念集1を順に掲載する
い・・・概念集シリーズの序文を順に掲載する
う・・・批評集α編1から逮捕状などの掲載
いずれもやり始めてすぐ中断しています。
「時の楔 <>語…に関する資料集」は「い」シリーズの前史に当たるものです。
パンフレット後半も掲載していく予定です。
<ワープロによる刊行>の影響で、ノートと鉛筆を使う機会を増やされたとのこと。
で、いままでと違った自由を感じていると。なるほど。
松下の予想していなかった反応でしょうが、愉快ですね。
確かに自分が何を求めているのか分からずに模索するときは白紙にむかっていたずら書きとかしながらメモを書いたり消したりするのが良いような気もしますね。
わたしもやってみます。
ところで、新・概念集 http://from1969.g.hatena.ne.jp/mojimoji/
のことをある人(黒猫氏)に知らせようとしたら、
「プライベート設定で入れない」と言われました。
野原については自由に入れるので気づかなかったのですが、グループ員だけの制限に成っているのですか?それだと私以外には一人しか読めないことになりますね。(はてな会員という制限であれば黒猫氏の勘違いということでしょうが。)
この掲示板や“〈 〉闘争資料”については、誰でも読めて書き込める設定にしたかったのだがそうなっているかな?そのあたり、hatenaの設定に依存してしまうところが不安というか問題点ではある。
申し出さえすれば誰でも読めて書き込める、というもの「公開」の方法の一つとして興味深いですが。
こういったことについてどう考えておられますか?
ここの掲示板は、誰でも読める。hatena会員だけ書き込める。
“〈 〉闘争資料”は、誰でも読める。コメントできる。
http://nohara.poo.gs/bbs/bbs.php PHP掲示板 は、誰でも読める。誰でも書き込める。
ですが、字が小さくて読みにくいという苦情が、高本さんからあったのだが未だ是正できていない。
という状態にあります。
モード設定について。
そういえば、これ先に言っといた方がよかったですね。
IDを直登録した人のみ閲覧、というモードになっています。
実際には見に来ていない人のIDも含めて、勝手に登録している人が何人もいて、
その人たちは仮に見に来れば見られるようになっていると思います。
とりあえず、誰が見ているかについては、把握できる状況で進めたいというのが最初にあったので、
そういう形にしてあります。
(表に出すには若干脆弱な思考を出している、ということも理由の一つですね。)
黒猫さんは失念しておりました。早速登録しときます。
(もう少しネタが増えてきたら、相手のIDを登録してからその人のブログにTBするなどしながら、というようなことも考えてますが。)
作業はあせらずやりましょう。とだけ、とりあえず↑の件について取り急ぎ。
えーと、哲学研究者が哲学書を読むときどういう風に読むかというと次のようだ。
もし、内包されている哲学的言明を純粋に取り出し、それらの詮議考究を、ある種の組織立った仕方で為すならば、それも当然ある程度は可能であろうし、実際、多くのプラトン研究というものは、そうしたものである。
プラトンをこういう風によむと、プラトンはいかにも冗長な無駄の多い本を書いた奴でしかない。
判断主体を社会と現実に於ける人格として描きつつ、かつ、ある特殊な原理と態度を経て、その現実内での通常の知識と判断を根本的に改変して、哲学的判断を形成するに至る、その記述の全要素こそ、プラトン読解を意義あるものにし、また、そこにこそ不滅の魅力がある、と思うのである。(ところで、哲学の古典たる著作は、ほとんどすべて、これあるが故に、不滅の意義を持っている、とも私は考えている。我々は、ただ、そのように読まずにすむような読解を、いろいろな理由から、よしとしてしまってるだけであって、もしこの不滅のものたる由縁に即して読もうと勉めるならば、すべての古典は、そのような要素を読者に語り告げてくれるものとなるであろう。)(同上)
はじめに哲学があったのか?つまりオリンピックという制度があったから、必死で努力してみましたみたいな話なのであればつまらない。そうではなくあるひとがはまりこんだ(選び取った)自己と情況との間の抜き差し成らない戦いの報告が、結果として哲学なり文学なりといわれることになるということなのだろうか。
ソクラテスは、如何にして、彼の斯かる判断と知識を形作ったのか、それを導き出したのか、何故それらは、通常の知識と判断のままでは、彼に取って十分なものではなかったのか、これらをプラトンの記述する場面に即して読み取らなければいけない。(同上)
松下は直接わたしに語りかけてくる。良くも悪しくも。・・・しかしながらいずれにしても十年経ち直接性が失われつつあることは確かだ。したがって、資料たち~テキストが描き出すとおりの{松下}がそこにおり何かを語ろうとしているがタイムラグがありただちには分からない、そのような解読の材料として資料たちを扱うこともできる。
松下に対する思い入れの強さがしばしばイカロスのように失墜し憎悪に似たものに変化するのをわたしたちはしばしば見てきた。わたしたちがあらかじめ持っている思いこみを一旦排除して、松下の描き出す松下に、「何故それらは、通常の知識と判断のままでは、彼に取って十分なものではなかったのか?」という問いを発することは、とても意味があることだと思える。
「1977・12・6 拡大自主ゼミに至る過程」 を掲載しました。
『時の楔 < >語…に関する資料集』~1978・10・16~ の10頁です。
原型であった手書きレジュメをなるべくそのまま活版にしようと努力したもののようで、
とりあえずテキスト化してみましたが、等幅フォントでないので形がぐじゃぐじゃになってしまいます。
私の環境でだけきれいに見えるように調節しても、他の方からはきれいでないことになるだろうと思い調節もせずに、提出しておきます。
あとで画像ファイルも付けるようにします。
概念集の電子ファイル化~テキストファイル化というものが「コピー容易化」という方向性であるとして、
それに逆らうベクトルはどのようなものとして計算されるべきか? ということをこの間考えているわけです。
したがって「1977・12・6 拡大自主ゼミに至る過程」は、読みにくいところに意味がある、とも言えるわけですが、そう言ってしまうのは居直りであり、シニフィアン(表出された表面)においても内容(「単位制についての戦い」のある局面を前提とする)についても説明していくという方向で提出したい。
ぐじゃぐじゃでごめんなさい。
昨日までに概念集1、を3冊印刷した。
概念集1は、2以降と違い完全両面印刷である。
表面と裏面をきちんと並べた画像ファイルを二つ用意していたので、手早くできた。windows画像とFAXビューアによって、マルチtiffファイルを連続印刷できる。片面だけなら簡単だが、両面になると裏表上下逆さまになるとか、紙が2枚吸い込まれたので裏面が1枚とばされてしまい、裏表の対応が狂ってしまいやり直し、とかエラーの可能性が非常に高まる。本文37頁、表紙と目次、裏表紙で40頁20枚だが、同じくらいの枚数のミスコピーが出た、数日前に1冊作ったときには。昨日はちょっと習熟したのでミスが少なくなった!
今概念集2を印刷中、こちらは目次と裏表紙以外両面印刷がないので楽!ただし、目次と裏表紙画像ファイルもないのでワープロで今から作るつもり。うちのプリンターはバブルジェットなのでどうしても少しは汚れが出る。コンビニのコピーの方がきれいだ。今からワープロしてみよう。
それと、「松下昇概念集・訂正リスト」というB5半ピラの紙が出てきた。本文9行。これを追加しないといけない。
訂正の仕方に2種類あって、「訂正文(パソコン用語で差分か)」を追加するか?、原本を直してしまうか? 「訂正リスト」こだわった松下の思想を伝えるという意味もあり、より楽な前者の方にしよう。「2」以降にもある問題だ!
ちなみに今日は、梅田で立岩、稲葉の対談があり聞きに行く予定。〈69年性〉の思想と言えば、立岩氏は青い芝の会が持っていたそれを、思想的に継承、復活させた方、と評価できる。
という三つのレジュメを掲載しました。
1977・12・6という日付を持つ一枚のレジュメの前提は、わりとシンプルな構造を持つ。
(x)「ドイツ語の本」という実現された一冊の教科書。
(y) それの作成過程において結果的に排除された部分をまとめたもの:正本ドイツ語の本。
(z) そうした討論~作業過程からはみだしてくる内容~問題点を深化~把握するためのパンフ:「時の楔 <>語…に関する資料集」
(x)(y)(z)という三項は、一見ヘーゲルの正、反、合に似ている。それは否定できない。一方どこが違うかというと。ヘーゲルにおいては「合」が成立すれば「正」はそこに包括されているので「正」の独自性を保存する必要はなくなる。松下においては
「(x),(y),(z)の総体にかかわることが,(略)問われている」とあるように、x,y,zはそれぞれ独自のベクトルとされている。高校数学における空間を構成するx軸y軸z軸のようなものだ。
一冊の優れた本を書き上げることではなく、「それらを可視的な媒介とする関係性の運動の総体」、そのn次元の渦、それは見通すことも把握することも困難であるのだが、そのような総体に対する<祈り>が決定的に大事であるとされる。“より巨大な時間性を持つ{ }の構造”に迫っていく最初の一歩であるという予感において。
次に、1978・1・20という日付を持つレジュメにも、α、β、γという3項が現れる。
しかしそれは前回の(x)(y)(z)という三項とは異なっている。
α:(x)(y)(z)及び、(x)が現実の教科書として関わる単位認定過程に参加者がいかにかかわりうるかなどの問題点。
β:αのテーマ群は、1970年代の情況~存在の中で,各人の~生活~の根拠と,どのように交差しているか?
γ. いま提起しえていないテーマ群は何か? それを提起~していく方法は何か?
以上のような三項となっている。
以上、松下~の方法が、一冊の教科書の編集というトリヴィアルな過程から、ただちに宇宙的めまいを覚えるようなn次元の渦に飛翔していくというダイナミズムに、わたしたちはここで触れることができた。