さて、{時の楔}に関するレジュメ に戻ろう。以下※1から※33までそして最後に2つ、数行の断片が並ぶ。
※1 作業の基底で問われ続けているのは,大学~制度とのかかわり,出版~表現の前提を,全て疑いなおす必要のある現情況の位置。
わたしたちの時代において「疑いなおす必要のある」ものを優先順にリスト化してみると、どのようなものになるだろう。むしろ「とりあえず疑いなおす必要のないもの」のリストを掲げる方が簡便だろう。
これらのスローガンだけ見ると戦後左翼の復権と全くイコールである。しかしここまで負け込んでしまった原因を作ったのは戦後左翼そのものであったこともまた事実であろう。話が逸れている。
40年前を現在から見れば、「主体」というものが信じられていた幸福な時代に見える。右翼も左翼も自分なりの近代を信じ大衆はものを言わなかった。そこにはインテリと大衆という社会的区分が存在し、労働組合や各種自治会~会社などがインテリのイデオロギーを大衆に啓蒙した。現在は個に分断された大衆がマスコミ(テレビ)により直接イデオロギーを注入されネットがそれに追随する形だ。
このように考えると、「大学~出版~」の権威を破壊した全共闘運動は、何かと戦っていたつもりでより大きな悪を招き寄せた、ということになる。このような一般論がどれほど有効か、私にはよく分からない。(「大学~出版~」の社会的権威は地に落ちた、そうであるからこそその内部では昔からの権威主義の強化が起こっている、と言えるのか。)
しかし松下の文章は、「大学~制度とのかかわり,出版~表現の前提」について問うているものであった。つまり可視的な「大学~出版~」ではなくその背後にあり対象化困難な「制度~表現~」に対して疑いは向けられなければならない。イデオロギー注入装置としての「大学~出版~」といったたかだか近代国家的な百年スパンの発想とは違い、千年あるいはそれ以上のスパンをもった“世界史性の質と量”から{全てを疑いなおす必要}はやってくるのである。
※9 従って,先験的に何かの本やパンフや,それについての企画があって,個々に完結性を帯びているのではなく,それらを可視的な媒介とする関係性の運動の総体こそがより巨大な発行の過程ないし実体であるといえる。
概念集という薄っぺらなパンフが14種類あるという先験からわたしたちは出発しようとした。とりあえず本文37頁の「概念集・1」をテキスト化しネットに載せようと。(思い返せば10年前からわたしはそういう志向を持ち試行は行ってきたのだった。)にもかかわらず2ヶ月経つが、本文は最初の2頁が掲載されただけで先に進んでいない。この原因はもちろん野原の怠惰にあるが、野原を押しとどめたものがあったのであろうとも考えられる。
概念集のコピーは一瞬でできる。概念集とは、「私たちのくぐってきた〈 〉闘争過程と、はるかな異時・空間に生起しうる〈 〉闘争過程に共通する本質を、経験ないし思考を媒介して言葉によって抽出することは可能であり、必要でもある*1」という発想により表現~刊行されたものであるから、それを掲載し読んでもらうことは善であり遂行されるべきだ。そうであるにもかかわらず掲載は遅延し続けた。
「掲載」を媒介として「それらを可視的な媒介とする関係性」をどこからどこへ動かそうとしているのかについて確信が欠けていたから、かも知れない。
(3/1記)