~1978・3・25~
{自主ゼミ}実行委員会 気付{松下 昇~未宇}
{時の楔}とは何か。何かの必然によってこのテーマに出会う人が,それまでの経過を全く知らないと仮定した場合の{私}たちからのヴィジョンを提起してみる。この提起によって{時の楔}というものが,固定した作業目標ではなく,すでに自らもその出現過程にどこかでかかわってしまっているのではないか,という位相に自らの関係性を発見していただければ幸いである。{私}たちの非力のために経過や問題点の説明が不十分であったり,錯誤していると考える場合には,いつでも逆提起をしてほしい。
なお,このレジュメの原本は<占拠中のゼロックス室>(意味については,正本<ドイツ語の本>や,この空間におけるn回の拡大自主ゼミの経過から把握していく必要がある。)に,関連する<資料>群と共においておくことを強調したい。
{時の楔}を,いま過渡的に,1977年10月から1978年3月までの期間に,{自主ゼミ}実行委員会の活動がつくりだし,同時に出会っている<資料>の対象化作業の一形態としてのパンフレットの題名である,と考えていくことにする。
{自主ゼミ}実行委員会とは何か,については,{時の楔}とは何か,と問うのと同位相の困難さがつきまとうが,一応,前記のパンフレットの企画に具体的にかかわろうとしている人たちの関係性を想定してもらえばよい。(本質的には,この概念は,途方もなく飛翔していくのであるが,あくまで発想の一つの基軸としてのべていることに注意。)
無数の本やパンフレットがあふれている世界の中で,パンフレットを仮装する{時の楔}の出現を必然たらしめる要因については,可視的には,三一書房刊「ドイツ語の本」(1977年3月第一刷発行)と正本<ドイツ語の本>(1977年9月発行)との連続性を手がかりにしてみる。その際,最低限いっておくべきことは,この連続性が,たんに時間的にあるというのでなく,それぞれの出現過程自体が対象化されつつ次の本ないしパンフレットの構想がうまれていること(1977・12・6 拡大自主ゼミに至る過程?,と題するレジュメ参照),および,そのために必要な作業を,その素材が主体にしいてくる時間的かつ現実的に切迫しているテーマとの関連でおこなおうとしていることである。({1978・1・20拡大自主ゼミ}レジュメ参照)
このような方向性で企画が具体化したのは1977年10月であり,そのとき試案として出された<資料構成リスト>は,前記1977・12・6と1978・1・20拡大自主ゼミをくぐりぬけて,質量ともに変化しており,<資料>を総体として把握すること自体が大きい困難と把握の根拠の変換をしいてくるのであるが,その概略的な構成~問題点をかいまみておく必要があるだろう。({時の楔}構成リスト参照)
いま,かいまみている構成~問題点についてわき上ってくるヴィジョンを断片的に記してみると……。
※1 作業の基底で問われ続けているのは,大学~制度とのかかわり,出版~表現の前提を,全て疑いなおす必要のある現情況の位置。
※2 これは,具体的な{時の楔}の発行についてだけでなく,大学闘争のもつ世界(史)性の質と量がしいてくる条件である。
※3 起訴状・大学広報の水準の資料集の創出さえなしえていない自己~批判からの出立。もちろん,共同幻想としての法や体制に,そのような総括をしい,無意識の共闘をさせ続けていることは逆用しうる成果の一つであるとはいえ,そのような逆用をしいてくる根拠の最終的転倒~解体へのはるかさに自覚的であれということである。
※4 闘争に好意的な出版社の70年代にわたるいくつかの申し出にもかかわらず,企画が実現しなかった経緯,1971~72年に六甲で試みられた闘争史発行の宙吊りの経過についても,対象化すべき課題が集積している。(仮題神戸大学闘争史発行委員会「<闘争史>発行運動を問うために」その1~3~を参照)
※5 ふしぎな,かつ必然的な一周というべきであろうが,6年前の企画においても,{私}たちは現在と同じ問題,表現と掲載のズレの止揚,発行委員会の仮装性,構成リストの膨大さなどととりくみ,その作業は宙吊りになったとはいえ,そのときの手ごたえを忘れずに生きてきたつもりでいる。(1976・5・16付の前記の発行委員会メンバーの一人から購読予約者あての提起を参照)
※6 従って,現在,{私}たちが,別の位置で,別の構成リストを作成しているということはできないが,もし,当時と現在の構成リストに差異があるとすれば,6年前のリストは,その一つ一つがほほビラなどで公開されており,テーマとして分類しやすかったのに対し,現在のリストは出現~開示の範囲が,さまざまの幻想領域を横断しつつ孤立しており,テーマごとに,まるで別の星雲に投げこまれたような異相を呈するであろうということであり,これこそ情況の困難さの証し(同時に,ほんとうの何かが始まる証し)と考えてよい。
※7 前にのべた「1977年10月から1978年3月までに~つくりだし,同時に出会っている」<資料>の時間性は,たんに現在に最も近い6ヵ月という以上の意味をもつ。
※8 1977年10月は{時の楔}の企画が,正本<ドイツ語の本>発行と同時期に(ということは必ずしも同方向性でというのではなく,発行以降の応用振幅を最大限にしていくねらいをもつ)出現した段階であり,1978年3月は,三一版「ドイツ語の本」が,発行後さいしょの単位認定終了にさしかかる段階である。
※9 従って,先験的に何かの本やパンフや,それについての企画があって,個々に完結性を帯びているのではなく,それらを可視的な媒介とする関係性の運動の総体こそがより巨大な発行の過程ないし実体であるといえる。
※10 この把握方法は一つ一つの<資料>と相互関係についてもあてはまるし,すでに1960年代から予感的に実践してきた原則でもある。
※11 ただし,これは,表現は情況と切りはなしてとらえてはならない,という一般論におとしめて理解したり提起したりすることとは全く異なる。そのような風化しやすい一般論と最も鋭く対立し続けてきた長い痛苦の過程が{私}たちの背後にあるからである。
※12 闘争過程における<資料>集を出していくことが自明にプラスである,という前提を,もし,もう一度つき放して考えてみると,それは大学闘争の課題が,言語の発生以来の諸領域はそれぞれの諸領域の区分ないし根拠の解体の水準でしか真に対象化しえないのではないか,という直感から出立していることをかみしめねばならない。
※13 前記のことは任意のテーマから論じることが可能であり,しいられた任意性の一つでさえも膨大な問題群へ対数的に拡大していき,生活ないし生涯をかけても,なおその一断片にふれるにすぎないという絶望に似た感覚の断崖に{私}たちを立たせる。
※14 {時の楔}の作業について,この感覚を少しずつのべてみよう。わずか数ヵ月という短い期間にしぼった<資料>群についてさえも,それらを集め,配列し,編集していく準備は大きい困難にぶつかる。一つ一つを確認し,コピーをとり,討論のための配布をおこなう経済的・労力的な重圧は,ここでは省くとしても,全くその存在さえ確認されないまま,ある力を及ぼしているもの,原本性の宙吊りのために複製不可能なもの……。
※15 そして,パンを得る日々の仕事の合間に,あるいはその仕事を放棄~中断して一定の作業をすすめたとして,何度もかすめる想いは,このように集め,配列し,コピーし,配布し……という過程が,n次元の渦を平面化し,既成事実化し,固定化していくことへの加担ではないか,という不安である。
※16 一枚のメモでさえ,それに出会い,討論の媒介となるまでに巡礼してきている過程でくぐっている問題,つくり出している別のメモなどと切り離してとらえられないし,メモにさえならない領域を包括しようとすると作業は殆んどすすまず,<資料>が存在する自然的時間が<資料>を対象化する時間に比してあまりにも短く,虚しいという感慨さえわいてくる。
※17 だから時として内部にひびく声は,この方法を捨てよ,<資料>はそれ自体として存在し,消滅するにまかせよ,それが,私たちの生きざまをふくむより巨大な<資料>集でもあるのだから,とささやく。
※18 この声は非常に魅惑的である。しかし,この一行の声に,もしもひきこまれてしまえば,長い苦闘の中でやっと誕生しつつある{卵}たちの生命を一瞬にうちくだいてしまう危険から解放されはしない,といううめきの方が生きのびつつあるし,生きのびる責任もあるのだ。無数の領域の死者たちのためにも。
※19 先ほどの一行の声がひびくにまかせておく他ない瞬間が,いつかはやってくるとしても,その一行の声に至るまでの過程は無数にあり,その宇宙を最大限に巡礼する努力を抜きにして,一行の声に耳を傾けたり発したりすることは決して{ }から許されない,という祈りに似た気持が,この瞬間の作業を支えている。
※20 同時に,いま、開始している作業は,それ自体いかに困難であるとしても,ほんとうは,いまなしうる最もやりやすいことであり,しかも,いまは全く隔絶しているようにみえる領域の作業への必須の回路としても,この作業が不可欠なのだ,という想いが燃えているのを阻止できない。
※21 冒頭にのべた時期の区分,制約内のテーマ,という方法も,その実践の徹底化が逆に,それ以外の時期やテーマへの展望をきり拓くこともありうるし,{時の楔}プランでつきあたる手ごたえは,より巨大な(もしかしたら世代をいくつか重ねるほどの)時間性をもつ{ }の構造の一端を明らかにするだろう。総体の把握を可能にする一端を。
※22 いうまでもなく,{私}たちが,どのように重要性をこめているつもりの作業でも,別の位置からは全く関心の外にあるか,錯誤にみちたものとみなされうる。これに対して{私}たちは,おそらくそうでありうるとして,関心の外においたり,たんに~とみなすことではやりすごせない,{私}たちと{あなた}方の出会いの場から問題をとりだし,対象化しようとしてきた。大学闘争の全ての本質的な問題(とくに,その把握が発想~生き方の水準を開示してしまう単位制の問題)がそうであるように。
※23 もしかしたら,{私}たちの方法は,現在までの詩あるいは詩的な立場と深く異なる位相で出現してきている。これは詩を政治や恋や~やをふくむ他のどのような立場におきかえても成り立つといい切る覚悟の後にいえる,ないし実践している方法である。
※24 国家にむかって詩をかくことができるか,という1970年代のある詩人の提起をさらに深め,拡大し,未宇的な試みに心を熱くして漂い行こうとする際に目にうつるのは,すでに出現している{時の楔}の表紙である。{あなた}は,その出現や巡礼過程にどのように参加しうるか。
※25 提起に耳を傾けない膨大な存在,世界のこちら側の{私}たちに可視的な提起をしない存在~の総体を参加させえないような詩は(そして詩を支える現実的基盤も)もはや成立不可能ではないか。
※26{あなた}の存在の様式が,すでに{時の楔}の表紙をめくっているとして,その内容は{あなた}にとってどのようなものであるか全く不確定である。ここに記してある文字は,たんに{時の楔}のテーマにふれる一つの媒介となるにすぎない。
※27 このことを把握した上で,たとえば構成リストに記された<資料>に出会いたいと考える場合には,このレジュメに出会った経路を逆にたどって{自主ゼミ}実行委員会に問い合せてほしい。さらに,構成リストに記されていない表現の創出にとりくんでほしい。({あなた}による{時の楔}のパンフレット化~{ }化をふくむ。)ほんとうは,~してほしい,というより{私}と{あなた}が決して逃れられない関係性の場で相互にこのテーマに出会いたいのだが……。
※28 この瞬間,{あなた}は,パンフレットとか発行の概念が転倒し,運動しはじめていることに気付いてくれるだろうか。ただし,安易に気付いてはほしくない。たとえば,{私}たちが印刷費用はおろか生活費にも窮している段階で公判の罰金,過料,訴訟費用の請求に対して,ずっと,印刷所としての裁判所や刑務所という発想がうかんでいた。それまでの過程にこめられているなにかが,前記のことに気付くための最低の条件の一つであるといっておく。
※29 ところで,{時の楔}という題名は,どこからきているのか。これらの題名を,{あなた}のえらぶものに変換(できれば双極変換)してもらうとありがたいのだが,ともかく,この題名の前史過程についてふれておく。
※30 構成リストの中に示されているように,これは1972年に刊行された本の題名でもあるが,その編集・刊行・販売(資金回収)のすべてに<仮装被告(団)>が責任を負うという注目すべき特性をもつ。この特性がどのように現在までの{私}たちの課題に連続しているか,についてはそれだけでn冊の本にもなりうるので,ここで詳細を展開しない。というより,この本だけでなく,構成リストにあるさまざまの<資料>がn冊性を帯びていくような展開の仕方をこそ,{私}たちは目ざそうとしているのだ。
※31 ただ,少なくとも,前史過程の時の楔が,時への楔,という方向性をこめて命名されていたとすれば,現在は,これとは逆に,時そのものが楔として,{私}たちに何かの対象化を迫っていることの喩としてもつかいたい,ということは強調しておく。これまでの通念に,すでに使用された表現や題名は後でくりかえし使用できない原則のようなものがあるとしても,それをこえて何かをやっていき,以前の題名や位相を双極変換的に復活させていく必要と責任を{私}たちは感じている。
※32 < >語…とは何か。可視的なドイツ語は一つの契機にすぎない。本来,それは,人類史が現在までに獲得してきたと称する全ての学問・技術の,大学機構に象徴される枠に収監されている体系の個々の名称と考えるべきである。発想の危機的情況はさらに深い。一つの痛切なエピソードだけいうと,{私}たちが,1970年代のはじめから,表現の根拠の再検討をふくむ,徹底的な自己~世界批判をおこない,現象的な沈黙や(法廷などへの){不}出頭を持続していたとき,あなた方は,言葉の意味をもっと大切に考えるべきだ,他者にもっとよく意志を伝えるべきだ,とくりかえし要請したのは,権力者だけでなしに,高名な思想家,教師や新左翼弁護士,活動家たちであった。
※33{私}たちは,意識的に反体制をとなえつつ,存在の様式として体制を支えているかれらと深く訣別しているが,それだけが{時の楔}の作業を支える情念ではない。
※n-1
※n さいごに,あるいは,さいしょに提起したいのは,これまで提起してきたあるいは,これから提起していく{時の楔}は,その総体が,未宇(約)書と名づけうる,なにかの{一}ページであるように構想されている,ということである。{ }のむこうに何を創出するにしても,少なくとも,{私}たちにとってはそこに未宇的なものの生死がかかっている。
(全文・前半)