という三つのレジュメを掲載しました。
1977・12・6という日付を持つ一枚のレジュメの前提は、わりとシンプルな構造を持つ。
(x)「ドイツ語の本」という実現された一冊の教科書。
(y) それの作成過程において結果的に排除された部分をまとめたもの:正本ドイツ語の本。
(z) そうした討論~作業過程からはみだしてくる内容~問題点を深化~把握するためのパンフ:「時の楔 <>語…に関する資料集」
(x)(y)(z)という三項は、一見ヘーゲルの正、反、合に似ている。それは否定できない。一方どこが違うかというと。ヘーゲルにおいては「合」が成立すれば「正」はそこに包括されているので「正」の独自性を保存する必要はなくなる。松下においては
「(x),(y),(z)の総体にかかわることが,(略)問われている」とあるように、x,y,zはそれぞれ独自のベクトルとされている。高校数学における空間を構成するx軸y軸z軸のようなものだ。
一冊の優れた本を書き上げることではなく、「それらを可視的な媒介とする関係性の運動の総体」、そのn次元の渦、それは見通すことも把握することも困難であるのだが、そのような総体に対する<祈り>が決定的に大事であるとされる。“より巨大な時間性を持つ{ }の構造”に迫っていく最初の一歩であるという予感において。
次に、1978・1・20という日付を持つレジュメにも、α、β、γという3項が現れる。
しかしそれは前回の(x)(y)(z)という三項とは異なっている。
α:(x)(y)(z)及び、(x)が現実の教科書として関わる単位認定過程に参加者がいかにかかわりうるかなどの問題点。
β:αのテーマ群は、1970年代の情況~存在の中で,各人の~生活~の根拠と,どのように交差しているか?
γ. いま提起しえていないテーマ群は何か? それを提起~していく方法は何か?
以上のような三項となっている。
以上、松下~の方法が、一冊の教科書の編集というトリヴィアルな過程から、ただちに宇宙的めまいを覚えるようなn次元の渦に飛翔していくというダイナミズムに、わたしたちはここで触れることができた。