松下 昇

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文責 永里繁行

 松下 昇(まつした のぼる、1936年3月11日~1996年5月6日)は、1960年代末から1970年代にかけての大学闘争の渦中、学生たちの側に立ったいわゆる造反教官としてマスコミや文化的領域で盛んに取り上げられたが、大学闘争を生み出した情況の本質を「ある事件とされるものの現実と、それに交差する幻想過程の比重が、ほぼ拮抗し、あるいは後者が前者をのみこみつつある世界(史)的な段階」と捉え、ユニークな表現運動を展開〜提起している未だ名付けがたい表現者である。
 1979年当時、ドイツのハンブルグ大学の教授であったKlaus Briegleb(クラウス・ブリークレープ)はその著『 Literatur und Fahndung 』(文学と探求)に記す。
 日本では西ドイツの非雇用政策ほど卑劣な、過度の愚かさに至っていないとはいうものの、同じやり方はすでに組織化された原則になっていて、批判を封殺するのに十分である。しかしながら、バリケードに立てこもる学生たちが日本的なやり方で排除されている間、別の独自の人間によって身体的ラディカル性と徹底した問題提起を社会状況の最先端で展開する方法がつくり出されている。バリケード内部に存在するときの、ある敬けんさをもって著者はこの本に、その人間の名を記す。松下昇が、その人間の名前である。  (自主ゼミ実行委員会訳・京都大学新聞80年9月1日号)。
 机上で自由に執筆して書籍を出版するという公開形式をはみ出す松下の表現過程は、主に、闘争現場におけるビラ、掲示、講演、あるいは自立誌への転載や寄稿、手近な用具ないし機器を用いた手作りのパンフとして公開〜〈販売〉されてきている。彼は自分の〈職業〉をユーモアを交えて〈 〉焼き業とも呼んだ。

1・前史的経歴(1936年~1966年)

 [ ]内は『序曲』(「試行出版部」1965年9月発行)に掲載のプロフィルから。
[一九三六年 長崎県に生まれたが、まもなく奈良県へ移転。古都の名残りと部落民に、無意識的にとりかこまれていた。]
 【註】・1936年(昭和11年)3月11日、長崎県大村で出生。生誕当時、父清雄は当地の師範学校で地理を教えていた。幼稚園年長の時には奈良へ移転、以後高田の浮穴で成長期を送る。家族は他に母の秀子、6歳年上の姉玲子、6歳年下の妹早苗。
 高田小学校2年時の作文で、海軍に入って技術将校になり山本元帥の敵を討つと約束する愛国少年でもあった。百科事典を読みふけって勉強ばかりしていてガリ勉とはやしたてられたが、近隣の古代遺跡群に入り込んではよく昼寝をしていた。小学校では先生に代わって算数の教壇に立つこともあり、高田中学校では神童とも言われた。戦前、戦中、戦後の教育界を先端で生きていた父は外目から計り知れぬ苦悩もあったのか、付け届けなど一切受けつけない潔癖さの反面、酒や薬におぼれかけてミスもあり、高校の校長だった頃、酔って田んぼに落ち、何度も探し歩いたという。その父は後年、奈良大学の創設に関わり副学長になった。
 1951年4月、奈良女子大学附属高校に入学、同級生には東大寺や薬師寺の子息もいた。高校ではいじめにもあう。
 1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、日本は「国連軍(実質は米軍)」の出撃中継補給基地となり、全面的な米軍協力政策が敷かれた。結果的に軍事物資の生産を中心とする「特需」をもたらし、深刻な不況下にあった経済が活性化、やがて1955年以降のいわゆる「神武景気」へと繋がり、金融機関を中心とした財界再編、旧財閥系独占資本の復活へと、高度資本主義社会への足がかりを固めつつあった。1951年9月、サンフランシスコ対日講和条約が49カ国で調印された日の夜、米軍司令部で日米安全保障条約が調印され、翌年4月28日に発効する。占領軍は名目上駐留軍に変ったが、基地周辺住民の生活環境の悪化、悲惨な被害事件の続発は深刻の度を増す。マッカーサーの指令によって創設された警察予備隊は、1952年に保安隊、1954年7月には陸海空自衛隊となる。1952年9月から始まった石川県内灘の米軍試射場反対闘争を先駆けに、九十九里・妙義・富士山麓・伊良湖岬へと基地反対闘争は全国的に広がっていった。
[一九五五年 東大入学。Eros への観念的極左冒険の試みに失敗。]
 【註】・1956年2月、スターリン批判。同年10月、ハンガリー革命発生。国内では吉本隆明・鮎川信夫の「文学者の戦争責任」など、詩人・思想家を中心に様々な角度から世界思想の根底的検討が開始され、戦後世代は新しい知的情況の洗礼を浴び始めている。足指の瘭疽(ひょうそ)悪化で前年の京大受験に失敗した松下は、1955年4月、1浪して東大文学部独文科に入学する。膨大な読書量をこなす一方、東京砂川の基地反対闘争に関与。翌1956年の立川基地拡張阻止の現地闘争にも長期間参加した。
[一九五七年 その反動として抒情的に日共へ入党。ハンガリー革命の意味をつかめず。]
 【註】・この年4月、沖縄・砂川全国学生総決起集会。7月、学生・労働者砂川基地突入。日本共産党は51年に具体化した武装闘争方針を55年7月の第6回全国協議会で転換している。
[一九五九年 東大独文科卒業。密室の生活を続けた。経済的窮迫。自己と状況の唯一の突破口として共産主義者同盟へ加盟。]
 【註】・卒業論文は「ハイネにおける幻想の生起と崩壊」(表現集・3に収録)。共産主義者同盟(ブント)の結成は1958年12月10日。「私は指導的な位置にいなかったが、それでも、いや、それだからこそ、この飛躍に共鳴して参加している充実感だけが論文作成を持続させた原動力であった。」と記している(「表現集・3」~94・4~ハイネ論に関する註)。当時学連幹部だった西部邁について東北地方のオルグにまわった。この年6月5日、全学連第14回大会はブント路線を採択(委員長は唐牛健太郎)。11月27日、ブント全学連日米安保反対全国ゼネスト、国会包囲。
[一九六〇年 六・一五国会突入。樺美智子、私の下痢を心配。]
 【註】・6月15日、安保改定阻止国会包囲デモ、2万人の全学連主流派が国会南通用門から突入、樺美智子が虐殺される。(彼女は先頭に立ち、自分は2列目位だった。普段は遥かに遠い雲の上の存在であり気軽に話しをすることはなかった。)と、述懐している。8月9日、安保闘争の総括をめぐり、ブント分裂。
[一九六一年 東大大学院入学。殆んど出席しなかった。翌年の自立学校へは数回出席。]
 【註】・大学院研究室の指導教授は手塚富雄。登山好きで6歳年長の荻原勝(後に岡山大学被処分教官)と同室となった。授業には殆んど出ず、数学に熱中。自立学校の印象は「奇妙な夜の記憶」(1965年1月神戸大学第二課程新聞掲載)に書きとめられている。
[一九六二年 ”関係としての被告団”を自己の内部からとりだすために「遠嵐」をかきはじめる。(『試行』5号に発表されたのは第一稿であり、この本に収録されたのは第二稿の一部である。)]
 【註】・”関係としての被告団” は、大学闘争の裁判過程で仮装被告(団)として現実的に登場。『序曲』に収録された「遠嵐」が第二稿の一部であると述べている意味は、紙に書かれた別稿が複数存在するという以上に、基本テーマが別位相の表現や現実過程へと連続し、記述を含み且つ超えていく〈作品化〉のプロセス~表現過程にあることを暗示している。
[一九六三年 大学院終了後、神戸大学へ勤務して現在に至る。対話の不可能を自覚。六・一五視点から自己と状況を規定する作業の重層的な歪みを「北海」(『試行』9号)でひとまず捕捉。]
 【註】・修士論文は「ドイツ表現主義の諸問題—ブレヒトとベンを媒介して」(”ゴットフリート・ベンとベルトールト・ブレヒトの表現主義” と改題して表現集・3に収録)。教授会の採用に異論が出て決定が遅れたため、5月に入ってから神戸大学御影分校で助手として独語の授業を開始。この年二~三月頃、菅谷規矩雄と出会い親交を深める。8月には作品「北海」のほかに「ブレヒトの方法」(神戸大紀要 論集63・12)、「ハイネ『北海』における詩と散文の相関性」(神戸大紀要 文学64・2)を執筆。
[一九六四年 幻想としての現実の基底にあるために必然的な分裂をする三つの主体が同一の時間・空間にくみこまれる場合の力学を「循環」(『試行』12号)によってさぐろうとする。夏 Entlaufen. 十月、六甲山系西端のベンチで工藤恵美子と結婚。(司会は菅谷規矩雄氏。)]
 【註】・8月神戸大教養部講師に昇任、同大学第二課程などいくつかの講師も併任した。楠ヶ丘のアパートで新婚生活を始める。菅谷規矩雄は年度初めに神戸大の助手として就職し、66年に名古屋大(69年10月からは東京都立大)に転任するまで、松下とA430研究室を共同で使い、どちらも学外の任意の人々とも共同使用していた。6・15、安保闘争に関する討論集会を企画(参加者ゼロ)。
 この年の執筆論文は「ブレヒト『処置』の問題」(神戸大紀要 近代36号64・8、後に「処置するもの・されるもの」と改題して『同時代演劇73・9』に併合表現と共に転載)。作品「循環」で扱われているテーマは、討論の〈場〉そのものが党派性の止揚でもありうるような方向をめざす〈自主講座〉から{自主ゼミ}実行委員会のテーマへ実践的に連続。
[一九六五年 今までの表現過程の転移を対象化し、自己批判を存在批判に貫徹する方向で長編を構想中。]
 【註】・10月、松下は何ものかの啓示に導かれるように作品「六甲」を書き進めた。(「試行」15号に序章を、翌年19号にかけて第5章まで掲載)。「六甲」第五章の末尾には次のように記されている。
 「断言できること……この瞬間から〈六甲〉をかき続ける主体は、私だけではなく、私たちである。関係としての原告団よ、〈六甲〉を吹き抜ける風にのって、当然の比喩だが、タンポポの綿毛のように、弯曲した世界へ突入していけ。私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。」
【1966年】 
 作品「六甲」で”私”~を包囲し、それ自体強い存在感を放っている〈 〉は、言葉の強調、区別、変換的含みといった一般的使用法とは異質である。未知の運動領域への開始符として、ことばのもつ既成概念の幻想的重力を超えて時空間に交差する気配を漂わせており、触れる者の〈無〉意識的な追求衝動に働きかける。
 「〈 〉をつけよという指摘は、決して言語の問題へ収束せよということではない。自己の拠点を表現することばに〈 〉をつける度合は、その拠点が介入する現実過程を変革的にとらえる度合の正確な喩になっている。そして〈 〉をつける行動は、この喩を再び共同の現実過程へ投げかえす行動を必然的に内包するのである。」(「反権力の自立的拠点—対話によせて」学内総合雑誌『展望』68・9)
 このような〈 〉の紡ぎだす本質的関係は「六甲」の対的作品とも言いうる「包囲」においてさらに集中的に表現された(「試行」21号(67年6月)から「試行」25号(68年8月)にかけて掲載)。
 66年3月14日に長女まやが誕生。
 「ハイネの序文に関する序論」(66年神戸大 論集2号)、「〈ハンガリー革命〉—〈六甲〉」(66年11月神戸大学新聞)、「〈第n論文〉をめぐる諸註」(67年ドイツ文学論集1号)などを執筆する。
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2・軌跡(序)(1967年~1976年)

【1967年】
 10・8羽田闘争に誘発されて「情況への発言〈あるいは〉遠い夢」を執筆、
「~いま私には、形式のむこうにある自己の位相と衝突しない全ての〈声明〉(ある条件をこえて、〈表現〉一般についていいたいのだが……)は、支持であろうと非難であろうと〈対等〉に不毛であるとしか考えられない。~」との一節がある(学内メデイアは掲載を拒否したので、翌68年4月「あんかるわ」18号に掲載)。
【1968年】
 多くの検挙者・犠牲者が頻発する中、学生らを中心に闘争は全国に波及していった。学内矛盾に端を発し、それに関わる過程で本質的問題性に突き当たるノンセクトの学生らを巻き込みながら、東大・日大など多数の大学がストライキに突入、6月、全学共闘会議(反日共系)結成。時を同じくして、世界各地で既成の権威に対するラディカルな異議申し立てが続発した。
 神戸大では、11月28日、学生寮の問題を契機として寮自治会が神戸大学評議会と大衆団交。その時点で評議会は寮生の要求の正当性を確認。ところが、12月5日、評議会が確認を白紙撤回したことが事務局長のメモから判明したので寮生を中心として大学本部の封鎖開始。12月18日、教養部学生大会で、評議会が団交に応じるまでのストライキを決議。12月20日、工学部学生大会でもストライキを決議。12月26日、八木学長(法学)が辞任、戸田義郎(簿記学)が学長事務取扱となる。
【1969年】
 バリケードで年を越した大学は東大・東教大・東外大・電通大・日大・中大・青学大・明学大・芝工大・山梨大・富山大・大阪大・神戸大・関学大・長崎大。明けて間もなく静大・広島大・東理大・北大・京大・横国大・東工大・立命館大などが続いた。大多数の教師や管理当局関係者は、問題提起に立ち上がる学生らを一部の暴力学生と規定、対等性に基づく対話を拒否し、機動隊を導入して封鎖解除(=問題提起封殺)に奔走、長い歴史を持つ大学は、世界史的必然がもたらす内側からの問いに曝され、知的関係性の硬直状態を一般大衆の面前に露呈させた。
 1月16日、神戸大学評議会が大衆団交ではなく、全学集会にのみ応じる見解を示したので、全学的に批判がエスカレート。東大安田講堂死守闘争の余韻消えやらぬ1月25日、教養部B109教室で松下は学生らと最初の自主講座を開いた。2月1日、全学四項目要求をめぐって神戸大学評議会と学生らの大衆団交が決裂。2月2日、松下はマジックで書いた「情況への発言」を教養部掲示板に張り出して、以後、教授会に非存在する。
 『〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君!2月1日の団交は評議会が〈寮問題〉に関する解決能力を持っていないことを暴露した。しかし、これだけをスト続行か中止かの基準にしてはならない。まして〈時間〉が切迫しているからといって、〈しけん〉のための秩序に復帰してはならない。〈スト〉に入る契機自体よりも、一ヶ月以上にわたるスト持続によって、一切の大学構成員と機構の真の姿がみえはじめ、同時に、自己と、その存在基盤を変革する可能性がうまれていることの方が、はるかに重大なのだ。(後略)』(転載メデイア多数)。
 学生数人が連名の立看「永続的自主ストライキ宣言=〈未知なるものへの祈り〉」で応え、追加署名者が続出する。教養部ではストライキ実行委員会が暫定執行部となり、2月10日、A棟にバリケードが構築されると次第に全構内に拡大、他の学部も次々とストを決議した。2月28日、学生は、昨年の団交による確認事項が後に白紙撤回されたかどうかを確認するため、68・12・5録音テープの公開を協議会にせまった。学生の要求を拒否しきれなくなった協議会は公開に踏み切ったが、編集しなおした〈にせテープ〉であることが発覚し窮地に追い込まれる。
 3月1~2日、封鎖解除のデモを指導していた日共党員をバリケード内に連行~監禁したとして共産党県委員会が告訴、国会でも共産党議員が緊急質問、ストライキ実行委員長や反戦青年委員会のメンバーを事後逮捕する。3月6日に機動隊を導入して教養部の現場検証がおこなわれ、一時退去を余儀なくされると、バリケードの原初性を侵犯されたという感受や、事件の評価が学生間でも分岐し、バリケード内に或る荒廃状況が生じた。松下は断続的に行っていたB109の自主講座を3月中旬から持続的に展開する。4月以降は参加者や問題提起者がさらに増加し、関西学院大(3・18解雇)や市立神戸外大(5・15解雇)で非常勤講師を解雇されると、自主講座は他大学へも拡大していった。
 団交を拒否して封鎖解除の全学的意志確認を行うセレモニーとしての全学集会に、各学部間のズレやためらいがあったけれども、学長事務取扱(戸田)は強行の方針を曲げなかった。7月12日全学集会予定当日、鉄条網と機動隊に守られたセレモニーは阻止行動で中止されたが、機動隊に崖から突き落とされた全共闘派は多くの負傷者を出した。7月21日、文学部有志教官14名が封鎖解除反対声明。
 8月に入り国会で大学臨時措置法が強行採決されると、適用第1号になることを恐れた評議会は早急な封鎖解除方針を決める。8月7日、全関西規模の全共闘派が神戸大に結集、大学構内に通じる六甲登山口にバリケードを築いて機動隊と激しい攻防を繰り広げた。前夜から一人でバリケードを占拠していた松下の〈バリケード的表現〉が構内の様々な場に掲示・ビラ・落書として出現した。
(前略)敵でも味方でもない、ある圧倒的な力によって問題提起の正しさが弯曲していくのではないかと一瞬おとずれる感覚のむこうに、はじめて、ほんとうの闘争がはじまっている。いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。(後略) (試行29号等に転載)。
 9月1日、封鎖解除後の授業再開に際して、教養部当局は自主講座が使用してきたB109教室に授業を設定、自主講座メンバーの授業変換の呼びかけは処分~起訴理由の一つとなっていく。9月2日、〈バリケード的表現〉に呼応する学生たちがあらためて〈自主ストライキ宣言〉を公表、教養部構内に巨大な白ペンキの〈 〉が出現、〈 〉広場と呼ばれた。東京で全国全共闘連合結成大会が行われた9月5日、教授会は昭和43年度後期の授業を11月まで行い、11月から昭和44年度の1年分の授業を行うという時間割を決定する。松下は闘争の提起した問題を未解決にしたままの授業再開をあらためて拒否し、自主講座による対決を宣言する。9月23~24日、助手共闘3名が教授会決定による時間割を拒否して独自の実験を開始するとの声明。9月27日、教授会は松下担当のドイツ語クラスを他のクラスへ変更させようとするが、拒否する学生が続出した。69年度入学の新しいノンセクトグループも次々に登場、大学側の授業再開を包囲するクラス討論の持続、自主講座を台風の目として引き起こされる様々な事態は、大学闘争史上特異なケースとなる。
 10・21国際反戦デー、11・16~17佐藤訪米阻止闘争には、神戸大からも多数参加、一方、大学当局による松下排除の動きもますます強まっていた。12月3日、(処分を議題とする)教授会の公開を求めた(出席資格を持つ)松下の存在位相は、他の参加者と明らかな違いがあったにも関わらず、逮捕~起訴~処分理由の重要カードとして利用されていった。
 12月14日には、他大学との連帯の一環として、菅谷規矩雄(転任後間もない菅谷は11・11授業再開拒否)の東京都立大学解放学校で報告~問題提起。
「大学によってそれぞれ条件は違うと思うけれども、我々の場合には、自主講座運動がいわゆる全共闘運動を包囲している形で展開されており、また単に闘争者がやっている運動というよりは、この運動にかかわる人間がたとえ我々が敵対する場合でも、自主講座運動に無意識的にも参加しているのだという確認を前提としています。たとえば、我々の自主講座に大学当局や民青や、さらには機動隊がやってくる場合も、彼らを平等な参加者とみなして運動を続行してきました。」と述べつつ、問題を次のような6項目に整理して報告している。(註・以下要約)
  1. 〈表現の階級性〉→権力を持つ者と持たない者の表現は文字~音声としては同じでも現実に持つ意味は違う。
  2. 〈バリケードの拡大〉→活動空間がそのままバリケードになってしまうような創造(想像)的なバリケードの構築。
  3. 〈テーマの不確定性〉→自主講座のテーマは、自分たちが創り出しうる最も深い情況に、自分たち自身が存在することによって引き寄せられる一切のテーマ。
  4. 〈全共闘概念の変換〉→自分にとって必然的な課題と情況にとって必然的な課題とを対等の条件で共闘させる。
  5. 〈報復と一行の詩〉→報復~復讐とは、或る情況に原罪性をもってかかわっている全ての人たちが、一行の詩をかかざるを得ない様な現実的条件を作り出すこと。
  6. 〈必然的スローガン〉→体制や機構と同時に、我々自身の表現の根拠を変革すること。』 「私の自主講座運動」(RADIX2号~あんかるわ〈深夜版〉等に転載)
 この年の可視的表現としては他に次のようなものがある。「権力を持たない者は空間をもつことができる」(情況69・3臨時増刊号)、「新・告知版への発言」(アサヒグラフ69・3・7号)、「表現の変革と機構解体」(日本読書新聞3・24号電話インタビュー)、「不確定な論文への予断」(神戸大 論集7号)、「機構の変革あるいは表現の変革」(神戸大新聞4・11号)、「表現運動としてのバリケード」(大学を告発する全国教員報告集会での発言~情況69・7号掲載)。
【1970年】
 1月3日のビラ〈なにものかへのあいさつ〉は、孤立の深層に交差するテーマの波動を論理性に変換しつつ、また、それ故に(一ヶ月後に誕生する長男未宇をふくむ)なにものかに向けて、自らの情況的位置を伝えようとする~祈り~を基調音として響かせている。
 私が、年代や情況の表面的な変化とは関係なく格闘しなければならないテーマは、私が、この数年間追求してきたテーマ、α・不可能性表現論、β・情熱空間論、γ・仮装組織論(連続性論)などを、包囲し、つきうごかすようなかたちで訪れてきている。それは、いますぐに、ここで展開させうるものではない。むしろ、私は、それらの星雲状の総体からやってくる波動を、この紙片でうけとめることによって、私のように闘争とかアピールから最も遠い位相にある人間を最前線に押し出してしまう何ものかの残酷な力と対抗しようと願っているのだろう。それゆえ、残りの数十行に私が断片的に、一気に埋める言葉は、純粋に私だけのものである。しかし……いや、やめておこう。時は迫っている。(後略) (「試行」30号、「あんかるわ」24号等に転載)。
 1月5日、単位認定制度を自主管理しつつ昭和43年度ドイツ語履修者234名全員に〈0〉点を記入して提出。文部省から大学へ報告要求あり。
 1月8日、B108教室の黒板で発見された〈〈〈〈〈〈 〉〉〉〉〉〉は松下の落書行為とされ起訴対象になっていくが、学内外の表現者に深い衝撃と関心を呼び起こした。多数の詩人や批評家らが神戸大での表現運動を論じるようになる。
 2月2日、長男松下未宇誕生(〈情況への発言〉から一周年、この日付に対する松下の思いは特に深い)。
 2月22日、B109教室~A430松下研究室で、折原浩(東大助教授)、北村日出夫(同志社大助教授)、最首悟(東大助手)、滝沢克己(九大教授)、中岡哲郎(神戸外大講師)と自主講座(「学問・教育・闘争」と題して朝日ジャーナル3・22~3・29掲載)。
 3月18日、教養部教授会執行部は「投票ではなく意見分布を確認するためだ」として、「事実問題に限定して」松下に関する秘密調査委員会を具体化、同月25日、この委員会メンバーの選任を教授会議長(湯浅)に一任した上で非公開の人事とする執行部案を提出、賛否を会員に投票させることによって『合法化』する、このやり方が各段階で繰り返された。   
 3月28日~4月4日、松下未宇が呼吸困難のため緊急入院。
[この期間中によど号ハイジャック事件発生、松下には殆んどその関心~記憶なし。]
 調査委員会の報告と処分の提案が予定されている4月8日の教養部教授会を、学生らと共謀の上妨害したとして機動隊に現行犯逮捕させるが、現場を通りかかった松下を誤認もしくは意図的に逮捕させた(処分を目的とした機構側の〈共謀〉の)疑念が裁判過程でも浮上する。疑念に符合するように、1週間後の4月15日、またしても「決定ではなく単なる意見分布の確認」という理由付けの下、教養部構内を全日ロックアウトし、機動隊の護衛つきで、処分の程度についての審議を強行(投票結果は;戒告10,減給3,停職10,免職55,白票18)。さらに5月6日、教授会議長はこの投票結果を「懲戒免職処分が妥当とする意見多数」と大学評議会に報告し審議を要請した。5~8月、家宅捜査~逮捕~起訴、加えて大学は落書きについて松下を告訴し、その身柄拘束によって活動を封じこめ、処分を確定しようとする。大学当局への反撃経過は、9・5青焼きコピー「〈八月〉闘争の〈事実性〉」(RADIX3号に転載)に簡潔にまとめられている。なお、「裁判を一つの比喩として展開されつつある闘争に関するレジュメ(7月31日)」を「あんかるわNo.26」に転載したときの註記から、この処分過程に何を見ていたかが明らかである。
 平均的な労働者の解雇処分の過程にくらべて私の場合の進行の緩やかさと複雑さは、私が大学というある意味で特権的な場の労働者であることからきているであろう。しかし、別の意味でいうならば、大学でおこなわれる闘争は、言語発生以来の全ての課題を問いなおしつつ展開せざるをえない本質をもっており、たんなる階級闘争論や党派政治の水準に還元されてはならないと思う。これは私の闘争や処分過程の対社会的な特殊性を意味するのではなく、その逆である。私を処分する動きは、大学闘争、表現運動の成果ないし新しい質を総体的に圧殺しなければ生きのびられない権力者たち、およびかれらを支える現実構造の必然にもとずいており、全ての人が、私と同じように幻想性を含む全存在過程を圧殺されていく怖るべき情況に突入していくことの予兆であろう。」  (9月30日「掲載された文書についての註記」表現集・続に収録)
 10月16日、評議会は学内外の抗議行動と多数の処分反対声明を無視して、処分説明書未交付のまま松下の懲戒免職を決定した。評決内容は非公開であったが、神戸地裁の検察官冒頭陳述によると、評議会議長(戸田)の松下懲戒免職の提案に対し、賛成21,反対4,欠席8(欠席が異常に多い)とされる「70年10月六甲から」(五月三日の会通信4)。
 だが、松下を含む自主講座実行委員会は、処分決定後も、A430松下研究室への立入禁止通告や数百冊の研究図書変換請求を〈無視〉して自主管理を続けた。処分に関して人事院へ審査請求した11月16日、六甲山系の油コブシにおいて佐々木幹郎と対談「反風土の蒼貌」(日本読書新聞12・7号に掲載)。
[11月25日、三島由紀夫が自衛隊決起を呼びかけ割腹自殺。]
 〈八月〉闘争の段階から、岡山大の人事院審理~南山大~姫路工大~長崎大~九州大~広島大と巡礼して、自主講座が迎えた12月24日(クリスマスイブ)、神戸地裁第一回刑事公判の法廷風景は英字新聞を含むマスコミ各社が一斉に報じた。『紙吹雪…大合唱 神戸地裁 松下(神大造反元教官)ふざけた初公判 被告席にニセ者二人 人定質問に代返』(大阪新聞)といった見出しが踊った。開廷まぎわ、白いシーツをガウン風にまとい聖歌隊に仮装した傍聴席の男性5人が一斉にクリスマス讃歌を合唱。彼らが廷吏によって乱暴に引きずり出されると、被告席の一人が立ち上がり「それではここで拡大被告団会議を開きたいと思います」と発言。被告席の仮装者によって人定質問は混乱し時間切れ。閉廷直後、被告人は傍聴席に向かって多数の小紙片を散布して法廷を〈祝福〉。裁判所は数時間の拘束と後日の制裁決定・過料3万円で報復(生涯未納)。仮装被告(団)はビラ「仮装としての被告とは何か」を配布して何事かの始まりをアピールした(五月三日の会通信5号他転載メデイア多数)。
 他の可視的表現の一部には次のようなものがある。1・5ビラ「祝福としての0点」(あんかるわ24号に転載)、1・8掲示板のマジック表現「反幻想的な問い」(処分調査資料として大学側が筆写)、「2・1ビラ〈真の論争のために〉、2・9ビラ〈誤解者の失墜〉、3・3~4ビラ〈微笑的挑戦〉、5・14掲示板のマジック表現〈……への問い〉」(それぞれ処分者側の教養部広報22号に転載)、7・31青焼きコピー「裁判を一つの比喩として展開されつつある闘争に関するレジュメ」(あんかるわ26号に註記と共に転載)、10・15「処分されているのはいったいどちらか」(神戸大学生協機関紙『砦』66号)。
 東京での日本独文学会総会(5月3日)で処分反対決議案が否決され、決議案提出者(小川正巳・野村 修・脇阪 豊)及び賛成者を中心に、被処分者らの闘いを伝える機関紙として「五月三日の会通信」が発行されている。
【1971年】
 前年の処分決定と刑事訴訟開始後も持続~活性化する松下らの自主講座運動を排除するため、国は、A430研究室明渡仮処分、続いて明渡請求(本訴)、再三の逆封鎖、内容証明便による構内立入り禁止通告、また、自主講座が継続的に使用してきたB109教室での授業設定、担当教職員に抗議する学生や松下の逮捕~起訴、警察への告訴状、参加学生の保護者に対する自主退学要求~と、やつぎばやに攻撃を加えた。
 松下は5月末、生協の教職員総代に立候補し、投票箱を自主管理しつつ、討論深化の契機を探る(投票結果は6月に入っての第三回まで松下一票、他0票)。
 処分をめぐる人事院の公開審理は7月に始まったが、共闘者の一人が傍聴席で口にした〈パン〉によって中断、各大学から結集した支援の代理人の間にも分岐が生じた。一方、刑事公判は機動隊を背景にした神戸地裁の訴訟指揮との対立が続き、審理情況は刑事・人事・民事をふくむ〈n事闘争〉に突入する。松下は情況の切迫に拮抗するため、11月17日の刑事公判から「参加ないし出頭することを関係性から要請されている場合に、あえて要請に応えずに別の時・空間に存在することによって、関係性への反批評ないし転倒を試みる行為」を開始する。「{非}存在闘争」と呼ばれるこの方法は、一見情況への消極的対応に思われがちだが、非存在によって生じる新たな弾圧(保釈取消や拘引)ないし問題性(共闘者間の軋轢や混乱)を引き受けることでもあり、孤立と苦闘を潜り切ろうとする運動エネルギーに満ちた積極性でありうることを主張し実践していく(概念集・1「非存在」)。
 この年、「あんかるわ別冊〈深夜版〉2—松下昇表現集(北川 透編集)」が1月1日付で発行されている。(後記に〈私がいつか私の前史的表現について、執筆、刊行、転載……のずれをふくめて表現するだろう〉という松下の書簡の一節を記す)。
 「私に対する四つの文章」(現代の眼71・1)、1・29東京都立大解放学校での報告~問題提起(解放学校通信掲載)、5・18罫紙「特別抗告申立書」(試行33号に転載)、11・28南山大で〈委託〉に関する会議(発言集・続に収録)などの表現あり。
【1972年】
 1月10日、松下がB棟教室の机~ガスストーブを応用して、タコ焼き風の〈 〉焼きを、問題提起と共に学生らに〈売り〉はじめると、その繁盛ぶりが一部の新聞や週刊誌によって全国配信された。2月15日、後期試験監督~警備中の教官らに材料の卵を投げて〈 〉焼きに参加させた容疑で逮捕、試験をボイコットして学費値上げ粉砕闘争中だった学生らの内19名が、待機していた機動隊によって松下と共に逮捕された。この事件で起訴された後の3月3日~4日には、再び入学試験場となった教養部正門前で〈 〉焼き闘争を展開した。
[巷間では連合赤軍の凄絶な〈仲間殺し〉の発覚によって反体制運動の岩盤に激震が走っている頃であった。]
 6月12日、東京都立大学で菅谷規矩雄が懲戒免職処分。6・24東京都立大解放学校で報告~問題提起〈不可視の拠点から〉(発言集・続に収録)。
【1973年】
 6月20日、自衛官殺害事件の容疑をうけ潜伏している京大助手竹本信弘を隠秘しているとして、松下の住所をふくむ全国十数ヶ所の家宅捜索。菅谷規矩雄や北川透の住居及び岡山・徳島をふくむ処分反対闘争の拠点がふくまれていた。同月28~29日、家宅捜査第2波。73年7月9日、東京都立大学(被処分者、菅谷規矩雄)の東京都人事委員会審理に出席したが、処分者側証人の宣誓に際して起立しなかったので審理は永続的に中断された。
 7月12日、「竹本氏に関する捜査を批判する京大における集会」での松下の発言、(註・以下要約)
竹本氏が権力に追われるという形で潜伏しているとしても、それ以外にも様々な理由で様々な領域に潜伏している人達がこの現実過程の中に充満している。このような人達の象徴として〈竹本〉問題がある、〈竹本〉から〈松下〉への委任状といわれている文書を一つの例として、宙吊りになっている表現、あるいは〈 〉は、いまどこにあるのかという問題を権力総体が追求しはじめている。その一環として今回の問題がある。権力の弾圧というものが、教官処分という面をはるかに突破して大学闘争以後の問題を何かの形で追求している人たち総体の問題に連続していく。その押収目録を総体として把握する事は我々にとって楽しい作業であり、自主講座運動の素材である。私たちの問題追求の不可欠の媒介項として、今回の〈竹本〉問題を応用し「権力によるどんなささいな〈暗示〉も見逃さないで反撃する」というように飛翔させる必要がある。  (「序章」73・7別冊—発言集に収録)
 個別の関係認識に規定される事実性への対応を〈 〉に入れ、より情況的な関係構造の開示ないし応用可能性を追求しようとする松下の戦略的立場は、竹本=滝田修の思想性に批判を抱く人々とのすれ違いを顕在化させていくことになる。
 菅谷規矩雄は記す、
「いまのぼくには〈竹本信弘〉氏からの委任を仮装する意志がありません、いや、仮装しきれる自信がないのだと言ったほうがより正確かもしれないのですが。竹本信弘から滝田修を捨象することは可能でしょう—処分じたいがその方法をとっているわけですし、処分に反対するがわにもこの方法が主としてとられているようにみえます。(中略)ぼくの視野には、たとえば松下昇=山本光代の交錯に表象される委任のリアリティは、竹本信弘=白紙という点にかけられているとみえます。ぼくはこの方法をとりえません。滝田修の存在(に象徴されるもの)から否定的に媒介することをこころみたものは、白紙たりえないリアリティをなしているからです。もちろんそれは〈竹本信弘=菅谷規矩雄〉という交換可能性ともしえないものです。」   (〈解体新書〉通信10—菅谷規矩雄追悼集に収録)
 この年、福井大学(5・9)、関東学院大学(11・3)で講演、同志社大学EVE(11・13)の講演では、『或る裁判に仮装的に被告あるいは証人として出廷し、裁判過程における本質的問題を包括しつつ法廷に存在しうるか?』といった趣旨の問いを投げかけ、複数の女性参加者がこれに応じた(同志社大学学術団論集No.4)。
【1974年】
 [3月17~19日、甲山学園で12歳の少女と少年が行方不明となり、汚水浄化槽から死体として発見された。]
 この事件について松下は、「事件の意味の重大さに数年後やっと気付いた」と記している(神戸大学闘争史)。
 4月1日、岡山大103闘争の刑事公判廷で卵を飛翔させたとして監置20日の制裁を受ける。翌2日、裁判官(渡辺)が松下を告訴し、制裁期間を終えて岡山刑務所から釈放された直後に令状逮捕~起訴、5月4日に保釈された。そのため、4月から予定されていた京都大学の自主ゼミは松下不在のまま開始されている。[8月30日、三菱重工ビル爆破事件発生。この年から東アジア反日武装戦線を名乗る事件が多発し始め、また、セクト間の内ゲバも次第に激化してく。] 
 伝統と現代編集部からの執筆依頼に対して10月31日付で次のように返信。
 「そして、これは私にとって重要なことなのですが、前にものべた例を含めて、私がおこなってきた表現は、たんに、闘争における意志表示という意味だけをもつものではありません。それは、むしろ、作品や、恋文に近い領域をも包括していたのです。(中略)もう一つ、いくらか、いうのがつらいことですが、1970年の冒頭にかいた〈なにものかへのあいさつ〉の直後に生まれた私の子供が、胎内にいる時の母体に強い精神的=情況的影響をうけたことを大きい理由として、出生後も発育がおくれ、現在に至るまで、一つの言葉も口にしません。たのしそうに遊びはしますが、その姿をみるにつけても、かたること、かくことの重さ、怖しさが、身にしみるのです。」  (「伝統と現代」31号『私信』)
 関東学院大学の大学祭で講演(11・2)、同志社大学EVEで講演(11・16—発言集に収録)
【1975年】
 京都大学教養部では、1969年12月、闘争過程における学生らの問題提起をふまえ、翌年度からの自主ゼミをすべての系列(人文、社会、自然、外国語)について正規授業として扱うことにした。1974年度の履修案内(公文書)には「ドイツ語を契機として参加者が教材やテーマを持ち込むとともに、学外からの問題提起や発言も積極的にとりあげ、大学闘争の過程で出てきたさまざまな問題(たとえば単位制など)を考えながら、次のような原則でおこなう。①公開②参加者の自由な討論ですべてを決定する。③このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。」と明記されていた(概念集・2「自主ゼミ」)。
 74年12月、この自主ゼミ制度活用のため、学生らが〈松下昇・松下未宇〉を75年度の非常勤講師とするドイツ語ゼミナール開講をドイツ語教室に申し出る。ドイツ語教室は講師を松下昇に絞ることを前提に75年度授業計画に組入れ、75年3月20日、教養部教授会がこれを白紙多数で否決(五月三日の会通信第21号によれば、賛成34、反対15、保留65)。同年12月25日、学生らは76年度に向けて{松下昇こと松下未宇}を講師とするゼミの開講を再申請したが、今度はドイツ語教室会議の段階で否決された(五月三日の会通信第21号によれば、可5、否6、白6)。
 同志社大学EVEで講演(11・20—発言集に収録)。
【1976年】
 相次ぐ大学側の否決に対抗して、1月23日、京都大学教養部自治会の代議員大会で松下ゼミの実現要求を特別決議、これをふまえて1月25日、ドイツ語教室の責任を追及する学生らがA367ドイツ語中央室を占拠した。その後中央室は別の場所に移され、A367はドイツ語資料室と名称変更。85年2月1日の強制執行まで、全大学闘争に関する資料の集積・応用の公開的な場となる。拡大自主ゼミや古本市等が頻繁に開かれた。
 4月9日、六甲小学校特殊学級に入学した松下未宇は、同日、2度目の救急車で酸素吸入しながら運ばれる途中、父に抱かれて永遠に巡礼する。胎内にいる時、母体に強い精神的=情況的影響が加わったことを大きい理由として生育が遅れ、一言もことばを発しないままであった。松下は「天使のような子でした」と、折にふれその面影を語った。10日、六甲教会で葬儀、墓地の番号が偶然B109となる。(批評集γ篇・6に、当時の共闘者たちによる未宇の追悼表現5篇を収録している)。
 6月4日、新潟大講師佐藤信行(独語)の処分撤回請求について人事院宛{証言書}を提出。
 京大の自主ゼミ申請者(団)が9月7日付で提起した3項目の1には次のように記されている。
1.昭和52年度の自主ゼミの担当者として、松下昇ないし松下未宇の固有名詞を出すことが、たんに、教室会議ないし教授会の政治性の水準によってだけでなく、有罪判決ないし死亡という国家ないし存在の水準により不可能になりつつある現在、無名ないし交換可能な主体の共同表現を持続し、制度を占拠していく根拠の一つとして、〈ドイツ語の本〉の作成に関する作業がいちづけられうる。
 「ドイツ語の本」の刊行をめぐっては、書籍出版の歴史的な通念に立脚する編集者(三一書房)や執筆者(現役大学教官3名)と、本に象徴される文明の根底的検証の視点から刊行過程に関わる自主ゼミ参加者との対立が浮上、松下ら自主ゼミ側が作成した部分や「あとがき」の削除等をめぐって、76年12月2日、京大の野村(ドイツ語)研究室において三者による拡大自主ゼミが展開された(18年後にテープおこしを行ない→発言集・3に収録)。
 10月21日の神戸地裁第34回刑事公判には、71年6月段階に「~紛争初期には問題提起者としていくらか存在の意義があったが、現時点では大学改革の具体的なイメージと方法を全く持たない狂信的な暴力的集団に類すると思わざるをえない。新しい大学をつくることには何らの貢献もしないナンセンス喜劇集団だ。」(批評集・β篇)と、自主講座について「なかなか良いセンスの批評」(松下)をしていた処分当時の教養部長(湯浅)が検事側証人として出廷、松下問題特集になっている神戸大学『教養部広報22号』に関して「~全国的に様々な大学から読みたいという要求がありましたか」という反対尋問に、「はい、アメリカの図書館からもございました。国会図書館にも入ったと思います。」~「それは、あなたの行動が大学紛争の典型的な教官の行動として高く評価されたんじゃないかと思います。それと非常に具体的にかいた(……)そういう出版物は他にございません。(……)」と答えている(五月三日の会通信23号)。
 11月22日、神戸大第二課程の学生企画・解放自主講座に参加(発言集・続に収録)。
 11月25日に岡山大学祭連続シンポジウムに参加(以後、ほとんど毎年)。(1969年の岡山大学闘争の過程で教官業務拒否を理由に停職処分を受け、72年~73年の103教室を拠点とする単位制度自主管理闘争で懲戒免職処分と刑事起訴を受けた坂本守信は、75年から学友会(サークル連合体)の嘱託事務員や大学祭実行委員としても活動。大学闘争の提起したテーマの連続的討論の場として大学祭を応用しつつ、祭りの期間や個別大学に限定されない参加者のそれぞれの時間や空間にテーマを連続させる方法を模索、共闘と相互批判の場として活用~継続されていった。)

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3・軌跡(破)(1977年~1986年)

【1977年】
 5~7月、南山大学闘争公判(名古屋地裁、T被告)で3回にわたって証言した。
 (70年前後共闘的に松下へ接近した人達の〈離反〉的対応が顕在化~し始める。時代は、相応の努力と機会を得ることで可能となっていくように見える安定的な社会生活を誇示していた。高度資本主義は、絶えざる科学技術の進歩と経済成長こそが人類の幸福のキーポイントであるという原理の下、その発展過程で生み出される矛盾の管理と段階的解消を建て前に、大衆の幻想的突出に歯止めをかけようとする。資本制支配の対抗原理として機能してきたコミュニズムは、反権力運動の求心力を失うのみならず、政治理念に掲げた国家や組織の実体が忌むべき権力体系の一変態に過ぎないことを徹底的に露呈していった。激化するセクト間の内ゲバは、大衆への回路を失っていく世界思想の日本的縮小版であった。闘争参加者の大多数がかってのテーマからなし崩しにずり落ちていく情況下、純粋指向性をますます先鋭化して、それまでの闘争様式の曖昧さを超えたいというもがきの中から、連合赤軍、日本赤軍、東アジア反日武装戦線等々の動きが生まれている。それらの動向の自他からの追いつめられ方は、日本的な革命運動が往き着いた一方の極限であったとも言いうる。それ故にいっそう国内の革命幻想に冷水を浴びせることになった。松下の孤独な運動は、「これまでのあらゆる革命運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと」(「概念集・1」大学闘争)という闘争からのメッセージを受け取り、60年代既に見通されていた極限を超えようとする何事かの〈当為〉であったが、{非}暴力を貫きながら、ユーモアを交えた表現論的武装を駆使して、権力と存在の関係構造に切り込む一貫した闘争姿勢さえ、情況の引き潮に乗った人々の不安を増幅する。一度はテーマの共有を志した人々の対応の変化は、その人自身のテーマからの〈離反〉や距離感の変化を写しており、言葉に成し難い深層が抱え込まれているのを感受する松下は、関係性の声を届かせうる条件を必死に模索した。それがまた反発を補強する理由に加算されていった。職業や文化領域の枠組みに折り合いの論理や心情を見いだし、思想に或る種の緩みや安堵感を求める心理位相が、一旦、異和に傾いてしまえば、一貫性は思想の硬直に、仮装的実践は過激な党派性に見えてくる。言葉を駆使することに慣れ秀でた人達が、噂や思い込みを〈批判〉の言葉に転化するのは紙一重であった。転化される松下排撃の基本型は、{α・自己存在の聖化~共闘者らの秘教集団的閉鎖性、β・生活思想の欠損~大衆の実存との落差、γ・表現の多様性の否認~表現の一方向性…}といった形を取って現れてくる。これらの〈批判〉の正否を即断する以前に、対象たる表現過程を正確に把握すること、同比重で、評者自らの表現過程を総括する深さが問われるテーマで在り続けている。各所で書簡や提起群の資料化を準備中)。
 9月、三一書房版「ドイツ語の本」に掲載されなかった松下らの原稿を中心に、新潟大の自主講座グループが「正本〈ドイツ語の本〉」を刊行。関連しつつ、松下は、京大A367で拡大自主ゼミ、同志社大チャペルのアッセンブリー・アワーの仮装自主ゼミ(12・20—「同志社大学学術団論集No.8・未定あるいは遠い落書)などで発言している。
【1978年】
 三一書房版「ドイツ語の本」に関して、菅谷規矩雄は「要するに商業出版の領域に松下昇が一個の著作者として登場するか、そうでなければ〈自主講座〉を売りに出すことをはじめからやめるか、どちらかでしょうし、この点であなたはあいまいさをのこしているのではないでしょうか?」とこの年1月の私信に記す。菅谷自身の〈生き方〉の或る「吹っ切り方」を連想させるこの私信に対して、松下は〈売る〉ということが自分の対象化作業において持つ意味を〈 〉焼きの原則から述べつつ、「ただし、あなたの感じている〈あいまいさ〉は、私がプラスととらえている情況的な複素数性であることを付記します。」と返信に記している。(「菅谷規矩雄追悼集」に収録)。
 1月20日、京大A367での拡大自主ゼミ。6月10日、大阪教育大学の自主管理空間における「伝習館」を考える大阪の会の例会で報告~問題提起(発言集)。
 10月16日、{自主ゼミ}実行委員会は三一書房版「ドイツ語の本」に関する経過をふまえ、出現しているテーマを共同で対象化する素材として「時の楔〈 〉語…に関する資料集」を刊行した。このパンフレットの表紙は、在りし日の松下未宇のシルエットを写している。
 11月7日、時の楔通信第〈0〉号を刊行(以後86年7月の第〈15〉号まで同じ形態で発行、〈 〉~{ }過程を伝えるメインメデイアとして使用する。70年に発行された五月三日の会通信は、70年5月の号外から77年6月の23号までは野村修(京大)らが中心に編集、神戸大学(松下昇)、岡山大学(荻原勝・坂本守信)、東京理科大(宮内康)、徳島大学(山本光代)、東京都立大学(菅谷規矩雄)、関東学院大学(河村隆二)、京都大学(竹本信弘)、新潟大学(佐藤信行)等の裁判資料や闘争経過を掲載した。情況の閉塞が進行するにつれ、編集姿勢への批判も出て、24号(77年10月)は過渡的に{松下昇}気付{自主ゼミ}実行委員会で編集した。その後再び野村編集により、神戸大学闘争の刑事公判第一審{最終}性の表現を25号(81年9月)に、人事院審理再開関連記事を26号(81年12月)に掲載して後、完全に休止状態となる。92年に至り、「五月三日の会通信」が情況的に担った意味を現~未来的に生かすべく、松下は、訂正リストを作成しながらパンフ化して包括する。) 
【1979年】
 南山大学闘争は、対裁判所の幅でたたかうか、全自己史~情況史とたたかうか、という方針をめぐる内的な対立から身体的な暴力の渦にまきこまれていた。「あんかるわ32号」の「見えざるものとの対話」に引用された公判分離請求書にかかわる被告人らの証言をめぐって、{自主ゼミ}から執筆者北川透へ共闘の提起がなされる。北川は、主宰する自立誌の紙面を一時〈 〉闘争に開き、「あんかるわ〈深夜版〉松下昇表現集」を71年初頭に刊行し、闘争現場にも同席して問題提起を行なっていた。しかし、この年、{自主ゼミ}の提起に応じて2月に一度同行したものの、その後一切の協力を拒否、{自主ゼミ}参加者に対して、松下らの運動を「〈 〉語の支配する領域~秘教集団の暗号体系~」などとする私信を送り始める(時の楔通信第〈1〉号)。この対応を含む状況下に置かれた南山大刑事公判(名古屋地裁)に出廷せざるをえない松下は、3月14日の法廷においてヒマワリの種の飛翔に関わったとして監置7日の制裁決定を受けた。
 6月15日、〈松下昇発言集〉(回覧用)を刊行(80年4月に補充して配布用マスプリ)。12月、時の楔通信第〈1〉号を刊行。
【1980年】
 4月~7月、京大A367で古本市を開催。
 5月29日、東京・全電通会館で〈教育を巡る60—70—80〉パネル・ディスカッションが開かれた。東京理大(宮内康)、関東学院大(河村隆二)、日大(小林忠太郎)、長野大(中村丈夫)、神戸大(松下昇)の被処分教官のほか全都助手共闘、日大全共闘等が参加、密度の高い討論が二日間にわたって続いた。
(東京理科大の宮内康は74年9月の東京地裁民事判決で全面勝訴、二審開始後の75年に和解、和解金を応用して76年に自分の設計事務所に大学教員救援連絡会事務局を設置し、他大学で処分された人々の支援の拠点とした。また定期的な同時代建築研究会や公開のシンポジウムが何度も開かれ、松下は上京の都度参加)。
 10月6~7日、神戸大学教養部における日本独文学会の研究発表会を批判するビラ配布とA430松下研究室を中心とする大学構内での自主講座~討論集会を行う。10月以後、翌年の学期末試験の時期まで、週1回のペースでA430を拠点とする授業~単位自主管理闘争を展開した。
 11月26日、青山学院大学・全学闘争委メンバーとの討論(発言集・続)。12月24日、徳島大学闘争(徳島地裁、石田光代被告)で証言。
【1981年】
 4~7月、京大A367で古本市開催。
 プロテスタントの日本基督教団(現日本キリスト教団)に所属し、大学闘争以降のテーマを追求し続けている人々と松下との交流が、74年以来〈 〉委員会といった形でも存続していた。参加者の一人は自己史の必然と情況の切迫を踏まえて、郷里の教会=北九州の門司大里教会に仮装的〈牧師〉として登場し、「キリスト教は、自らの枠を打ち破って、キリスト教と無縁なものとの〈関係〉に生きないことには、真実キリスト教たり得ない」と宣言、仮装被告団との共闘を深めていた。松下は、6月7日、北九州を訪れ、門司大里教会の〈礼拝〉に参加して発言した。
 また、6月9~10日には熊本へ移動、三一書房「ドイツ語の本」の{ }版及び正本〈ドイツ語の本〉に基づく熊本版を正規の授業で使用している熊本大学・熊本女子大学の公開授業に参加。自主ゼミ性の飛躍を期したが、その後、成績表〜単位認定権委譲の問題をめぐって立場や意見の違いが拡大、82年に熊本で刊行された増補版に松下の送った原稿は掲載されていない(発言集・続)。
 10月28日、神戸大学闘争刑事事件の第一審判決。11月4~6日、松下に関する人事院審理が兵庫県林業会館で再開された。
【1982年】
 1月27~29日、人事院審理は継続したが、3月26日、人事院が処分を承認する判定を下したので、4月9日、東京地裁に判定取消請求等の行政訴訟を提起、人事院にたいしては6月15日付で判定に関する再審請求を送付した。
 日本基督教団を媒介する宗教テーマ「(機動隊を導入した)東京神学大学への教団からの交付金を停止し、〈大学〉闘争仮装被告団の公判費用に転用せよ」という九州教区総会建議案をめぐって、7月と9月の2回、博多での九州教区常置委員会に出席した。建議案は否決されたが、問題は次のステージに引き継がれていった。
 10月18日、A430再占拠闘争、数回の闘争の度に当局と衝突。11月16日にはA430屋上で拡大自主講座を開き、在学生の参加もふえる。11月22~23日の岡山大学祭に参加している間に、当局は材木~鉄板~鉄格子でA430を何重にも逆封鎖した。12月18日にはB110(旧B109)教室で在校生を含めて拡大自主講座を行った。
 12月16日、東京の同時代建築研究会のシンポジウムに参加(発言集・続)。
【1983年】
 2月5日、B110教室で2回目の拡大自主講座、学期末試験と重なって緊迫、当局は試験場を別の教室に変更した。4月23日、教室をB110から別の教室に移しながら、子どもたちや在校生をふくめて第3回の拡大自主講座を行った。
 10月13~14日、日本基督教団教師検定試験・京都会場洛陽教会での面接に門司大里教会〈牧師〉と同行、面接会場を京大A367に移動しながら教団関係者と討論。
 11月2日、A430研究室再占拠闘争、直後に大学当局から内容証明郵便の立入禁止通告及び告訴の警告。一方、京大A367ドイツ語資料室をめぐる状況は春頃から司法領域に拡大する。
【1984年】
 1月31日、武庫川河川敷のホームレスの問題で{自主ゼミ}から兵庫県西宮土木事務所への申入。「河川敷に住む人々や、前述の不思議な隣人は特異な存在に見えるとしても、本質的には私たちそれぞれの内部の必然性の拡大、かつ現代社会の〈無〉意識領域の具体化としてとらえるべきではないか。」(河川敷・身体・空間「同時代建築通信84・12」)。
 5月3日、〈河村〉公判の第一審敗訴に多数の支援者が意気消沈していた時期、神田ファミリーホテルに被告をふくむ6名(宮内・河村・山浦・満田・田宮・松下)が集結して代理人弁護士なしの関東学院大闘争〈河村〉控訴審プランを討論~実現した。
 「大学闘争とよばれる激動の本質は、機構の変革のみならず、変革しようとする主体の変革を同時に展開することを不可避とする世界史的な情況にあり、この情況係数を前提として視る者の眼には、人間や社会が存続する条件よりも、存続のために他を犠牲にしてきた条件の追求に比重をおかねばならないのは自明であった。この自明さは、反日の概念を把握するための原点であるが、同時に、反日の概念とは無関係にみえる多くの概念(例えば〈甲山〉)を把握するための原点であることも強調しておく。」  (概念集・1「反日」)
 被告人支援の立場から〈甲山〉事件の小説を執筆していた松下竜一は、作品発表間際の9月30日、検察側証人とされていた保母に会見を打診してきた。彼女の夫(高尾和宜)が執筆した当事件に関する小説「石の枕」をめぐる京大A367の{自主ゼミ}過程で、対権力的配慮を重視し、「今後検察側の証人要請には応じない」、「単独ないし夫婦のみで誰かと事件について語らない」などの確認がなされており、その確認に基づいて松下は大阪での松下竜一との会見に同席した。作品「記憶の闇」は10月中旬発行の「文芸」11月号に早くも掲載された(単行本は85年2月)。9月30日の対話の内容やレジュメの扱いに、あまりの粗雑さを感じた高尾夫妻は作者と文芸編集部に対して抗議と提起の手紙を送ったが、「見解の相違」を理由にその後の対応を拒否されている(批評集γ篇・4)。
 この裁判は、1999年の差し戻し控訴審において〈無罪〉で決着し、冤罪事件としては既に衆目から去っている。当時進行中だった裁判過程や支援活動を検討しつつ、松下が媒介的に提起したのは、『事件の関係構造における闇の領域で最も犠牲を強いられ、言葉〜表現からも隔てられている存在(園児〜死者)の視点から全てを捉え返す〈審理〉過程を、関係者全員がどこかで潜ろうとしない裁判や支援は、国家を頂点とする巨大な退廃の構造を支えてしまう』という問題であった。この問題への対応は、断罪に曝される行為の実行者であることが明らかな事件の場合にも、究極的に弁護〜支援しうる根拠や関係性を創り出すことと不可分な原則であり、〈連合赤軍〉、〈内ゲバ事件〉、〈日本赤軍〉、〈東アジア反日武装戦線〉、〈オウム〉、〈ユナボマー〉といった政治性を背景に持つ事件から、〈永山則夫〉事件や〈タイ人女性ナターシャ〉事件のように社会的孤立に発する事件まで貫かれている。〈大学〉闘争の裁判がそうであるように、法的決着は一局面に過ぎず、あらゆる〈事件〉性の対象化作業は現〜未来的プロセスにあると捉えられている(レジュメ等未刊行の資料多数)。
 10月2~4日、日本基督教団教師検定試験(京都)に〈牧師〉や複数の{非}信徒と共に参加、筆記試験会場で発生した衝突と共同受験者の撮影した写真フィルムは以降の対話ステップへ楔となっていく。松下の参加は10月30日の教団検定委員会(東京)、11月13日の教団総会(箱根)に連続し、既成宗教に属する個人~組織に対して宗教という概念が解体した後にも尚残るであろう〈宗教〉性の根拠から(〜へ)の問いを提起した(発言集・続)。宗教性をめぐっては83年以降、南山大学闘争に関するカトリック関係者との拡大自主ゼミも展開している。
 12月17日、人事院審理再開請求事件(第一次訴訟)第二審判決公判法廷での表現行為を悪質な法廷侵犯であるとみなした東京高裁裁判官(小堀)は、共闘者の女性一人と松下に、監置20日の制裁決定、同月25日、さらに二人を刑事告訴した。
【1985年】
 1月7日、裁判官の告訴により、東京拘置所から釈放されると同時に令状逮捕され、同月17日起訴。4月30日に保釈されるまで東京と大阪の拘置所を往還する。
 松下勾留中の1月29日、京大A367明渡請求(本訴)事件の第一審判決で京都地裁は国~大学の請求を認可した。2月1日、直ちに強制執行、宿泊中の子どもたちをふくむ占有者たち全員が排除された。全物品は地下倉庫に留置。
 どのような事件に対応する場合も社会常識や政治判断にとらわれずに、人類が言葉をもって以来の世界史的テーマを事件の根幹に見いだし、当事者(~関係性)と共有しうる条件を創り出そうと試みる松下にとって、法的な審理機構との攻防は、本質的な審理条件に向き合うための共同幻想(国家)を媒介する〈自主講座〉でもあった。7月3日、東アジア反日武装戦線に対する上告審判決を前に、「X.これまでの上告趣意で批判している死刑制度、爆取罰則等の違憲性を大法廷で審理するようにあらためて要求する。Y.この要求に対して小法廷による判決を強行する場合には忌避申立を重層的におこない、全ての忌避判例の審理を大法廷で要求する。Z.大衆的実力闘争の一環としての法廷闘争に対する法秩序による弾圧に対しては、全ての判例および法自体の審理を大法廷で要求する、(X、Y、Zを併合しつつ)という方針を、ぜひ無数のやむにやまれない共闘の声の一つとして大衆的に討議していただきたいと思います。」と、自己の裁判闘争での実践を踏まえて提起している(「救援」8月号に掲載)。
 9月10日、神戸大学闘争刑事公判(大阪高裁)第二審判決、11月15日、東京高裁裁判官による告訴事件(東京地裁)第一審判決(時の楔通信第〈14〉号)。12月6日、同時代建築研究会(東京)のシンポジウムに参加(発言集・続)。
【1986年】
 3月20日、東京高裁裁判官(小堀)による告訴事件の控訴審(東京高裁)法廷で発言禁止~退廷執行により負傷。
 3月24日、京大A367明渡請求事件(大阪高裁)控訴審、直前に忌避申立が提出されたので、判決言い渡しが不可能となった裁判官が何事か発語して退廷し始め、3人目の背中も廷外に消えようとする瞬間、酒パックが宙を飛んだ。一瞬後、傍聴席から立ち上がって松下の方に接近しようとする人(N)に対して警備員(Y)がいきなり振るった(警備の原則や武道の精神に反する)激しい暴行は廷内を凍り付かせた。事態の深刻さを直感した他の警備員はYを警備から外し、問題の拡大を怖れ、当の被害者を確保することで事実の隠蔽を画策、何の指示もしないまま裁判官が立ち去って1時間以上経過した後、酷いダメージのため立つこともおぼつかないまま松下の向か い側にいたNを、松下への制裁決定(監置20日)の執行を妨害した容疑で逮捕~起訴した。職域での休職処分に波及。(時の楔通信第〈15〉号)。
 5月10日、神戸大学闘争刑事事件の上告趣意書を提出。一方、京大A367明渡請求(大阪高裁)控訴審で発生した{3・24}事件をピークに、潜在していた岡山大の学友会関係者や交差している主体間に、対権力位相をはみだす様々な出来事が浮上、対的領域~共同性・多数性による子育ての問題をふくむ対立や、集団自体の成立条件への問いが先鋭化していた。松下は、関係性の渦を創り出している自らの責任において、それまで以上に厳しい共闘者らへの批判を迫られる。8月1日付の「あなたが〈15〉号ないしそれに対応する表現を編集~発行するとしたら~」という「時の楔通信の読者の方々へ」~問いかけ~は、〈大学〉闘争の提起しているテーマを現在
的に模索しようとする関係性の有り様とその閉塞情況総体に向けられていた(関連する討論レジュメや発言は多岐にわたる)。

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4・軌跡(急)(1987年~1996年)

【1987年】
 ~問いかけ~を87年3月に第〈16〉号発行委託プランに変換、さらに6月、委託プラン自体をワープロ打ちして第〈 〉号に変換、7月の京都地裁執行官あて申入書において、引渡要請物品リストに第〈16〉号を加え、京大A367空間の宙吊り位相との関係を明示。この宙吊り性は、たんに権力によるものでない広がりと深さにおいて捉えられており、委託プランの提起と同じ日付のレジュメ「共同表現論の素材として」によって、〈白夜通信〉、〈N〉公判、〈岡山〉大学祭の例を上げつつ、それぞれの成立不可能性(成立条件)に関する拡大的な討論を呼びかけている。呼びかけの範囲は、例示の関係領域に象徴させつつ〈 〉のかすめた全領域を射程におく。射程によって逆に突き出されるように、87年以降はより集中的に、これまでの自他の表現を捉え返す新たな作業準備を進めている。総体的な情況把握と共に、身体状況の異変~切迫の感受にも関係して「自分がいなくなった後」の関係性の計測や配慮が垣間見える。
 刊行パンフの送り先との書簡などを収録したノートが〈松下ノート〉という名称で没後に資料(DVD)化されているが、このノートの始まりの時期と対応するように、{仮装被告団会議}に託され~87年9月~に刊行された「時の楔《への/からの》通信」は、松下がそれまでの表現過程を包括的に位相変換していく継ぎ目に位置し、彼にしては稀な問答形式で記述されている。
 「*22 そのように表現されてしまうと、原初的な〈 〉に投げ返されてしまって何もできなくなりそうだが、そのことへの責任をかんじるか? / —ここで述べたことのみならず、〈 〉~{ }闘争過程における表現総体について感じている。だからこそ、この十数年の過程において生成し、変化してきた全概念を、事実性との関連において、さらに関連なしに任意の関係性で応用しうるように対象化したいし、その作業を委託したいのである。〈 〉や{ }で包囲されている表現を出現させざるを得ない主体と、それから最も遠い主体の裂け目~振幅による視線によって、〈 〉や{ }を把握し、突き抜けていく段階にきているようになにものかが感じているのではないか?」。
 ここで語られている作業は不可避的に松下本人が引き受けざるをえず、「松下昇(についての)批評集—『α篇・国家~大学による批評』、『β篇・社会的報道による批評』、『γ篇・個人による批評』—」の企画となって姿を現す。企画に関連する文書を神戸大(A430等)に掲示し、原初的な闘争現場の関心を喚起すると共に、相互批判の場に引き寄せられる関係者との討論集会を重ねながら進めていった。
 11月、岡山大学学友会で刊行作業をしていた松下に対し、体育会系サークルの学生が暴力行為に及ぶという事件が発生、襲った方が逆に粉砕されたのだが、Xデー問題と呼ばれ、全学的な集会を媒介して岡山大学学友会のこれまでの活動を自己批判的に対象化していく契機に変換させようとした。
【1988年】
 1月9日、松下昇(についての)批評集に関する討論集会を、69年の神戸大学全共闘を含め神戸学生センターにおいて開催。2月11日、第2回討論集会。3月21日、第3回討論集会。9月から12月にかけて、批評集、発言集、表現集の各冊を集中的に刊行した。
 「私たちが、過去の特定の時期や情況に固執しているなどと思いこまないでほしい。むしろ、この作業ほど現在~未来的なものは、まだ、どこにも出現していないのだ、とひそかに誇ってもよいのである。しかし、誇ることは止めておく。私たちのなしえた二〇年間の表現行為は、極めて不十分な、偏差に満ちたものであり、その自覚~止揚なしには、〈死者〉たちを復活させうる未来に、この企画はとどかないことをなにものかが示してもいるのだから…。」  (α篇への序文~一九八八年十月~)
【1989年】
 1月、「概念集・1」を刊行、「概念(序文の位相で)」は今後の記述の必然的な力点を次のように記している。
 「α—概念集の項目を、これまでの〈 〉闘争過程の表現を全て再検討しつつ抽出するだけでなく、全表現の偏差を対象化しうるものを選び、未出現の項目へ応用する。β—既出現~未出現の項目は、名詞とは限らず、全品詞にわたり、さらに文体~構成~ジャンル、この概念集に交差する現在~未来の幻想性総体を対象とする。γ—ある項目を、まず提示して記述し始めるだけでなく、なにものかに促されて記述していく時に向こうから現れてくる像や音や~に気をつけ、それを作業の基軸とする。」
 1月以後、〈神戸大学闘争史〉を闘争の20周年の日付や時間に対応させつつ作成し、各ページを順番に〈神戸大学〉へ散歩に行くたびに掲示~配布した。3月10日、上告棄却によって松下の刑事公判の刑が確定すると、TVニュースや翌日の新聞各紙が報道。松下は最高裁大法廷に「~異議~訂正~忌避~申立(宣言)書」を提出。
 5月、「神戸大学闘争史(年表と写真集)」、6月、「松下昇批評集・α続篇」を刊行。
[6月4日、中国北京で天安門事件発生。]
 6月15日、京都地裁で京大A367強制執行に関して執行官(藤岡)に対する尋問開始。
 7月18日、広島高裁岡山支部の岡山大学闘争被処分教官(坂本)の〈いえ〉に関するRB302公判で自らを証人申請して証言を展開した。岡山大学の関係性がこの時点で抱えこんでいる問題に関して、概念集・2(~89年9月~)の「連続シンポジウム」という項目に次のように記す。
拠点とか成果(人間関係を含む)を持つことは、前記の水準のフィードバック性を欠損させている場合には桎梏に転化しうるし、困難な問題に直面している時ほど転化しやすい。異時・空間に自らの方法(本質的な〈祭り〉)を、まず自分だけの力で具体化してみよう、もはや帰るところはどこにもない、という情念を生きてほしい。これまでに見慣れた拠点や人間を〈初めてすれ違う〉感覚で把握し、自己や他者の軌跡を六九年から現在に至る〈 〉過程の全テーマとの関連において、大衆団交位相で(いいかえると、関わりのある全ての人に公開され、声をとどけようとする深さで)共同検証するプランが必要ではないか。討論の展開によっては活動や生活の拠点を〈 〉へ委託しつつ。
 7月31日、{86・3・24}〈N〉公判(被告は88年1月以来不出頭)に出廷して証言を開始、9月25日にも証言を持続した。冤罪以上の権力犯罪を立証しようとする証言に直面した大阪地裁は、10月30日、早々と審理打ち切りの方針を確定、12月21日に被告人不出頭のまま検察官の論告求刑が予定されたが、{3・24}証言集刊行プランの波及によって延期となった。
 基本構成を7月に終えていた「概念集・2」を9月までに刊行。同月、家族あて遺言状を作成。[11月9~10日、ベルリンの壁崩壊。]
 12月21日、「あんかるわ」No.81の北川透の文章に対する反批評レジュメを作成。
「客 ともかく六〇年代末から七〇年代にかけて起った全国の大学闘争の中で、当時、神戸大学の講師松下昇が自己組織した〈 〉闘争とか表現闘争とか呼ばれる運動に、あなた及び『あんかるわ』は深くかかわったわけですよ。それとあなた及び『あんかるわ』は、いつからかいっさいの関係を絶った、と表明している。/ 主 何年か疎遠な時期がつづいて、そのあと思想的に決定的に決別してからも、もう十年以上が経ってしまった。」  (北川透「十年の夢いずこ—ニセのキリストより、ニセのニーチェを—」89年10月)。
 対して、松下の〈「十年の夢いずこ」に関する過渡的レジュメ〉は、「北川氏から松下あてに、このような表明がなされたことはない。むしろ、’79・3段階に松下から北川氏におこなった提起(この10年、そうのべてきたように、北川氏はいつでも公表してよい。)に対して応ええないままの状態が現在まで続いている、というのが正確な経過である。従って、松下の側から”関係を絶った”ことはないし、北川氏も関係を絶てないまま10年をすごしてきたのである。」と始まっている(「菅谷規矩雄追悼集」に収録)。
 12月30日、菅谷規矩雄が肝硬変で死去(53歳)。
 「同僚の教師たちの中で、文学をふりかざす人には、どうしても異和が湧き、つきあわなかった。たった一人だけ、菅谷規矩雄を例外として。しかし、彼と文学論をした記憶もあまりない。六十年安保闘争の渦の中で、それぞれ一瞬、何かを見た後、異境で何かへの視線の根拠を黙って温めている、という共通感覚で十分であった。私に対して、もっと文学に関心を持てと忠告した教師たちは、その後、大学闘争の開始と共に、闘争を抑圧する役を積極的に演じていく。たった一人だけ、菅谷規矩雄を例外として。」  (概念集・1「文学』)
 菅谷は69年10月1日に名古屋大から都立大に転任、11月11日に授業再開拒否宣言、解放学校を拠点として〈大学〉の退廃の現状に文学者の自立と表現を屹立せしめようとした(1時間も授業を行わないまま72年に懲戒免職処分)。70年8月8日という日付を持つ菅谷の「〈松下〉処分粉砕総決起集会への発言」(自筆のビラは菅谷規矩雄追悼集に収録)について、松下は、「〈 〉~{ }闘争の主体の一人(松下)にとって、この表現は、十数年間、重要な決断を迫られる時に何度も鳴りひびき、共闘してくれた。」と82年7月「時の楔通信第〈5〉号」に記す。 菅谷は「いうまでもなく国家権力とか支配階級とかは、特定の個人の集団のごとくにして、〈私〉たちから遠くはなれたピラミッドの頂上に住みついているわけではない。〈大多数〉の個々人が、生活社会のなかで、どこまでもこの〈大多数〉の存在という仮象に、みずからの〈生活〉を帰属せしめんとすることじたいが、〈権力〉の深化であり強化であり、〈国家〉の永続化なのである。」と、現存在の究極的な拘束性に向き合い、〈処分〉を疎外=現実化して存立しようとする〈大学〉共同性(~階級性)を拒否する。松下への連帯表明は、同表現に挿入されている現存在認識=〈存在の過酷な階級性〉に立ち尽くしてなお自らが何ものでありうるか、という戦慄的な自問の声でもあった。
【1990年】
 12月から1月にかけて{3・24}証言集を刊行。1月初めから京大A367号室や地下倉庫にビラ〈空間や物品と共に成長する深淵〉を貼付。1月17日、京都地裁で執行官への尋問。閉廷後、京都商工会議所の会議室で概念集刊行委員会~菅谷規矩雄を追悼する集会。菅谷の告別式が行われた2月2日(松下未宇の生誕20周年の日)、松下は家族への遺言状に付記~しつつ、ひとり六甲で〈参加〉。
 3月27日、(日大=小林、関東学院大=河村、東京理科大=宮内の処分に反対し裁判闘争を支える)東京での大学教員救援連絡会の活動終結にあたっての集会に参加、事務費残金を応用した「救援通信最終号」の刊行を提起。
 5月、「概念集・3」を刊行。6月16日、大阪教育大学の自主管理空間で「伝習館」を考える大阪の会の(最高裁判決を契機とする)解散集会に参加し、今後も追求すべきテーマを提起(「伝習館」を考える大阪の会、会報111(最終)号)。
 10月、パンフ「菅谷規矩雄追悼集」」を刊行し、〈文学〉の枠を超える〈菅谷〉の情況的な意味に迫る。予定されていた続刊は果たされていない。
 菅谷は、懲戒免職の通知を受け取った日(72年6月15日)の心境を「義とせらるるものはなにか—すべての〈義〉が死滅するとき、さいごの〈違法性〉である〈生活〉が、はじめてそれじたいとして〈世界〉にあらわれ、世界となるであろう。〈公務員〉たるわたしは〈法=国家〉の世界に仮象として存在したがゆえに、〈生活〉をさえ〈義〉に仮装せしめることを余儀なくされたのだったか。」と記した(「解体新書第3章ノ1・通信5)。二年後の74年10月、高橋和己の〈病死〉にまつわる思いにも触れながら、一昨年(72年)の夏に「じぶんでもおそろしくなるような酷い疲れにとらえられた」ことを書きとめている(「解体新書?-6」)。松下は、「菅谷規矩雄追悼集」の『ある非詩的な註』に、その夏、菅谷が三里塚闘争において負傷~入院した経緯をつづり、(彼は)「この時に、一たん〈死〉を潜ったのだ。」と記す。
 〈 〉の中身の『無言ないし言葉』のリアリティに賭ける文学者・菅谷は、中身に収束不可能な〈 〉そのもののリアリティを追求する松下の表現運動への〈別離〉を通して、「じぶんでもおそろしくなるような酷い疲れ」の根底に存在する自問の袋小路から果たして脱出しおおせたのか定かではない。
【1991年】
 1月、「概念集・4」を刊行。
 5月1日、東京で「救援通信最終号—三大学教員処分撤回闘争を終えて—」が発行された。松下の「もう一つの解散集会」「大学以外の〈大学〉闘争」「五十嵐氏の文章への註」「歌集『不条理』を媒介して」が掲載されている。
 6月1~2日、門司大里教会を10年ぶりに訪問、当地の知人の親子関係をめぐるテーマにも交差、その足で、キリスト教信者で哲学者であった九州大学の故滝沢克己(84年6月死去)の追悼に回った。71年の松下に関する人事院審理中断を契機に生じた分岐~対立に関する論文(『相互批判の確実な基礎』を求めて)の表現過程(原本を松下へ委託~したにも関わらず、コピーをパンフ化~著書=商品として三一書房から出版)をめぐり、松下から再考と討論が提起されていた。対応は途絶えたままであったが、厳しい批判は批判として敬愛する人物の一人であった。
 6月20日、「九一・六・一九同時代建築研究会での『現代建築 ワードマップ』の最終段階の編集会議をきいて」三項目を提起、(註・以下要約)
  1. 三年間のおくれの要因に関する総括文が冒頭に掲載されない限り、放置されてきた〈バリケード〉、〈法廷〉、〈監獄〉の掲載を拒否する。
  2. 注や囲み記事のプランに疑問、掲載ページの文章をかいた筆者との意見交換や校正作業が不可欠、特に松下に関連する「東京拘置所」「パリ・コンミューン」について。
  3. 前記は刊行の質や各人のかかわりを深めるためであり、前記二項を実現しつつ解散しうるなら極めて情況的~。
 同日、東京の全統一労働組合本部会議室で「救援通信最終号」刊行記念討論集会が開かれ、松下は、その討論経過をパンフ「1991・6・20討論の記録—不確定な断面からの出立—」として10月に刊行した。「概念集・5」を7月に刊行。
[12月26日、ソヴィエト連邦消滅宣言。]
【1992年】
 1月、「概念集・6」を刊行。
 1月21日、大阪高裁〈N〉公判控訴審、86・3・24当日の警備員が証言。続いて2月18日、本事件経過の目撃証人(関連する小説『黙』の作者高尾)による証言があり、大阪高裁内外で(予断と偏見のない人々へのビラ)「裁判所は裁判所(職員)の偽証を裁きうるか—何重もの権力犯罪とは何か?」が両日を横断して配布された。3月31日、大阪高裁〈N〉公判、弁論要旨~判決宣告〈控訴棄却〉。
 3月「概念集・7」を刊行。3月11日(56歳の誕生日)、松下は主に共闘者に向けた遺書を作成、ワープロ化して配布を始める。
 4月28日、神戸大学闘争参加者による討論、討論の記録は「神戸大学闘争史・別冊(1)」として6月に刊行した。5月、「五月三日の会通信・訂正リスト」を作成。
 5月23日、門司大里教会協議会記録について提起「~真実の道はきびしく、場合によっては友人や家族をも批判しなければなりません。しかし、批判は自己目的ではなく、より大いなるものの前で平等の立場で生きるための手続きの一つなのですから……」。
 同月29日、神戸地検事務官2名が訴訟費用66,195円の強制執行を予告。松下は拘禁施設に本を寄贈しつつ、東京地裁~最高裁を縦断する納付告知書取消を求める申立。拘禁施設へ本の寄贈と訴訟費用に関して、その後も徳島の共闘的古本業者(あじさい屋)と神戸拘置所の間で自主ゼミが展開した。
 6月15~18日、黄疸の悪化、急性肝炎~重度の黄疸~胆石のため、尼崎医療生協へ緊急入院。6月24日、ベットで苦しさに喘ぎつつルソーの「告白録」を読了。7月14日、手術。長期入院の後8月15日に医療生協を退院した。以後は月1度の定期検査。この2ヶ月間の体験を踏まえて11月には「概念集・8—表現過程としての医療空間—」を刊行する。回復後は、親しい友人たちとの会合も定期的に行い、新しい出会いによって芽生えたテーマや作業に取り組む。
 10月3日、(山谷、釜崎の労働者のための建築活動を行なっていた)宮内康がガンで死去(55歳)、12月20日、山谷労働会館で追悼集会(「宮内康氏を追悼するためのレジュメ(序)」概念集・9)。
【1993年】
 1月、「序文とあとがきから見た既刊パンフのリスト1」を刊行。1月から3月にかけて、元神戸大全共闘との討論会、討論の記録を「神戸大学闘争史・別冊(2)」として刊行した。7月、友人藤本敏夫に借りた天理教関係の資料に誘発され「おふでさき小論」を書く(概念集・9)。
 7月7日の神戸地裁が行なった訴訟費用の「債権差押命令」に対し抗告申立、8月24日の抗告棄却(神戸地裁)に対して、さらに大阪高裁に即時抗告申立~。
 9月、「批評集γ篇・6」「批評集γ篇・7」を刊行。11月、「概念集・9」を刊行した。
 10月16日~11月18日~12月18日、神戸大闘争の過程で自主講座運動に参加していた人達の天王寺公園を媒介する集会に参加。「公園は何の喩か」~「再び、公園は何の喩か』(概念集・10)
【1994年】
 3月、「概念集・10」を刊行。4月25日「プロジェクト猪」のアンケート執筆依頼が神戸大学庶務課経由で送られてきたので、5月10日に回答(概念集・11)。
 5月、「発言集・3」を刊行。6月、「時の楔通信・訂正リスト」を作成。 7月、「藤本敏夫氏の生きた軌跡」を作成。9月9日、大阪地裁でタイ人女性ナターシャに検察側が懲役12年を求刑。9月21日、「ナターシャさん母子の行方と面会についての提言』(概念集・11)。
 9月、「批評集β篇・1更新版」、「批評集β篇・2更新版」、「批評集β篇・3」、「批評集β篇・4」を刊行。12月には「概念集・11」を刊行した。
【1995年】
 1月、「序文とあとがきからみた既刊パンフのリスト2」を刊行。[1月17日、六甲山系を中心とする阪神地方に大地震が発生]
 六甲大地震(いわゆる阪神大震災)に見舞われた人々の救援に立ち上がる無償の奉仕希望者が大量発生、若者たちを中心としたこの動向に、国家を乗り越えていく民衆性の萌芽をかいま見た松下は、マスコミが多用するボランティア概念について「本来は自発的な志願により戦闘に加わる人のことであり、第二次世界大戦の予行演習とされたスペイン戦争への、主として革命側への参加を意味した人々に用いる場合に最も原義に近い。」と記し、世界史的な視座からの救援活動の総括を可能にする場とテーマを示唆する。さらに獄中のボランティアについて「60年代末以降に激化したベトナム内戦へのアメリカの介入(日本を基地とする爆撃)により廃墟と化した土地で一人泣いている幼児の写真を見て胸をうたれた青年(大道寺氏、益永氏ら)は、虐殺者に協力し繁栄する日本社会の一員である自分にオトシマエをつけるために東アジア反日武装戦線として爆弾闘争に決起し、死刑判決を受けて今も処刑の危機にさらされている。かれらを救出しつつ、かれらが生きたボランティアの原点を変換~再現しうる者こそがボランティアの次の概念を提示しうるのではないか?」と述べている(概念集・12「ボランティア」)。
 2月、ナターシャさんとの往復書簡(概念集・12)、2月28日、大阪地裁は彼女に懲役8年の判決。
 3月、「概念集・12(六甲大地震に関連して)」を刊行。[3月20日、地下鉄サリン事件発生、3月25日、オウム真理教上九一色村の施設に強制捜査。]燻っていたオウム真理教事件が一斉に火を噴き、報道はオウム一色に染まった。
 オウムの軍事的な指導者とされる早川氏は69~70年段階に神戸大学の学生として、その段階の闘争に関わっている。そのために、私のところへもTV、週刊誌などの取材申込があったが、基本的に全て断った。理由は、オウムの問題についても他の問題についてと同様に自分の方法とペースで意見をのべたり活動していくから、既成の企画意図(とりわけ現段階の反オウム・キャンペーン)を補強するためのコメントは拒否するというものであった。4チャンネルの番組(5月13日夜のブロードキャスター)で私の刊行した〈神戸大学闘争史〉の中の写真や、現在のA430研究室~B110教室の紹介があったので私が取材に応じたかのように考えている人が多いが、それは逆で、前記の番組の取材に関わった人は、例外的に〈神戸大学闘争史〉などのパンフレットをよく読み、私の原則を了解し、番組(ひいてはオウム報道の総体)のレベルを全共闘以降の問題の追求の領域へ引き上げる私の試みに仮装的に共闘してくれたのである。>  (6月刊行—「批評集α篇・3」オウム真理教を巡る情況の特性・註)
 8月15日、仮装被告団気付松下昇名で「オウム裁判を真に開始するために」の1枚目を作成し配布を開始、オウムの法務担当者(東京・大阪)から検討して応用できるところはしていくとの回答あり。9月には2枚目を追加し、直接獄中に届ける試みも行なう。「早川紀代秀氏への手紙」等を含む「概念集・別冊1~オウム情況論~」を10月に刊行し、95年の自然災害と人為的被害を統一的に把握すべき視座を提起している。
 11月4日、ジル・ドゥルーズ(70歳)が突然の自死。
 自己を含む情況の不確定性の解き方に絶望した思想家が、自己を含む情況の不確定性を自然重力に委託するという方法によってそれを処刑したのだといえないか。我々はかれほど明晰に絶望できないし、してはならないと思う。しかし、かれの分も苦しみ、模索し続けよう。〈重力〉概念についても、既成の科学が見落としている範囲と方向が微かに感じられるので参考にしつつ、〈地獄〉で闘い続けたい……。  (「概念集への索引と註」刊行委の討論断片)
【1996年】
 96年1月に刊行した「概念集シリーズへの索引と註」のあとがきには、「今回の試みを提出しておくことにより、私がいくつかの条件によって今後の作業が不可能になるとしても、だれかが既刊の全表現について、同位相のより厳密な作業を具体化していくための手掛かりを作ることはできた、という安堵はあり……』という言葉が記されている。同月、「概念集シリーズへの補充資料」を作成。
 5月、「88年にエイズで死去したフーコーと共に、ドゥルーズの死に方の異様さと孤立性にはヨーロッパの現代思想の姿が象徴されており、また、病床であえぐフーコーや路面にたたきつけられたドゥルーズが無名の身体として扱われたであろう経過は、95年の地震やサリンによる無差別死を対極に連想させ、それらにはさまれた膨大な死と向き合って私たちの地獄篇の描写と地獄との闘いを持続していく意思をかき立ててくれる。」と記しつつ「概念集・別冊2~ラセン情況論~」を刊行、配布を開始した6日の午前10時過ぎ、六甲の自宅に続く路上、急激な心臓の異変によって、愛息松下未宇の巡礼位相へワープ……。
 では、私の行為の〈動詞〉の根拠は何か。極限において〈be〉であるといっておく。六十年代に出現した全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ、という声ないし歌の中に私は存在してきた。  (概念集・1「Let it be」)

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5・裁判経過断片及び被拘束期間

(1)裁判経過断片

「前回公判までの経過を、できる限りつき放して把握すると、裁判機構が検察権力との一体化を更におしすすめつつ、被告人側が、どのような論理や証拠を提起しようとも、それを無視=抑圧して、年内に控訴棄却の判決を出そうとしていることは明らかであった。この方向性自体は、すでに公判開始以来、いや闘争開始以来、明らかであるということができ、多くの被告人は、例外的な少数を除いて、この絶対的と感じられる壁の前で、時期のちがいはあれ屈服し、絶望の身ぶりで武装解除するか、より魅力的に思える別の壁に転進するか、これは壁でなく通り過ぎる風景の一つだと自己暗示をかけて生活にくずれ落ちるというような姿態をさらしてきた。けれども{   }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。従って、特定の裁判官や検察官や各当事者を媒介して公判にかかわるとしても、それら当事者たちの制約にのみ対処しているわけにはいかない。制約に対処していくのは、それを逆用~転倒していく場合に制約される。」  (「時の楔通信」第〈9〉号)
 以下は、司法側の時間性から見た交差中継点の抽出である。現状の権威に収束し人類史的真理性に対して閉じていく審理様式の繰り出す命令群・決定群・制裁群・判決群~に対して、複素数的に出現し、諸幻想の渦をなして包囲する仮装証言群・陳述群・申立群・抗告群~の象徴する可視~不可視の表現過程が、松下の言う{ }公判過程であり、法国家の幻想基盤を揺るがすその内実は「五月三日の会通信」や「時の楔通信」によって極力受け止められている。また、少なくとも、「試行」「あんかるわ」「メタ」「RADIX」「岡山救援通信」「白夜通信」「(大学教員)救援通信」「〈門司大里教会〉月報」「~103通信~』「同時代建築通信」といった多数の自立メデイアが{ }公判過程に交差した。
α・人事院審理
「処分理由一二項目のうち刑事裁判の公訴事実が三項目(日付としては四項目)であることは、処分過程、処分理由のもつ刑事事件に対する深さ~広がりを示唆している。不当なものであるとはいえ、ある意味で〈無限〉を裁いているこの一二項目と、そのスキマにある全テーマを媒介に大学闘争の驚くべき世界(史)性に踏み込むことが可能である。」  (時の楔通信第〈5〉号)
 国~大学による処分理由には教授会欠席、授業や試験の拒否、全員に0点をつけたこと、はり紙などによる表現の掲示がふくまれている。
(1)70年11月16日、松下から人事院に審理請求→71年7月19日~23日、全国からの共闘者30名を代理人として兵庫県歯科医師会館で公開審理が開始された。20日(二日目)、共闘者の一人が傍聴席で口にした〈パン〉によって中断、その後松下は会場に{非}存在。23日(五日目)の朝、松下の姿はなく「別紙を応用できると考える〈請求者〉は、私や公平委員会や処分者を含む審理会場で討議の対象にしてください。〈私〉は、これから、第六日の審理会場へ出かけます。……御中」、「全ての代理人を一時的に解任します。人事院公平委員会御中」といった二枚のメモが置かれていた。このメモを応用して、〈解任〉代理人らによる公平委員会とのユニークな〈審理〉が展開したが、代理人間の分岐もあらわになった。人事院は以後〈十〉年審理を放置する。80年1月30日、松下から裁判所に人事院審理再開請求の行政訴訟を提起(東京地裁民事第一次訴訟)。
(2)81年4月18日、松下から人事院公平委員会宛申入書提出。→東京地裁の第一次訴訟との関連を意識して重い腰を上げた人事院は、81年11月4日~6日、兵庫県林業会館で審理再開。関連して、12月25日付で、松下をふくむ自主講座実行委員会から神戸大評議会に対し、人事院審理再開に先立つ全学的討論の場の設定要求及び研究室からの押収物返還請求がなされた。→82年1月27日~29日、神戸大闘争の現在的展開として審理継続。→3月11日、松下は~最終陳述書~を委員会に送付。→3月26日に人事院が大学側の処分を承認すると、神戸大当局はすかさずA430研究室を厳重に逆封鎖した。→4月9日、松下は裁判所へ提訴(東京地裁民事第二次訴訟)。
(3)82年6月15日、人事院へ「判定に関する再審請求書」提出→11月2日、人事院は松下の再審請求を却下決定。~
β・民事訴訟
○神戸大闘争関連
 松下は最後まで自分に関する〈免職処分取消請求=解雇撤回〉訴訟を提起していない。解雇処分を受けた場合の訴訟行動として特異である。
 下記(1)及び(2)は、A430松下研究室の明渡しに関係するものである。裁判を第三審まで縦断した後も再占拠闘争は頻発、大学構内へ自由に出入りし、研究室を応用して表現の掲示や〈自主講座〉~{自主ゼミ}を持続した。(3)及び(4)は前記αの人事院審理を対象とする行政訴訟である。
(1)国の申請で71年4月に神戸簡易裁判所が決定したA430研究室明渡し仮処分に対する松下からの異議申立事件、73年6月13日に判決→74年7月18日(大阪高裁)控訴棄却、同年9月2日(大阪高裁)上告に対する却下。~
(2)71年5月に国が提起したA430研究室明渡し請求事件(本訴)→76年4月28日、松下不出頭のまま神戸地裁判決(使用妨害排除請求及び共同訴訟参加不許可)→77年6月29日、控訴審判決(大阪高裁)控訴棄却・参加申立却下→78年4月13日(最高裁)上告棄却。~
(3)80年1月30日、人事院審理再開請求の行政訴訟を東京地裁に提起(第一次訴訟)→83年3月16日、第一審判決(東京地裁)再審請求却下、賠償請求棄却、参加申立却下。→84年12月17日、第二審(東京高裁)控訴棄却(判決言い渡しに対して表現行為を対置した松下らを制裁~刑事告訴~逮捕~起訴~[γの刑事訴訟へ波及])。→85年12月17日、第三審(最高裁)上告棄却。~
(4)82年4月9日、人事院の判定取消請求及び共同訴訟参加の行政訴訟を東京地裁に提起(第二次訴訟)→86年7月17日、第一審判決(東京地裁)判定の取消請求棄却、2名の参加申立却下。→87年5月29日、松下に対する上告棄却命令(東京高裁)。→6月16日、参加申立2名の第二審判決(東京高裁)控訴棄却。6月30日、松下の上告却下命令(東京高裁)。→88年2月16日、参加申立2名の上告棄却(最高裁)。~

○京大A367資料室関係
(1)82年4月以降、A367の強制的改造計画が浮上。→83年3月31日、松下及び坂本が京大A367資料室の占有仮処分申請。→同年7月8日、申請を却下する決定(京都地裁)。~
(2)83年7月19日、国(京大)が松下ら5名についてA367資料室の占有移転禁止の仮処分を申請→京都地裁が仮処分を認め、8月25日、前記5名を被告とする明渡し請求(本訴)。→85年1月29日、第一審判決(京都地裁)明渡しの認可(当時、獄中にあった松下の出廷を大阪拘置所は不許可)、2月1日、明渡し強制執行(宿泊の子ども達を含む使用者全員を排除、全物品は一時別会議室に留置した後地下倉庫に移動)。→(大阪高裁)控訴審の86年3月24日の法廷で酒パックの饗宴が発生、松下に監置20日の制裁、傍聴人の郵政労働者1名が逮捕~起訴された。→同年4月28日、第二審判決(大阪高裁)控訴棄却、法廷でビー玉や硬貨の飛翔に関係したとして被告2名に監置20日の制裁。*6月16日、大阪高裁は忌避により分離していた〈T〉の(第三次忌避を無視して)控訴棄却。~→同年11月10日、松下の上告に却下命令(大阪高裁)。~ 
(3)85年6月3日、5名以外の占有当事者3名が、強制執行した執行官及び松下ら5名を被告として(A367)動産引渡請求を京都地裁に提起。→5年にわたる審理を継続して後、90年5月9日、原告側から証人申請~尋問事項書と同時に「訴の変更申立書」を提出。以後「休止」~。
 92年8月、京大地下倉庫に留置されていた物品の一部は、A367位相を不可避的に継承する空間性に移動した。
γ・刑事訴訟
○神戸大闘争関連(起訴事実は7項目)
〈1〉69年9月1日、B109の化学の授業を粉砕した事件→(建造物侵入・威力業務妨害)
〈2〉69年12月3日、松下処分問題を協議する教授会粉砕事件→(建造物侵入・威力業務妨害)
〈3〉70年1月8日、教養部の全教室に落書きし、B108教室の黒板に「く」の字型12個を出現させた事件→(器物損壊)
〈4〉70年4月8日、松下処分を提案する教授会粉砕事件→(建造物侵入・威力業務妨害)
〈5〉71年9月7日、B109教室の哲学補講粉砕事件→(建造物侵入・威力業務妨害)
〈6〉71年9月22日、A430研究室再占拠事件→(建造物侵入・威力業務妨害)
〈7〉72年2月15日、試験警備中の教官を〈 〉焼きに参加させた事件→(公務執行妨害)
 当初起訴状は4通あったが、神戸地裁は74年6月13日(第14回公判)から併合。71年11月からこの併合まで、松下は他被告の公判に出頭し、自らの法廷には{非}存在している。70年のクリスマスイブに始まった神戸大学闘争の公判は、大学ごとの特殊性をこえる包括的な刑事公判であった。

【註】上記〈1〉~〈7〉の逮捕・起訴は、この自然時間順で発生したのではなく、松下の排除・処分を意図する大学当局は、1970年3月18日以降の非公開教授会において「意見分布をとるだけ」という極めて欺瞞的方法を積み重ね、〈4〉の1970年4月8日に最初の〈誤認〉逮捕を画策、松下処分の〈証拠〉をつくり出すべく警察への出頭~供述を繰り返し、4月11日に釈放された松下らを5月18日に再逮捕させることによって〈1〉〈2〉〈3〉を事件化して起訴させたのである。4月8日の逮捕が無ければそれ以前も以後も刑事事件は存在せず、闘争過程の本質領域に存在する者たちを抹殺して自らの特権性保持に奔走する大学当局と国家権力との共謀こそがこれらの事件を生み出している。(当局が隠蔽してきた「教授会議事録」ー「時の楔通信第〈2〉号、同27頁~35頁」~「同第〈3〉号19頁下段~20頁」~「五月三日の会通信第25号12頁、15頁~17頁、18頁~19頁、最終弁論要旨」等に事件性の真の姿が描出されている。この時期の一連の権力動向が生誕後間もない松下未宇の生命性に与えた重大な影響も見逃すことはできない。)

 法廷において闘争を圧殺してきた証人を追求し、闘争の正当性を提起していく証言をαとすれば、闘争が表面上圧殺され、各主体の生活への下降にともなう闘争者相互の〈分離〉を転倒する仮装証言βの試みが現在も続き、さらに法廷の証言にとどまらず、自己にとって法廷のあるなしにかかわらず、それらを総体として無視し得る程の、逆にいえば、その実現なしには法廷での証言が意味をもたなくなってしまう程の、存在の闇の領域の当事者~関係性の証言γが不可避となっており、α、β、γの統一的な追求がない限り、いかに法廷で自らの論理を駆使して相手を追いつめているつもりでも、必ず、その虚しさに報復されずにはいない。  (時の楔通信第〈0〉号)
 いうまでもなく、裁判闘争は現実過程における闘争にくらべて、それ自体では闘争たりえない、幻想領域でのしいられた総括である。しかし、それゆえに価値はゼロとはならず、その現実過程からの抽象度を正確に把握する方法による現実止揚の運動と、たんに権力からしいられているのでなく、生活、存在、情念、戦後史、言語過程などの一瞬一瞬の本質から総括をしいられているのであるという自覚を対象化するならば、この裁判闘争の名付けがたさを、与えられた、困惑の表情でうけとめる必要はなくなり、未踏の領域へのエネルギー源として飛躍させることができるであろう。  (70年7月31日「裁判を一つの比喩として展開されつつある闘争に関するレジュメ」表現集・続)
 ~人事~民事~刑事~の各審級における陳述や申立は膨大な量に及び、その一つ一つが松下の表現運動にとって重要な意味をもっている。しかし、刑事公判第一審法廷における81年7月29日の口頭陳述を、複数の共闘者のメモによって再構成した{最終意見陳述}書の次のような箇所に、過激な闘争者と思われがちな松下の普段のたたずまいが表れている。
 「私の共謀者は、どこにもいないのだ、という絶望を、この十年以上味わってきた。むしろ私を支えたのは、闘争から遠くにあるようにみえる幼い存在—生まれたばかりのもの、永遠に巡礼したもの、まだ生まれていないもの—であり、そのような存在と出会い、真に共謀したいと願っている。」~「気付かぬうちに与えた苦痛と同位相で、私が気付かぬうちに支えられたことも数多いであろう。この法廷をかりて感謝したい。私がずっと後になって知った一例を上げておくと、昭和四五年五月に私が大学当局と検察当局の共謀によって不当逮捕されたとき、獄中で学生Mが、大学構内の〈 〉広場で学生S、学生Fが抗議のハンストをおこなってくれた。さらに大学闘争とは関係がないと思われている獄中の〈一般刑事犯〉の人々がハンストを展開した。これらの、とくに後者のハンストは警察権力が私との連絡を遮断したために、私がそのことを知ったのはずっと後であるが、この〈おくれ〉の意味を、かれらの〈飢餓〉の深さを共有し転倒する過程で生かしていきたい。」  (註・原文は学生の実名表記、五月三日の会通信25号掲載)。
 115回にも及ぶ公判の81年10月28日の第一審判決は(神戸地裁)懲役1年6月、執行猶予3年(69年12月3日の2つの罪名のうち威力業務妨害は無罪、残り6個は全て有罪)。→85年9月10日、第二審判決(大阪高裁)懲役1年2月、執行猶予3年(70年1月8日と72年2月15日の事件は一部無罪、69年12月3日の事件は一審から逆転有罪)。→松下は86年5月10日、上告趣意書を提出、二審判決の無罪部分や起訴されていない事実群に関する〈有罪〉証拠の提出可能性を含めて、審理の総体的なやり直しを要求。同日付けで上告審理の前提に関する申立、趣意書で示唆した審理法廷への最高裁の参加要請及び1ヶ月以内の応答がない場合の忌避を予告。→86年6月11日に忌避申立書を提出、第一小法廷の6月19日の却下決定に対し、6月22日~異議~申立書、対して第一小法廷は7月1日の棄却決定、7月4日付けで、却下と棄却の語法的矛盾から全申立への対処の矛盾を開示する求釈明かつ再審の申立を提出。→89年3月10日、第三審決定(最高裁)上告棄却。~

○岡山地裁{卵}事件
 1974年4月1日、岡山大学闘争の刑事事件を傍聴していた際、被告人(坂本)が退廷させられようとした時、{卵}を媒介して一連の訴訟指揮を批判~粉砕したとされる行為で監置20日、裁判官(渡辺)の告訴によって釈放された直後に逮捕され、4月30日起訴。廷内に落ちていたとされた{卵}の殻は実物も、写真としても証拠提出なし。→76年6月8日に第一審判決(岡山地裁)懲役8月、執行猶予3年。→同年12月16日、第二審判決(広島高裁岡山支部・被告人不出頭)控訴棄却。→77年11月1日、第三審決定(最高裁)上告棄却。~

○東京高裁行政訴訟判決〈 〉化事件
 1984年12月17日、東京高裁における行政訴訟(人事院審理再開請求)控訴審において審理不十分なままの結審に抗議し、判決を〈 〉化したとされる行為で共同訴訟参加人の女性と共に監置20日、裁判官(小堀)が12月25日に告訴、85年1月7日、東京拘置所から釈放されると同時に令状逮捕~再留置、1月17日に起訴。東京拘置所と大阪拘置所を往還して4月30日保釈。→85年11月15日、第一審判決(東京地裁)懲役1年、執行猶予4年。→86年5月13日、第二審判決(東京高裁)控訴棄却、その時、法廷で石つぶての飛翔に関わったとされる共闘者に監置5日の制裁。→1987年7月14日、第三審決定(最高裁)上告棄却。~

○{86年、京大A367明渡請求事件(大阪高裁)控訴審で発生した公務執行妨害事件}{3・24}〈N〉公判
 起訴されたのは、裁判所(職員)の暴行を受け、そのため逆に狙いうちされた共闘者の一人であったが、松下は法的位相を超えた存在的被告人として公判に関わった。86年6月6日、大阪拘置所から第一回公判に出廷した〈N〉は、起訴事実を全て否認。→88年3月9日、被告の不出廷が続く中、やる気を失くした弁護人2名辞任。→89年7月31日~9月25日、松下証言。→90年10月8日、第一審(大阪地裁)判決は懲役8月、執行猶予2年。→10月22日、〈N〉をふくむ仮装被告(団)から控訴。→92年3月31日、第二審判決(大阪高裁)控訴棄却。→95年1月10日第三審決定(最高裁)上告棄却。~

*直接の被告でない裁判も媒介的に応用しつつ、〈大学〉闘争の統一性を追求する松下の足跡は、~東京~名古屋~京都~大阪~神戸~岡山~徳島~松江~と全国に波及している。また、訴訟費用や制裁をめぐる司法機関との攻防は生涯続いた。

(2)被拘束期間

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6・表現及び生前の刊行パンフ

(註・以下の表現及び発言は既刊パンフ「表現集」と「発言集」に極力収録されている。)
[文字による初出表現]

○〈論文〉

*【ハイネにおける幻想の生起と崩壊】 東京大学文学部独文学科卒業論文・1958年12月
*【ドイツ表現主義の諸問題—ブレヒトとベンを媒介して】 東京大学文学部独文学科修士論文・1962年12月、後に「ゴットフリート・ベンとベルトールト・ブレヒトにおける表現主義」と改題
*【ブレヒトの方法】 神戸大学学内紀要63年12月「論集」・1963年8月
*【ハイネ『北海』における詩と散文の相関性】 神戸大学学内紀要64年2月「文学」・1963年8月  
*【ブレヒト「処置」の問題】 神戸大学学内紀要64年8月「近代」36号・1964年3月、後に「処置するもの・されるもの」と改題して同時代演劇(73年9月)に併合表現と共に転載
*【ハイネの序文に関する序論】 神戸大学「論集」2号・1966年3月
*【〈第 n 論文〉をめぐる諸註】 「ドイツ文学論集」1号・1967年3月
*【不確定な論文への予断】 神戸大学「論集」7号・1969年3月

○〈作品〉

*【遠嵐】      「試行」5号      1962年7月
*【北海】      「試行」9号      1963年10月
*【循環】      「試行」12号     1964年11月
*【六甲】 序章   「試行」15号     1965年10月
      第2章  「試行」16号     1966年2月
      第3章  「試行」17号     1966年5月
      第4章  「試行」18号     1966年8月
      第5章  「試行」19号     1966年12月
*【包囲】(1)   「試行」21号     1967年6月
     (2)   「試行」22号     1967年9月
     (3)   「試行」23号     1967年12月
     (4)   「試行」24号     1968年4月
     (5)   「試行」25号     1968年8月

○〈批評〉

*【奇妙な夜の記憶】 神戸大学第二課程新聞65年1月号・1964年12月
*【〈ハンガリー革命〉と〈六甲〉】 神戸大学新聞1966年11月11日号
*【不明確さを構築せよ—学内作品コンクール選評】 神戸大学新聞67年2月号・1967年1月
*【H・ブロッホ『誘惑者』(古井由吉訳)について—書評】 日本読書新聞67年6月号・1967年5月
*【情況への発言〈あるいは〉遠い夢】 「あんかるわ」18号・1968年4月
*【もうひとつのBRICK=レンガの中での話】 神戸大学応援団機関紙「BRICK」27号(72年4月)・1972年3月
*【あらたな闘争の展望について】 救援通信14号(80年8月)・1980年6月
*【生闘学舎論】 同時代建築通信4号(83年12月)・1983年10月
*【河川敷・身体・空間】 同時代建築通信8号(84年12月)・1984年10月
*【会食メニューへの註】 同時代建築通信9号(85年7月)・1985年6月
*【東京高裁の告訴~起訴弾圧について】 救援(85年3月号~12月号)・1985年1月~11月
*【不法占拠】 群居12号(86年7月)・1986年5月
*【印刷されたものを真に生かすための表現過程論(序)】 模索舎通信44号(87年1月)  ・1987年1月
*【関曠野『プラトンと資本主義』について(書簡)】 同時代建築通信16号(88年5月)   ・1988年3月 

○〈ビラ~掲示〉

*【情況への発言】 1969年2月2日神戸大学教養部掲示板・処分調査資料として筆写〜転載メデイア多数
*【教職員諸君!受験生諸君!テーマの一つ】 1969年3月4日学外入試会場ビラ・処分調査資料として当局が筆写
*【〈教官諸君へ〉】 1969年7月1日全学集会への批判と提起ガリ刷りビラ・神戸大全共闘パンフ69年7月に転載
*【全学集会加担者の諸君へ】 1969年7月1日全学集会への批判と提起ガリ刷りビラ・神戸大全共闘パンフ69年7月に転載
*【〈バリケード的表現〉】 1969年8月下旬神戸大学構内のさまざまな場に掲示、ビラ、落書として出現・「試行」29号(70年1月)や神戸大学教養部広報30号(71年10月)に転載
*【バリケードの中から】 1969年8月30日および9月4日(書簡)・「RADIX」1号(70年2月)に転載
*【正常化=反革命に関するテーゼ】 1969年9月16日ガリ刷りのビラ(処分調査資料として当局がコピー)
*【バリケード的表現】 1969年10月13日掲示板のマジック表現(処分調査資料として当局が撮影~筆写
*【なにものかへのあいさつ】 1970年1月3日ガリ刷りのビラ・数名に直接配布したが、その後……「試行」30号(70年5月)と「あんかるわ」24号(70年4月)に転載
*【祝福としての0点】 1970年1月5日ガリ刷りのビラ・「あんかるわ」24号(70年4月)に転載
*【反幻想的な問い】 1970年1月8日掲示板のマジック表現・処分調査資料として当局が筆写
*【……への問い】 1970年5月14日掲示板のマジック表現・処分調査資料として当局が撮影・神戸大学教養部広報22号(70年8月)に転載
*【裁判を一つの比喩として展開されつつある闘争に関するレジュメ】 1970年7月31日青焼きコピー・「あんかるわ」26号に註記と共に転載
*【〈八月〉闘争の事実性】 1970年9月5日青焼きコピー・「RADIX」3号(70年12月)に転載
*【処分されているのはいったいどちらか】 1970年10月15日神戸大学生協機関紙「砦」66号(70年11月)
*【仮装としての被告とは何か】 1970年12月24日法廷で配布されたコピーのビラ・「情況」71年6月号等に転載 
*【私に対する四つの文章】 1970年(審査説明書、処分説明書、起訴状2通)・現代の眼(71年1月号)に転載
*【特別抗告申立書(罫紙)1971年5月18日付 最高裁判所御中 松下昇、橋本
和義を含む仮装被告団】 「試行」33号(71年7月)に転載
*【私信(1974年10月31日付 「伝統と現代」編集部 林利幸様)】 「伝統と現代」第31号(75年1月)           
*【{古本}市のお知らせ】 ~1980年4月~ファックスのビラ
*【あらたな闘争の展望について】 救援通信14号(80年8月15日)  
*【仮装被告団からのメッセージ】 ~1981年7月20日~メモ・〈門司大里教会〉月報〈20〉号(81年8月)に掲載
*【{最終意見陳述}書(罫紙)】 ~1981年7月29日~神戸地裁刑事公判における口頭陳述を共闘者らのメモにより再構成・ 五月三日の会通信25号(81年9月)に転載
*【拡大自主講座のよびかけ】 1982年11月16日コピーのビラ・〈門司大里教会〉月報〈20〉号(82年12月)に転載 
*【連続シンポジウム・テーマの基本的構造】 1982年11月22~23日レジュメ・〈門司大里教会〉月報〈20〉号(82年12月)に転載
*【模索舎で時の楔通信を入手される方々へ】 1986年9月、時の楔通信〈15〉号の表紙に添付したボールペン書きのコピー
[口頭による初出表現]

○〈対談・講演・討論・会議〉

*【反権力の自立的拠点 対談者・清水正徳(神戸大学文学部教授)】 神戸大学総合雑誌「展望」18号(68年9月)・1968年7月5日
*【権力を持たない者は空間をもつことができる】(神大理学部シンポ発言要旨)・情況69年3月臨時増刊号)転載・1969年2月12日
*【新・告知板への発言】 アサヒグラフ(69年3月7日号)・1969年2月27日
*【表現の変革と機構解体】(電話インタビュー)・日本読書新聞(69年3月24日号)・  1969年3月8日
*【機構の変革あるいは表現の変革】(自主講座における発言) 神戸大学新聞(69年4月11日号)・1969年5月7日
*【表現運動としてのバリケード】(文京公会堂徹夜討論発言要旨)・情況(69年7月号)     ・1969年5月29日
*【都立大学・解放学校の討論記録】(ガリ刷り)・1969年12月14日
*【私の自主講座運動】 1969年12月都立大解放学校での問題提起・「RADIX」2号・   1969年12月14日
*【神戸大学教養部教授会議事録】(〈非合法〉のガリ刷り)・神戸大学全学共闘会議(70年2月25日発行)・1970年1月14日      
*【「学問・教育・闘争」】(B109教室~A430研究室での自主講座)・参加者、折原浩(東大)北村日出夫(同志社大)最首悟(東大)滝沢克己(九大)中岡哲郎(神戸外大)・朝日ジャーナル(3・22~3・29掲載)・1970年2月22日
*【京都大学・処分粉砕集会における発言要旨】 大学を告発する全学教官連合機関紙No.1(70年6月)・1970年6月13日
*【反風土の蒼貌—〈沈黙〉が包囲する情況 対談者佐々木幹郎】 日本読書新聞(70年12月7日号)・1970年11月16日
*【自主講座運動を媒介とする表現変革運動】(姫路工大大学祭における発言要旨—タイプ印刷)・1970年11月18日
*【講演会】(南山大学における講演)・南山大学新聞(70年12月10日号)              
*【私にとって大学闘争とは何か】(九州大学における講演)・九州大学新聞(71年1月25日号)
*【松下昇の報告と問題提起—仮装組織論】(都立大解放学校)・解放学校通信(あんかるわに転載)・1971年1月29日   
*【南山大学における〈委託〉に関する会議再録】(ガリ刷り)・1971年12月18日
*【不可視の拠点から】(都立大解放学校)・解放学校通信(あんかるわに転載)・1972年6月
*【権力の〈暗示〉に反撃する方法を】(こんなことは許さないぞの集会パンフ)序章(別冊)・1973年7月12日
*【〈〈〈〈〈〈 〉〉〉〉〉〉】(EVE講演記録)・同志社大学学術団論集No.4(74年7月)・1973年11月13日
*【軌跡への遡行】(EVE講演記録)・同志社大学学術団論集No.6(76年4月)・1974年11月16日
*【宙吊り情況への断章】(EVE講演記録)・同志社大学学術団論集No.6(76年4月)・1975年11月20日      
*【京都大学における三一書房版『ドイツ語の本』に関する会議再録】(ボールペン原稿)・1976年10月26日
*【神戸大学〈B109〉の自主解放講座での発言】(ガリ刷り)・1976年11月21日
*【京都大学における三一書房版『ドイツ語の本』に関する討論記録】(テープおこし)・1976年12月2日
*【「松下昇氏を囲んで」報告】 「伝習館」を考える大阪の会会報No.53(78年9月)・      1978年6月10日 
*【未定あるいは遠い落書】(EVE講演記録) 同志社大学学術団論集No.8(80年6月)・   1978年12月20日
*【教育を巡る60-70-80パネルディスカッション】(討論テープとメモ群)・ パネラー、河村隆二(関学大)、小林忠太郎(日大)、中村丈夫(長野大)、松下昇(神戸大)・(お茶の水全電通会館)・1980年5月29日  
*【AURA設計工房における青山学院大・全学闘争委メンバーとの討論】(回覧用ボールペン書きコピー)・1980年11月26日
*【門司大里教会〈礼拝〉における発言】 〈門司大里教会〉月報第〈10〉~〈11〉号(82年2月~3月)・1981年6月7日
*【大学闘争と言語の問題】(熊本大学における公開授業)・パンフ「狐と猫と月」(82年9月)・1981年6月9日
*【生闘学舎の建設をめぐって】(パネルディスカッション)・同時代建築通信第1号(83年1月)~第3号(83年9月)・(豊島区民センター)1982年12月16日
*【日本基督教団総会(箱根)における発言】 門司大里教会〉月報第〈44〉号(84年12月)・1984年11月13日
*【空間の変貌—60年代の都市と建築】(パネルディスカッション)・同時代建築通信第14号(87年7月)~第15号(87年11月)・(豊島区民センター)・1985年12月6日
*【最高裁判所の建築批判】(電話インタビュー)・日本アーキテクチュア・(88年4月4日号)・1988年2月10日

○〈既刊パンフ〉

*【松下昇(についての)批評集α篇(国家による批評)】 1(~88年10月~)
*【         (同)            】 2(~89年6月~)
*【         (同)            】 3(~95年6月~)
*【松下昇(についての)批評集β篇(マスコミによる批評)】1更新版(~94年9月~)
*【         (同)              】2更新版(~94年9月~)
*【         (同)              】3   (~94年9月~)
*【         (同)              】4   (~94年9月~)
*【松下昇(についての)批評集γ篇(個人による批評)】1~4(~87年11月~88年3月~)
*【         (同)            】 5(~88年11月~)
*【         (同)            】 6(~93年9月~)
*【         (同)            】 7(~93年9月~)
*【表現集(松下による論文・作品・批評・ビラ~)】   1(~88年8月~)
*【         (同)          】   2(~88年12月~)
*【         (同)          】   3(~94年4月~)
*【発言集(自主講座や講演~における松下の発言記録)】 1(~88年9月~)
*【         (同)            】 2(~88年12月~)
*【         (同)            】 3(~94年5月~)
*【神戸大学闘争史—年表と写真集—】           (~89年5月~)
*【神戸大学闘争史 別冊・(1)】92年4月28日、神戸大学闘争参加者による討論記録 (~93年4月~)
*【神戸大学闘争史 別冊・(2)】93年1月から3月にかけての元神戸大全共闘との討論会記録(~93年4月~)
*【{3・24}証言集 上巻】1986年3月24日大阪高裁で起きた公務執行妨害事件に関する資料(~89年12月~)
*【{3・24}証言集 下巻】上記事件に関する松下の証言(89年7月31日、89年9月25日)(~90年1月~)
*【菅谷規矩雄追悼集】 89年12月30日に死去した菅谷との共闘~すれ違いの対象化(~90年10月~)
*【救援通信最終号】 松下の文章としては「もう一つの解散集会」「大学以外の〈大学闘争〉」「五十嵐氏の文章への註」「歌集『不条理』を媒介して」が 収録されている。(~91年5月~)
*【1991・6・20討論の記録—不確定な断面からの出立—】 救援通信最終号の刊行記念集会(全統一労組本部会議室)討論記録(~91年10月~)
*【正本〈ドイツ語の本〉】 三一書房版「ドイツ語の本」が削除した松下らの原稿を中心に新潟大自主ゼミが作成(~77年9月~)
*【五月三日の会通信 1号~26号】 被処分教官の闘争経過を掲載(~70年7月~81年12月~)
*【五月三日の会通信訂正リスト】 上記通信の正誤表(~92年5月~)
*【時の楔〈 〉語…に関する資料集】 占拠空間における拡大自主ゼミのレジュメ~(~78年10月~)
*【時の楔 《への/からの》通信】 表現メデイアの〈変換〉を迫る情況における仮装対話(~87年9月~)
*【時の楔通信〈0〉号~〈15〉号】 裁判過程を中心に全情況性を凝集(~78年10月~86年7月~)(〈6〉号と〈11〉号は不可視)
*【時の楔通信 訂正リスト】 上記通信の正誤表(~94年6月~)
【概念集・1】—「概念(序文の位相で)」「バリケード」「法廷」「監獄」「フィクション」「反日」「非存在」「仮装」「宙吊り」「全共闘運動」「パターンランゲージ」「委託」「〈 〉焼き」「ストライキ」「文学」「科学」「不可能性」「Let itbe」「単位」「 n 事闘争」「オーパーツ」「落書き」「天然」(~89年1月~)
【概念集・2】—「概念集(序文の位相で)」「概念と像の振幅」「技術」「無力感からの出立」「自主講座」「自主ゼミ」「連続シンポジウム」「大衆団交」「一票対0票」「参加」「瞬間」「表現手段(過程)」「年周視差」「生活手段(職業)」「華蓋・花なきバラ」「メニュー」「訂正」「六甲あるいは〈 〉空間の方法」(~89年9月~)
【概念集・3】—「概念の欠如が引き寄せる言葉(序文の位相で)」「批評と反批評」「戦闘概念の衰弱」「申し立ての極限」「差し戻し」「忌避」「制裁」「韻律(の越境)」「話と生活」「秘密調査委員会」「空間や留置品と共に成長する深淵」「世紀末のための反詩」「死を前にして」「地獄へ至る門」「発生の時間域」「ワープロによる刊行」(~90年5月~)
【概念集・4】—「関係としての指数・対数性」「二つの反日処刑」「夢屑」「不条理」「歌集『不条理』を媒介して」「歯みがき粉」「当事者」「余事記載」「プロテスト」「制圧」「非対称の性」「第n次作品」「註」(~91年1月~)
【概念集・5】—「概念集5に関する序文」「幻想性と級数展開」「批評概念を変換し…」「ゲームの(不)可能性」「スピット処理に交差するモアレ」「電報の速度」「表現における遠心と救心」「資料の位置」「爆風の現在」「救援通信最終号を媒介する討論のために」「裁判提訴への提起」「肉体と身体に関する断章」「包囲の原ヴィジョンへ」(~91年7月~)
【概念集・6】—「序文」「序文(続き)」「バリケード、法廷、監獄(1の続き)」「バリケード(校正刷り)」「バリケード(1の続き)」「法廷(校正刷り)」「法廷(1の続き)」「監獄(校正刷り)」「監獄(1の続き)」「空間とコンテクスト(堀川勉)」→「刊行委の註」「建築モラトリアム(堀川勉)」→「刊行委の註」「擬制の告発(山浦元)」→「刊行委の註」(~92年1月~)
【概念集・7】—「目次風の序文」「フィクション(1の続き、3の〈第n次作品〉と関連)」「宙吊り(1の続き、2の〈無力感からの出立〉と関連)」「反日(1の続き、4の〈二つの反日処刑〉、5の〈爆風の現在〉と関連)」「訂正(2の続き、前項の続き)」「裁判所は裁判所(職員の偽証)を裁けるか(2の〈瞬間〉、3の〈発生の時間域〉と関連)」「神の後姿(1の〈オーパーツ〉、5の〈スピット処理に交差するモアレ〉と関連)」「母子サルのゲリラ戦(2の序文、〈メニュー〉、5の〈ゲームの不可能性〉と関連)」「表現としての数式(4の〈関係としての指数・対数性〉、5の〈幻想性と級数展開〉と関連)」「なぜ〈69〉年を基軸にするか(1の〈大学闘争〉、〈全共闘〉、その他6までの全ての項目と関連)」(~92年3月~)
【概念集・8[表現過程としての医療空間]】—「表現過程としての医療空間(序文の位相で)」「医療方法と身体感覚」「病院と他の空間の比較」「チューブ状の身体」「手術=さめたあとの夢」「〈わるいもの〉概念の変換」「老人医療への救急医療」「排泄処理」「食事メニュー」「メデュトピア—新しい医療のヴィジョン—」「屋上からの光景」「一人は万人のために 万人は一人のために」「入院中の各テーマの展開」「あとがき」(~92年11月~)
【概念集・9】—「表現の重心—序文の位相で—」「既刊表現の総体と今後の表現プラン」「上告趣意書作成段階のテーマ」「上告を棄却する文体の解体は可能か」「権力の時間把握を転倒するために」「執行抗告~即時抗告~訴訟費用免除申立」「なぜ裁判にかかわるか」「『ワードマップ 現代建築』を読んで問い合わせて下さった読者の方々へ」「宮内康氏を追悼するためのレジュメ(序)」「おふでさき小論」「居住と住居」「奇妙な論理—疑似科学批判の批判—」「断筆宣言を断念して断固かき続けよ!」「あとがき」(~93年11月~)
【概念集・10】—「序文」「公園は何の喩か」「河川敷・身体・空間」「ふしぎな機縁から出会っている人々へ」「ナターシャさん母子の行方」「プロナタル・アンチナタル」「出会った人々からの問いかけ」「選挙制度の改革・原論」「再び、公園は何の喩か」「あとがき」(~94年3月~)
【概念集・11】—「楔」「住居論からの遠征」「プロジェクト『猪』御中」「追悼表現としての人間・関係論」「楽しみながら勝利した解雇撤回闘争」「ナターシャさん母子の行方と面会に関する提起」「反日への先制的報復裁判への対峙」「反ユダヤ論の陥穽…」「トライポロジー」「時間論・序」「後記」(~94年12月~)
【概念集・12[六甲大地震に関連して]】—「序文—予測と啓示—」「バリケード(概念集1との関連で)」「監獄(概念集1との関連で)」「メニュー(概念集2との関連で)」「技術(概念集2との関連で)」「韻律と響き(概念集3との関連で)」「夢屑(概念集4との関連で)」「幻想性と級数展開(概念集5との関連で)」「法廷・続(概念集6との関連で)」「参考資料・ナターシャさんへの手紙」「参考資料・ナターシャさんからの手紙」「なぜ概念集シリーズを基軸として地震を論じるか(概念集7との関連で)」「排泄処理(概念集8との関連で)」「居住とライフライン(概念集9との関連で)」「公園・オープンスペース(概念集10との関連で)」「散乱のエントロピー(概念集11との関連で)」「ボランティア(概念集12との関連で)」「あとがき」(~95年3月~)
【概念集・別冊1~オウム情況論~】—「序文」「死者の数」「死者の数(続)」「地震とサリンが描く楕円」「オウムを論じるための前提」「オウム裁判を真に開始するために」「弁護の不可能性」「早川紀代秀氏への手紙」「大森勝久氏のオウム論について」「幻想占拠の萌芽」「選挙公報の中のオウム」「真実と虚偽の関係(仮装の本質について)」「オウムがもたらした概念の位置」「世界の作品化から見たオウム」「一篇の詩を生むためには…」「オウム以後のガケ崩れ」「あとがき」(~95年10月~)
【概念集・別冊2~ラセン情況論~前半】—「序文」「地震に関する集会で」「地下鉄サリン事件の一周年に」「オウム裁判の限界」「麻原氏に対する第1回公判について」「極東軍事裁判の現情況的意味」「オウムと全共闘」「批評のルールとは何か」【概念集・別冊2~ラセン情況論~後半】「TBSは間違っていない」「戦争と日常とダイオキシン」「インターネット概念の解体と再生のために」「ドゥルーズへの非追悼的追悼」「ユナボマーの孤独な闘い」「あとがき」「付録」(~96年5月~)
*【序文とあとがきから見た既刊パンフのリスト 1】   (~93年1月~)
*【     (同)             2】   (~95年1月~)
*【概念集シリーズへの索引と註】            (~96年1月~)
*【概念集シリーズへの補充資料】            (~96年1月~)
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