2008-05-25
■ 擬似科学批判の批判
概念集9から「奇妙な論理 ー擬似科学批判の批判ー」というのをUPしました。
http://666999.info/matu/data/gai95.html#hihanhihan
最近、はてな界隈で、「水伝(水からの伝言)」*1批判、911陰謀論(911をプロデュースしたのは米国自身説)批判などがもりあがっており、そういった批判をまた批判しようとするエントリーもある。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20080515/p1
mojimojiさんの上記以下のいくつかの文章がそれだ。
でそれに刺激を受け、参考までにUPしてみた。
ところで、わたしはmojimojiさんの別のブログで少しまえ、次のようにコメントした。
2008年05月15日(木) 午前0時39分
野原燐です。ごぶさたしております。
>>>アメリカがイラクやアフガニスタンを攻撃したあの理由こそトンデモの極みだろうし、
そのとおりだと思います。かってはともかく今、その大義を本気で信じている日本人はいません。にも関わらず「トンデモの極み」とまでは絶対にいかないわけで、せいざいやんわり皮肉をいう程度。マスコミだけでなくいわゆる良識人というのはみんなそうですね。
反歴史修正主義の論争家諸君は(わたしはもちろん多くの点で尊敬しているわけですが)、論争に付いて禁欲的抑制的なルールを採用します。そのことにより処置なしと思われていたネット右翼との論争に勝つことができるようになった。これは非常に大きな一歩です。
しかし複雑怪奇な現代史の全体を相手にするには実証主義的な方法では扱い得ない多くの問題があると思います。相手だけではなく自分もとらわれている可能性の強い偏見(オリエンタリズムとか)をまず控除しなければ出発点にたてないといった問題とか。
mojimojiさんの考察を期待しています。
トンデモとは何か?は意外と難しい問題でちょっと考えなければいけないですが、まだできていません。
松下では別に、大田龍の反ユダヤ論を批判した「反ユダヤ論の陥穿…」G11-21もあるから、これもUPしたい。
*1:「水に言葉をかけると結晶の形がその言葉に影響されると主張しており、一般には疑似宗教書とされるにもかかわらず、道徳教育に使われるなど社会的影響が大きく、話題となっている。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%80
2008-05-18
■ 達成のための自己肯定
今日はパレスチナの集会に行きました。その後友人とビール。
帰りに駅中の小さな本屋で雑誌を見ていたら、みわよしこさんの文章があった。パソコンやプログラミングとは直接関係のない、例えば分厚い本をどうしても読まなければならないときにどうしたらよいかを丁寧に解説していた。
ひとつは、本を自分で(スキャナとかで)好きな形に再編集し印刷し書き込み勉強などをしやすくするという工夫。
わたしは松下概念集をせっせとネットにUPしている(これでも「せっせ」と?)ので、もうすぐ分量が溜れば、自分の好きな項目だけダウンロードし自分だけの本を作ってほしい、各自が勝手にと思っていた。そのような発想に近いので興味深かった。
小さな達成を自分できちんと褒めてあげる、といったことが、やる気がなくなるのを防ぐのに効果的、とあった。
概念集の項目をUPしようと決めながらなかなか捗(はかど)らないわたしにとって、(初歩的方法のようで恥ずかしくもあるが)大事なことだと思った。
とここまでが、前置き。概念集・8については3/11にテキスト部分全部のUPが終わりながら、その後裏面(画像)のUPが遅れていましたが今日やっとUPできました。
よかった!
と素直に自己肯定しておきたい。
(まだ要訂正点はあるが)
概念集8、入院体験を「表現過程としての医療空間」というタイトルの冊子にまとめた松下の方法とは、いかなるものかを、簡単にまとめてみたい。
・・・
2008-05-10
■ スタイルシートを導入
先日、表示スタイルを真っ赤なゴシックレッドから少しおとなしめのゴシックピンクに変更。
5/10
css スタイルシートを導入し、行間を180%にすることにした。
背景色は 薄い水色。
訂正したファイルは、ゲーム、医療 インターネット。まだ3つ。
この3つについても、医療は各行ごとに改行が入り等福フォントにしているが、ゲームは各行ごとに改行は入れていない、など、ファイルごとといって良いほど差異がある。どうもいいかげんな性格で申し訳ないが、当面は統一より、テキストを増やすことを重視してやっていきたい。その割に増えていないが。
表示スタイルを決めるのに、元のパンフ(B4版横長、縦書き約40字×約35行)に近づけるべきだという発想がある。 この場合、各行ごとに改行が入り等福フォント、地は白、行間は約200%になる。
一方、1行の文章は一まとまりにまとまっている方が見やすい、1、2、3といった風に列挙されている場合はそれぞれ改行の次に空白行を入れ独立性を強調する。といった発想もある。もちろんそれ以外にもいろいろなデザインが可能だろう。いままで曲がりなりにサイト公開もしてきたのですがデザインについて考えたことがなかった。
医療のファイルは前者の発想によるので行間180%でよいが、ゲームなどは後者の発想を取り入れているので行間を狭めるべきと考えた。
今日初めてcssファイルを作ったわけだが、二つめを作成してみよう。ついでにハテナグループに合わせて地もピンクにしてみようか。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
body {
line-height:180%;
background-color: rgb(229, 251, 255);
color: rgb(11, 11, 0);}
上のようなcssファイルを作成。
それを各htmlファイルから、
<link rel="stylesheet" type="text/css" href="gyo1.css">
このように記して呼び出して使用する。
(上の3つの性質については一度に変更できるようになった。)
■ 「技術」とドルゥーズと
ところで、概念集の技術の項目が前半だけだったので、後半も補充した。
「〈 〉闘争の過程で出会い、作りだしてきた概念が当面の主要な要素を占める」というフレーズを改めて確認する。概念……内在平面……、といった連想が働く。松下は私たちと違って幾分かドゥルーズ的な発想をもっていたといえよう。
ドゥルーズの「哲学的概念」という短い文からちょっと引用してみよう。
「大哲学者たちが主体について書いたことは、まったく失効していない。」しかし・・・
「われわれは、問題を変形し新しい概念形成を要請する力を発見するような仕方で、これらの概念が答えになるような問いの領域に直面しなければならない。」
単数=特異化・・・接続が可能になるような仕方で、他者の隣りにまで拡張しうる・・・配備、配置・・・ある生、ある季節、ある風、ある闘い・・・
ところでわたしは「批評概念を変換し…」の一部を読もうとしていたのでした。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/hihyo.html#hihyo
フレーズの出発点は「批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」である。
自己なり運動主体なりはほどけてしまわないように常に何かを排除しつづけているものだ、それにより同一性を保っているのだが、同一性は自明とされ何かの排除は忘却される。これは倫理的に指弾できることではなく不可避のことだ。といった世界観が前提とされているように思う。
同一性に対する異和はここでは「批評の根拠ないし原初形態」と名ざされている。
「一瞬ごとの呼吸や排泄」は身体が存続するための不可欠なしかし当たり前であるから異常時(病気)以外には意識に登ることがない現象である。しかし自己同一性を脱構築する契機を待ち構えている場合にはそれは容易に発見できるし、それを 「その動きや方向の無意識性の対象化」 をしていくことも可能である。
2008-05-06
■ 一瞬ごとの呼吸や排泄=批評の根拠ないし原初形態
……一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分でやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現しているのであり、その動きや方向の無意識性の対象化こそが各主体にとって不可避の課題であるということ……
創作や政治行為のような自覚的行為ではなく、呼吸や排泄のような無自覚な行為が唐突にここにでてくる。
「批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」
フーコーの権力論を「権力のあるところに抵抗がある」を思い出してもよい。「自覚的主張に対してそれと無関係にそれを支えているもの(例 呼吸や排泄のような身体的行為)があらかじめある」対象化が難しい後者の動きや方向こそを計量し自覚化しなければならない、というのが松下の発想だった。
権力/抵抗 に対し 主張/批評 かな。いや松下は主張という言葉は使わない。かなり違うことは踏まえながらもヒントにはなる。というのは従来、権力/抵抗の左項だけを考察することで世界を語り得るとしてきたが(そしてそれは不可能ではないのだが)それでは不十分であり、左項と一体になりつつ別の色合いを持つ右の項をむしろそちらを重点的に考察(生きる)べきだという直観において共通する点があると思う。
プロテストという言葉にも異和があるといっていた。
「というのは、私は自分のやってきていることがプロテストであるとは一度も考えていなかったからである。」
「むしろ、私は迫ってくる問題群を楽しく再構成する素材として歓迎してきたし、敵対するように見える関係や人々があっても、それらの関係や人々が私の扱いに堪りかねてもうやめてくれとプロテスト!するほどに、〈作品〉の対等の登場人物ないし作者として対処してきている。私は前記の筆者に比べて〈悪霊〉に満ちているのかと・・・」(G4-20)
大学闘争といった巨大な運動を「自分たちのやってきたことはプロテスト以外のなにものでもなかった」と総括した友人に対する異和と述べられている。例えば大学闘争といった運動に対し、革命とかプロテストとかいった言葉で理解するのか。それとも一歩引いた人間喜劇として文学的に理解するのか。松下の場合、作品という言葉を使っているので後者のように思えるが、そうではなく人間喜劇(バルザック)からはるかに遡った神聖喜劇(ダンテ)に近いと思われる。もちろん神曲を支えるのはダンテの神学である、松下は松下の神学を持っていたそれは結局自己をキリスト(いやそれどころか神)とする究極のナルシズムではないのか、といった疑問も生じよう。しかしそういう人にはそれではあなたの神学は何か、と反問しよう。神学について定見のない日本人はすべて国家あるいは天皇を神としている希薄な日本主義者でしかないのではないか。
いずれにしても反対運動を考えるときに〈作品〉という言葉を使わざるをえなかったのが松下昇である。
しかし、この未来からの記憶群は、過去の闘争を頂点とするピラミッドの内部にも、広々と存在していたはずである。たとえば、国会広場に突入した〈私〉たちは死者のでたことを聞いて怒りの叫びを上げながらも、無意識のうちに横の破損された建物に入りこみ、水道の蛇口から水を飲み、ほぼ同量の小便を壁にかけ、ポケットの溶けかかったキャラメルをしゃぶり、タバコに火をつけて平和を味わっていたのである。*1そして、欲望の空間に舞う妖精たちに追放をかけ、倒錯した現代史を転覆して火を放っていた。〈私〉たちと状況のこのような関係から〈私〉たちは歩きださなければならない。
(六甲・序章 より)
主張や抗議というものをそれ自体として考察せず、一見それと無関係であるかのような、呼吸や排泄のようなに身体的行為、を含んだ広々としたピラミッド(空間)として考察すべきだとする松下の現体験が描写されている。
ここで描写されているのは戦後史の特権的時間として記憶されている1960.6.15である。死者とは不謹慎ないい方になるがこの後国民的アイドルになる樺美智子であり実は松下とは近い距離に存在した友人どうし*2であったらしい。
リアルな政治的主体が主張する安保反対という強い政治的ベクトルと、一人の同世代の異性(ダンテとの関連においていうなら可能性としての恋人)を死によって奪われたという個人的宗教的悲嘆というベクトル、このふたつのベクトルによって強く引き裂かれていたのが、この「6・15の夜」である。
政治と文学と言っても良いこの引き裂かれを、夜として文学的に表現してしまうのではなく、空間=未来からの記憶群が存在する広々としたピラミッドの内部として松下は把握する。
そのために必要であったのが、
〈水を飲み、小便し、煙草を吸う〉という身体行為を〈批評〉という第三のベクトルとして発見する、ことにより松下は、現実を政治と文学というステロタイプな平版さではなく、少なくとも3次元はあるところの空間=ピラミッドとして把握していく方法を掴み取ったのだ。
2008-05-04
■ モアレによる世界
「スピット処理に交差するモアレ」をUPしました。
http://666999.info/matu/data/game509.html#spit
モアレとは何か?
モアレまたはモワレ (仏語moiréから)は干渉縞ともいい、規則正しい繰り返し模様を複数重ね合わせた時に、それらの周期のずれにより視覚的に発生する縞模様のことである。
参考1:モアレ・シュミレータ
http://www1.ttcn.ne.jp/~a-nishi/applet/moire4.html
・平行線1/平行線2/放射状直線/同心円/三角形/六角形の六種類の図形を
○平行移動(Translation)○回転(Rotation)○拡大縮小(Scaling)することによりさまざまなモアレを楽しむことができる。
参考2:モアレ舘
この20年間で情報社会化デジタル化が急速に進んだわけです。例えば画像は画素とよばれる縦横に周期的に配置した点の集積として存在する。(画素=pic+cellであり、松下氏のテキストではそのとおり記されているが、いまはpixelと記すのが普通)印刷された画像もほとんど網点印刷によるものになっている。(網点=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E7%82%B9)いまや何かするときに気づかずにデジタルデータをデジタル加工していることが多い。そのときには必ずといってよいほど、モアレが出現する可能性がある。
これを素人の視点(ヌード写真をきれいに加工したい)から分かり易く解説しているページがここ。
http://www2r.biglobe.ne.jp/~TSUKI/FFT.html
モアレを2次元フーリエ変換により除去する方法について考察している。http://www2r.biglobe.ne.jp/~TSUKI/uty/byteserver.cgi?../tmsr/tmsr017c.pdf
SPIT処理とは?
Starbust Piccell Interleaving Technic の略SPITとある。
下記のサイトではグレック・モレナー&ヴィンセント・ディピエトロが開発した方法は、Starburst Pixel Interleaving Techniqueとされ ちょっと綴りが違っている。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/2409137.html
火星の人面岩については、ウィキペディアの項目にもなっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E6%98%9F%E3%81%AE%E4%BA%BA%E9%9D%A2%E5%B2%A9
1976年7月25日、NASAのバイキング1号が撮影した火星表面の写真 に対して、
2001年に発表されたマーズ・グローバル・サーベイヤーによる写真では、そこに何かがあるようには見えるものの衝撃力は弱まっている。
雑誌「ムー」などが得意とするこのような超常現象の記事に松下は肯定的にコミットする。この点については野原も距離を感じます。
ただ宇宙のことなど知りもしない(知ろうともしていない)のに、大学の学者が否定しているからという理由でこのような記事を否定する、わたしたちはそういうふうに判断してしまうがそれが正しいのかと松下は問い、否と答えたのであろう。
実際わたしたちの「常識」には再考の余地があるものがたくさんある。例えば、志賀島の金印や聖徳太子の偉大さなど。
他の天体の文明の存在の可能性について全否定する必要はないが、実際問題無視してもよいほどその可能性は低いとわたしは考える。それなしでももうひとつの世界は十分可能であろう。
http://d.hatena.ne.jp/raurublock/20080522/1211468319#c1211625117
辺境のこのブログへの書き込みありがとう。 ただ、正直、書き込みの意図がよく分かりませんでした。
わたしはmojimojiさんの「アメリカがイラクやアフガニスタンを攻撃したあの理由こそトンデモの極みだろうし、」発言に共感したのですが、これはまあ大げさにいえば米国の同盟国である日本人にとって他人事ではありません。またApemanさんたちが熱心に取り組んでおられる南京大虐殺などの問題も過去の問題でありながらそう言い捨てられないアクテュアルな問題であり続けています。それに対し、「自分達のテリトリーがあって、」とまず感じてしまう感じ方ってどういうものなのか、良く分かりません。
ライヒやドストエフスキーをもってきての松下のトンデモ擁護は残念ながらそれほど説得力を感じませんでした。雑誌「ムー」的な幼稚でばかにされやすいトンデモに対して、松下氏は親和的、少なくとも直ちに否定しないところがあって、友人の過半は困惑していました。例、 http://666999.info/matu/data/game509.html#spit
・・・
であるとしても、現在の科学=真実は例えば、原発の安全性といった宣伝と一体になっている面があるというだけでも批判の余地があるのは確かです。なにより、大衆がトンデモに惹かれる気持ちといった目に見えないものに感応してしまう松下の感受性は、面白いと思います。
多くの疑似科学批判は、事実としての知識や教養の偏在を前提にし、それが変更できるものだとも変更すべきものだとも考えていないですよね。そういうところにポイントがあるんだろうと思っています。