松下昇~〈 〉闘争資料

2008-05-10

技術」とドルゥーズと

ところで、概念集の技術の項目が前半だけだったので、後半も補充した。

「〈 〉闘争の過程で出会い、作りだしてきた概念が当面の主要な要素を占める」というフレーズを改めて確認する。概念……内在平面……、といった連想が働く。松下は私たちと違って幾分かドゥルーズ的な発想をもっていたといえよう。

ドゥルーズの「哲学的概念」という短い文からちょっと引用してみよう。

「大哲学者たちが主体について書いたことは、まったく失効していない。」しかし・・・

「われわれは、問題を変形し新しい概念形成を要請する力を発見するような仕方で、これらの概念が答えになるような問いの領域に直面しなければならない。」

単数=特異化・・・接続が可能になるような仕方で、他者の隣りにまで拡張しうる・・・配備、配置・・・ある生、ある季節、ある風、ある闘い・・・


ところでわたしは「批評概念を変換し…」の一部を読もうとしていたのでした。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/hihyo.html#hihyo

フレーズの出発点は「批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」である。

自己なり運動主体なりはほどけてしまわないように常に何かを排除しつづけているものだ、それにより同一性を保っているのだが、同一性は自明とされ何かの排除は忘却される。これは倫理的に指弾できることではなく不可避のことだ。といった世界観が前提とされているように思う。

同一性に対する異和はここでは「批評の根拠ないし原初形態」と名ざされている。

「一瞬ごとの呼吸や排泄」は身体が存続するための不可欠なしかし当たり前であるから異常時(病気)以外には意識に登ることがない現象である。しかし自己同一性を脱構築する契機を待ち構えている場合にはそれは容易に発見できるし、それを 「その動きや方向の無意識性の対象化」 をしていくことも可能である。