参 考画像(火星の人面像) | |
スピット処理は、Starbust Piccell
Interleaving Technic
の略語で、宇宙船から星の表面を撮影した場合に、普通は電送された資料をコンピュータでデジタル解析するが、これでは不明瞭なことが多いために考案され
た、電送写真の画素(ピクセル)の微小なマス目を更に細分化し、画素と画素の間の明暗差を調整することにより、画像の鮮明度を高める方法である。 モアレは、二種類以上の異なるリズムパターン(波形、模様など)が重なると発生する第三のパターンの現象で、例えば窓のブラインドにTVカメラを向ける と、ブラインドの横線とTVの走査線の複合作用によって、画面に揺れ動く何本もの帯の画像を映し出す。その他に、紙に書いた簡単な図形の複合によっても発 生することがある。(12ページのグラフ参照) 一九七六年七月二〇日、無人宇宙船ヴァイキング一号は、火星から最短距離六千キロの軌道を回りつつ撮影した写真をNASAへ電送してきたが、その中に巨 大な人間の顔を連想させる岩状のものが写っていた。記者会見では光と影のトリックとして説明され、無視されたままであった一枚の写真を、公開されたファイ ルから二年後に再発見した二人の非公務員の技術者(ディピートロとモーレナー)が開発したのがスピット処理である。二人は、この方法で傘てのデータを再 チェックすることによって、宇宙船が同じ対象を別の時間に別の角度から撮影した、もう一枚の写真を発見し、二枚の写真を立体的に分析することによって、こ れまで影になって判らなかった部分を補充すると、幅一・六キロで左右対称な、自然にできたとは確率的にも考えられない精巧な〈顔〉であること及び付近に密 集するピラミッド群(最大のものは高さIキロ)が存在することを証明した。しかし、現在までアメリカ政府や地球上の秩序内宇宙科学者たちや公認知識人ら は、これを議論するのを避けている。地球上の権力に公認された科学ないし常識から逸脱する者の見た白昼夢としての〈モアレ〉だといって自らの安定感を守り 続けたいのであろう。 たしかに、スピット処理の対象である火星は最も接近した場合でも五千万キロ以上の彼方にあり、〈人面像〉などの存在証明は電波の解析の主観性と、すでに 地球にあるスフィンクスやピラミッドからの類推が重なって〈モアレ〉現象を起こしている可能性はないとはいえないが、これに対しては、政府の公開資料を任 意の大衆が政府の研究機関を対等に利用してスピット処理しても同質の結果が出る可能性から原理的に否定しうる。また火星の表面を撮影した多くの写真の中で ピラミッド群の周辺にのみ蜂の巣状の構築物が見えるのは、高度の均一的構成をもつ住居群がモアレとして現象している可能性を導いており、これまでの資料公 開のレベルではこれを否定しえない。つまり、資料と技術を本質的に用いれば、人面像の存在に否定的立場の者こそが錯誤としての〈モアレ〉に陥っていること が開示されるにちがいないのである。この項目の記述にはR・C・ホーグランドの「火星〈人面〉像の謎」 (87年、並木伸一郎訳は90年)が役立ったこと を付記する。 さらに、この引用的テーマを私たちの交差する具体的テーマの広がりにおいて把握しなおす場合、次の二点に言及しておきたいと考える。 一つは、吉本隆明の『ハイ・イメージ論』(雑誌掲載は86年〜87年)における「世界視線」や「無限遠点」の提起を、その意味の展開〜飛躍のためにも、 前記の事実経過の内包あるいは外包する問題との関連において考察する必要性である。とりわけ、吉本が、人工衛星ランドサットから地球(というより地表)の 都市や古代史跡を二百〜九百キロの高さから撮影した映像資料によって論議する時の視線のベクトルを、地球以外の天体にも反転してみることによる諸概念の検 討が不可欠であろう。例えば、任意の大衆の一人が「無限遠点」から地表を見る視線を獲得すれば、ランドサットの高度に象徴される米ソの国家権力(の視線) を超えうる、という吉本の発想が、任意の人間は記憶にないほど以前から任意の天体を無限遠点から見てきており、現在は米ソの国家権力によって〈火星〉の地 表から六千キロ離れた位置からの資料に視線を拘束されている事実から発する視線にどのように交差するか、ということである。また、ベクトルの反転でいえ ば、地球から天体への反転を対等に包括することの他にも強調すべきことがある。日常的な三次元の視線に高度の上方からの視線を加えた四次元(ないし多次 元)の世界視線、という吉本の発想は、何重にも抑圧された下(ないし内部)からの視線を対等に包括して初めて世界視線を(映像の死や、映像の時間の遡行を 合めて)論じる前提をもちうるであろう。 言及したいもう一つは、写真技術や映像に関するソフトな議論と対等なハードな問題としての宇宙考古学ないし宇宙生物学の対象と方法である。あえていえ ば、この対象と方法を基軸の一つにしえない発想は現情況に本当には迫りえない。日本の正統的な論壇は勿論これにあてはまるし、文壇の諸作品も、発表すれば 文学的〜社会的生命(まして生理的生命)を危険にさらすほどのものは構想されていない。これは世界的な傾向であり、むしろ自然科学者のうち異端的周辺に近 い部分に徴かな可能性が見える。アフリカで生まれ、動物学〜生物学〜心理学などの実践的研究者であるL・ワトスンの『スーパーネイチュア』(原題の直訳は 〈超自然的なものの自然史〉73年、牧野訳は74年)は、地球のみならず宇宙的規模における自然のリズムが生命活動に対して超自然的と見える影響を与えて いる事実を多様な具体例によって開示している。方法としても、前記の著書が〈宇宙・物質・心・時間〉という四つの領域で構成されていることにも現われてい るように、これまでの各専門ジャンルの枠を消滅させる可能性を秘めている。特に第四部・時間の最後の章が〈宇宙生物学〉であることは象徴的である。かれが 著書の総体において、ためらいの湾曲を潜ってではあるが、生命の起源が地球外にあり、たんに意識的〜幻想的な映像ではない超歴史的事実としての他の天体の 文明の存在の可能性を前提として論述してきたことが、この最後の章で明確になる。そうだ、それでいい。それはすでに六九年のバリケードの中でも予知し、共 通感覚となっていたことの部分的追認といってもいい。この部分性の確認と反転をこの項目のテーマと交差させつつ展開することが、現在の情況を〈スピット処 理〉し公認された既成文明の〈モアレ現象〉の根源を解体していくためにも要請されている。 |
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『概念集・5 〜1991・7〜』 p12-13 参考:野原によるモアレ、SPIT処理に付いてのリンクなど |