ゲームの(不)可能性       

 九一年四月一七日のソ達のゴルバチョフ大統領による日本 の国会での演説の中に次の一節がある。
 「第二次世界大戦は全く別の世界で起こり、実施されたのであり、その世界自体がその考え方、決まり、『ゲームのルール』と共に過去のものとなっていま す。(中略)今日、過去の記憶によって考えるのは歴史家の領分です。政治家の領分は、当時異なる陣営に属して交戦した両国が今後二度と互いを『敵』『勝 者』『敗者』のカテゴリーに入れて見ないようにすることを促進することです。」 (毎日新聞91年4月17日、朝刊)

 この演説草稿はゴルバチョフ個人によってではなく、かれを含む首脳によって作成〜検討されているであろうが、いくつかの問題点を無意識のうちに露呈させ ている。ソ通の体制的な政治家たちも、演説をたんなるセレモニーとして拍手で聞き流した日本の政治家たちも、自らがゲームの駒にすぎないこと、またそれ以 上に一人一人の大衆や死者をゲームの駒として扱ってきたことと、これからも扱っていくであろうことを確認したのである。しかし、ここで論じたいのは、むし ろソ通の指導者が演説で〈ゲーム〉理論?を語るようになる第二次世界大戦以来の情況の変化と意味である。ゴルバチョフらも、拍手して聞いた日本の国会議員 らも何かの形で第二次世界大戦に関わっていたはずであるが、かれらは関わっている過程においては戦争をゲームであるとは決して考えていな かったであろう。今でも内心ではそうである可能性の方が大きいが、ともかくゲームであったと宣言し承認する儀式が、今後の世界政治をゲームとして展開する 相互確認のためにこそ必要だったのである。

 ゲームの概念について、もう少し厳密に考えてみると、その最低限の特性は、
(1)ゲームをする者(プレイヤー)が相互にゲームをしていると意識している。
(2)共通の規則(ルール)に従う。
(3)利害や損失を量的に計算し、比較する。
というようにいえるであろう。これらの特性のどれか一つを当事者が無視するか逸脱すれば、もはやゲームは崩壊する。前記の、それなりにしたたかな政治家た ちが、このことを知らないはずはない。そうだとすれば、かれらは、自らのゲームの無視ないし解体を許容しない巨大な現実的な力の働く場でゲームを論じてい ると考える他ない。その場ではゲームのプレイヤーは単独者ではなく国家であり、ルールは改変可能であるにしても現在の世界秩序を支えている発想に基づくも のであり、利害は支配層の利害に基づいて量的に計算される。かれら政治家たちは、現在の世界情況を乗り切るためにはこのレベルのゲームが必要であり、この レベルのゲームに反する主体や社会的勢力や国家は排除しようと意志一致しているのだ。イラクを焦点とする湾岸危機なるものの本質はここにあったし、これか らも類似の事態は世界のさまざまな場で具体化するだろう。


 自らの行為が簡単にゲーム性をもちえないことは、だれもが日々実感していることである。だからこそ明確に公認された遊びとしてのゲームにのめりこんでい るといってもよい位だ。この意味では六〇年代末以降の大学闘争の特性は、未だかつてなかったほどの非ゲーム性といいきることができる。ただし、この未だか つてなかったほどの非ゲーム性は、同時に未だかつてなかったほどのゲーム性を帯びてもいるのだ。例示は省略するが、このいいかたで何かを一瞬に了解できる 人は、前記の闘争を潜ってきた人か、これから同質の闘争を潜りうる人である。闘争であるかどうかはともかくとして、政治党派の内ゲバや家庭内暴力といわれ る現象は、そして裁判提訴の少数例も、ゲームの特性を無視ないし逸脱している点で国家によるゲームよりラディカルであるとはいえ、自らの行為の非ゲーム性 を意識化しつつ、国家によるゲームを乗り越えていこうとしない限り自滅するのは確実であろう。そのために有効な方法として、次のような試みを構想したい。

 (A)自分の関わるさまざまな行為を一たんある種のゲームとみなし、ルールや得点計算の方法を作ってみる。それがどうしても困難に見える場合には、その 理由を考える。
 (B)前項を他の人や集団について拡大しつつ、総体の構造に迫ってみる。この時、現代数学のゲームの理論を批判的に参考にする必要もあるだろう。
 (C)前二項の作業の過程で自分の目指すゲームの困難さ〜不可能性を方法化し、逆用して国家レベルのゲームの不可能性を実現していくことは不可能とは限 らない。


 (A)はそれぞれが一つの〈作品〉の、(C)はそれぞれが一つの〈革命〉の萌芽になりうるので、別の場で展開することにし、ここでは(B)についてのみ いくらか記す。
 すでに一七世紀のフランスで賭金の分配方法を契機としてパスカルが確率論の基礎を作ったように、二十世紀の資本主義の経済政策と核戦略を契機ないし促進 要因としてゲームの理論が出現しているのは特徴的である。ハンガリーに生まれ、アメリカに渡り、現代数学としてのゲームの理論を提起したフォン・ノイマン はアメリカの原子力政策の最高顧問でもあったが、パスカルが晩年に(賭として!)宗教に帰依したようには自らの理論の跳躍によって何かに帰依した形跡は少 なくとも公表されていない。しかし、もしもかれが偏差した方向からであるにしても幻想の関係の極限を追跡した人であるならば、自らの開発した理論の限界を予感していたであろう。例えば次のように…

 ゲームの理論において、プレイヤー(P)や戦略(S)の数を固定化し、利益(M)をSの関数として数式化し、人間は常に損失を最小限にとどめようとする ものだと前提する推論は、いかに形式的に正確な行列式(matrix)を駆使しようとも、必ず自らの論理自体によって解体するであろう。この解体を押し進 める作業を未知の〈ゲーム〉として展開する主体や戦略はどこにあるか、自分とかれらの数学性を超える均衡点はどのように計算いや到達可能か、この望みの交 換条件は何か、それはすでに判っている気もするのだが今は言葉にならない、だれか表現してほしい、だれか…


註-ゴルバチョフの来日に際して、日本政府は「北方領土」であるとする千島(特にクナシリ、エトロフ)の返還を要求し、既成の政党(特に共産党)は、中産 階級化?した大多数の日本国民の声を背景に政府の強硬な交渉を望んだ。これに対してゴルバチョフは現在の千島占領を日本資本主義から金を引きだし、投資さ せる取引材料として活用しつつ、返還を馬の鼻先にぶら下げたニンジンのように扱っている。アメリカや中国などもこの駆け引きを、日本のものは日本に返せ、 という観点で見守りつつ、自国に有利な機会を待っている。これら全ての立場は、国家を前提とし、アイヌ民族への長い弾圧の歴史を肯定する場合にのみ成り立 つゲームに参加していることを示しているのである。

 しかし、千島を含むアイヌモシリは(たんにアイヌ人が住んできた土地という以上に前記のゲームを拒否する本質をもつ位相にある意味において)どのような 国家や資本にも属していない。この主張は、数世紀にわたって、特に一七八九年のクナシリ蜂起によって戦闘宣言として表現された。規模の大きさ、少数の和人 の共闘があった経過を含めて現在まで波及しているこの蜂起の意味は、同年のフランス革命よりも大きい。そのような把握によって、前記のゲーム参加者にゲー ムの不可能性を強いていく回路が見えてくるであろう。

 なお、この機会に戦闘をゲーム化することの危険性〜頽廃についても言及しておく。エレクトロニクス機器の技術的高度化に対応して、TVゲームで戦闘を テーマにするものが増加している。国際的に見て、この傾向に最も慎重なのがドイツであり、最も歯止めのないのが日本である。ここに、第二次世界大戦の総括 の仕方の差をみることもできるが、問題はもっと深く、日本人が他者(特に他民族)の苦痛に極めて鈍感であり、同時に他者の苦痛さえもゲーム化してしまう伝 統的資質にあるだろう。67年に南米ボリビアの山岳でゲリラ戦闘の末に戦死したゲバラの名をつけたゲームが数年前に出た時には茫然としてしまった。死後に 発表されたゲバラの日記を読めば、かれらが戦闘ばかりしていたのではなく、食料不足や農民の離反や病気、そして何よりも存在の深みに届く革命のヴィジョン の非在に苦しんでいたことは明白であり、〈ゲバラ〉をゲーム化するなら、これらの苦しみとその対極の解放の回路に関するプログラムを組んでみるべきであ る。案外、大ヒット商品になるかもしれないし、波及〜応用を怖れる当局が発売禁止してくれば、本当のゲリラ戦闘を開始すればよい。一緒にやってもよい。
     『概念集・5 〜1991・7〜』 p9-11 
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 スピット処理に交差するモアレ         

参 考画像(火星の人面像)   
 スピット処理は、Starbust Piccell Interleaving Technic の略語で、宇宙船から星の表面を撮影した場合に、普通は電送された資料をコンピュータでデジタル解析するが、これでは不明瞭なことが多いために考案され た、電送写真の画素(ピクセル)の微小なマス目を更に細分化し、画素と画素の間の明暗差を調整することにより、画像の鮮明度を高める方法である。
 モアレは、二種類以上の異なるリズムパターン(波形、模様など)が重なると発生する第三のパターンの現象で、例えば窓のブラインドにTVカメラを向ける と、ブラインドの横線とTVの走査線の複合作用によって、画面に揺れ動く何本もの帯の画像を映し出す。その他に、紙に書いた簡単な図形の複合によっても発 生することがある。(12ページのグラフ参照)
 一九七六年七月二〇日、無人宇宙船ヴァイキング一号は、火星から最短距離六千キロの軌道を回りつつ撮影した写真をNASAへ電送してきたが、その中に巨 大な人間の顔を連想させる岩状のものが写っていた。記者会見では光と影のトリックとして説明され、無視されたままであった一枚の写真を、公開されたファイ ルから二年後に再発見した二人の非公務員の技術者(ディピートロとモーレナー)が開発したのがスピット処理である。二人は、この方法で傘てのデータを再 チェックすることによって、宇宙船が同じ対象を別の時間に別の角度から撮影した、もう一枚の写真を発見し、二枚の写真を立体的に分析することによって、こ れまで影になって判らなかった部分を補充すると、幅一・六キロで左右対称な、自然にできたとは確率的にも考えられない精巧な〈顔〉であること及び付近に密 集するピラミッド群(最大のものは高さIキロ)が存在することを証明した。しかし、現在までアメリカ政府や地球上の秩序内宇宙科学者たちや公認知識人ら は、これを議論するのを避けている。地球上の権力に公認された科学ないし常識から逸脱する者の見た白昼夢としての〈モアレ〉だといって自らの安定感を守り 続けたいのであろう。
 たしかに、スピット処理の対象である火星は最も接近した場合でも五千万キロ以上の彼方にあり、〈人面像〉などの存在証明は電波の解析の主観性と、すでに 地球にあるスフィンクスやピラミッドからの類推が重なって〈モアレ〉現象を起こしている可能性はないとはいえないが、これに対しては、政府の公開資料を任 意の大衆が政府の研究機関を対等に利用してスピット処理しても同質の結果が出る可能性から原理的に否定しうる。また火星の表面を撮影した多くの写真の中で ピラミッド群の周辺にのみ蜂の巣状の構築物が見えるのは、高度の均一的構成をもつ住居群がモアレとして現象している可能性を導いており、これまでの資料公 開のレベルではこれを否定しえない。つまり、資料と技術を本質的に用いれば、人面像の存在に否定的立場の者こそが錯誤としての〈モアレ〉に陥っていること が開示されるにちがいないのである。この項目の記述にはR・C・ホーグランドの「火星〈人面〉像の謎」 (87年、並木伸一郎訳は90年)が役立ったこと を付記する。

 さらに、この引用的テーマを私たちの交差する具体的テーマの広がりにおいて把握しなおす場合、次の二点に言及しておきたいと考える。
 一つは、吉本隆明の『ハイ・イメージ論』(雑誌掲載は86年〜87年)における「世界視線」や「無限遠点」の提起を、その意味の展開〜飛躍のためにも、 前記の事実経過の内包あるいは外包する問題との関連において考察する必要性である。とりわけ、吉本が、人工衛星ランドサットから地球(というより地表)の 都市や古代史跡を二百〜九百キロの高さから撮影した映像資料によって論議する時の視線のベクトルを、地球以外の天体にも反転してみることによる諸概念の検 討が不可欠であろう。例えば、任意の大衆の一人が「無限遠点」から地表を見る視線を獲得すれば、ランドサットの高度に象徴される米ソの国家権力(の視線) を超えうる、という吉本の発想が、任意の人間は記憶にないほど以前から任意の天体を無限遠点から見てきており、現在は米ソの国家権力によって〈火星〉の地 表から六千キロ離れた位置からの資料に視線を拘束されている事実から発する視線にどのように交差するか、ということである。また、ベクトルの反転でいえ ば、地球から天体への反転を対等に包括することの他にも強調すべきことがある。日常的な三次元の視線に高度の上方からの視線を加えた四次元(ないし多次 元)の世界視線、という吉本の発想は、何重にも抑圧された下(ないし内部)からの視線を対等に包括して初めて世界視線を(映像の死や、映像の時間の遡行を 合めて)論じる前提をもちうるであろう。
 言及したいもう一つは、写真技術や映像に関するソフトな議論と対等なハードな問題としての宇宙考古学ないし宇宙生物学の対象と方法である。あえていえ ば、この対象と方法を基軸の一つにしえない発想は現情況に本当には迫りえない。日本の正統的な論壇は勿論これにあてはまるし、文壇の諸作品も、発表すれば 文学的〜社会的生命(まして生理的生命)を危険にさらすほどのものは構想されていない。これは世界的な傾向であり、むしろ自然科学者のうち異端的周辺に近 い部分に徴かな可能性が見える。アフリカで生まれ、動物学〜生物学〜心理学などの実践的研究者であるL・ワトスンの『スーパーネイチュア』(原題の直訳は 〈超自然的なものの自然史〉73年、牧野訳は74年)は、地球のみならず宇宙的規模における自然のリズムが生命活動に対して超自然的と見える影響を与えて いる事実を多様な具体例によって開示している。方法としても、前記の著書が〈宇宙・物質・心・時間〉という四つの領域で構成されていることにも現われてい るように、これまでの各専門ジャンルの枠を消滅させる可能性を秘めている。特に第四部・時間の最後の章が〈宇宙生物学〉であることは象徴的である。かれが 著書の総体において、ためらいの湾曲を潜ってではあるが、生命の起源が地球外にあり、たんに意識的〜幻想的な映像ではない超歴史的事実としての他の天体の 文明の存在の可能性を前提として論述してきたことが、この最後の章で明確になる。そうだ、それでいい。それはすでに六九年のバリケードの中でも予知し、共 通感覚となっていたことの部分的追認といってもいい。この部分性の確認と反転をこの項目のテーマと交差させつつ展開することが、現在の情況を〈スピット処 理〉し公認された既成文明の〈モアレ現象〉の根源を解体していくためにも要請されている。
  『概念集・5 〜1991・7〜』 p12-13    
参考:野原によるモアレ、SPIT処理に付いてのリンクなど
 
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