松下昇~〈 〉闘争資料

2008-05-06

一瞬ごとの呼吸や排泄=批評の根拠ないし原初形態

……一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分でやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現しているのであり、その動きや方向の無意識性の対象化こそが各主体にとって不可避の課題であるということ……

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創作や政治行為のような自覚的行為ではなく、呼吸や排泄のような無自覚な行為が唐突にここにでてくる。

「批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」

フーコーの権力論を「権力のあるところに抵抗がある」を思い出してもよい。「自覚的主張に対してそれと無関係にそれを支えているもの(例 呼吸や排泄のような身体的行為)があらかじめある」対象化が難しい後者の動きや方向こそを計量し自覚化しなければならない、というのが松下の発想だった。

権力/抵抗 に対し 主張/批評 かな。いや松下は主張という言葉は使わない。かなり違うことは踏まえながらもヒントにはなる。というのは従来、権力/抵抗の左項だけを考察することで世界を語り得るとしてきたが(そしてそれは不可能ではないのだが)それでは不十分であり、左項と一体になりつつ別の色合いを持つ右の項をむしろそちらを重点的に考察(生きる)べきだという直観において共通する点があると思う。

プロテストという言葉にも異和があるといっていた。

「というのは、私は自分のやってきていることがプロテストであるとは一度も考えていなかったからである。」

「むしろ、私は迫ってくる問題群を楽しく再構成する素材として歓迎してきたし、敵対するように見える関係や人々があっても、それらの関係や人々が私の扱いに堪りかねてもうやめてくれとプロテスト!するほどに、〈作品〉の対等の登場人物ないし作者として対処してきている。私は前記の筆者に比べて〈悪霊〉に満ちているのかと・・・」(G4-20)

大学闘争といった巨大な運動を「自分たちのやってきたことはプロテスト以外のなにものでもなかった」と総括した友人に対する異和と述べられている。例えば大学闘争といった運動に対し、革命とかプロテストとかいった言葉で理解するのか。それとも一歩引いた人間喜劇として文学的に理解するのか。松下の場合、作品という言葉を使っているので後者のように思えるが、そうではなく人間喜劇(バルザック)からはるかに遡った神聖喜劇(ダンテ)に近いと思われる。もちろん神曲を支えるのはダンテの神学である、松下は松下の神学を持っていたそれは結局自己をキリスト(いやそれどころか神)とする究極のナルシズムではないのか、といった疑問も生じよう。しかしそういう人にはそれではあなたの神学は何か、と反問しよう。神学について定見のない日本人はすべて国家あるいは天皇を神としている希薄な日本主義者でしかないのではないか。

いずれにしても反対運動を考えるときに〈作品〉という言葉を使わざるをえなかったのが松下昇である。


しかし、この未来からの記憶群は、過去の闘争を頂点とするピラミッドの内部にも、広々と存在していたはずである。たとえば、国会広場に突入した〈私〉たちは死者のでたことを聞いて怒りの叫びを上げながらも、無意識のうちに横の破損された建物に入りこみ、水道の蛇口から水を飲み、ほぼ同量の小便を壁にかけ、ポケットの溶けかかったキャラメルをしゃぶり、タバコに火をつけて平和を味わっていたのである。*1そして、欲望の空間に舞う妖精たちに追放をかけ、倒錯した現代史を転覆して火を放っていた。〈私〉たちと状況のこのような関係から〈私〉たちは歩きださなければならない。

(六甲・序章 より)

主張や抗議というものをそれ自体として考察せず、一見それと無関係であるかのような、呼吸や排泄のようなに身体的行為、を含んだ広々としたピラミッド(空間)として考察すべきだとする松下の現体験が描写されている。

ここで描写されているのは戦後史の特権的時間として記憶されている1960.6.15である。死者とは不謹慎ないい方になるがこの後国民的アイドルになる樺美智子であり実は松下とは近い距離に存在した友人どうし*2であったらしい。

リアルな政治的主体が主張する安保反対という強い政治的ベクトルと、一人の同世代の異性(ダンテとの関連においていうなら可能性としての恋人)を死によって奪われたという個人的宗教的悲嘆というベクトル、このふたつのベクトルによって強く引き裂かれていたのが、この「6・15の夜」である。

政治と文学と言っても良いこの引き裂かれを、夜として文学的に表現してしまうのではなく、空間=未来からの記憶群が存在する広々としたピラミッドの内部として松下は把握する。

そのために必要であったのが、

〈水を飲み、小便し、煙草を吸う〉という身体行為を〈批評〉という第三のベクトルとして発見する、ことにより松下は、現実を政治と文学というステロタイプな平版さではなく、少なくとも3次元はあるところの空間=ピラミッドとして把握していく方法を掴み取ったのだ。

*1:ピースという銘柄の煙草が松下は好きだったが彼だけではなくけっこう一般的な煙草だった。いまとなってはこれ「平和」が駄洒落であることを見逃す読者も多いと思うので蛇足まで。(野原)

*2:恋人はおろか友人といえるほどの関係ではなかったという話。こちらの方が本当。