2008-08-09
■ 時の楔通信<0>号→<15>号
三日前に、Yさんから <楔>のようなメールをもらった。
「インターネットで拝見しました。「刊行リスト」の47に「時の楔通信<0>号→<15>号」とありますが、全冊揃いで入手したいのですがどのような手続きをすればよろしい、のか御教示下さい。よろしくお願い致します。」というもの。
どう答えたらよいか?
その前にKさんから分厚い「書簡集・3」パンフを送付いただいた。
20年以上前、<85.2.1>〜<86.3.24>といった時期に十数人の大人たちがなにやら必死に活動していたわけだが、なんだったのか。わたしは局外者だったわけではなく、だれより熱心な参加者だったはずだ。わたしは何よりももう一人のNさんであったことは間違いない。体験を疎外せずにどのように語ることができるのか?
しかし昔もいまも、私はひどく遠くからしかそれらに付いて語ることができない。
せめてできるだけ正確に、自己とその回避について証言しよう、問われるならば。自らに対する審問情況を自らがつくり出していくことこそが君に問われているのだ、とか言われそうだが。
※14 {時の楔}の作業について,この感覚を少しずつのべてみよう。わずか数ヵ月という短い期間にしぼった<資料>群についてさえも,それらを集め,配列し,編集していく準備は大きい困難にぶつかる。一つ一つを確認し,コピーをとり,討論のための配布をおこなう経済的・労力的な重圧は,ここでは省くとしても,全くその存在さえ確認されないまま,ある力を及ぼしているもの,原本性の宙吊りのために複製不可能なもの……。
※15 そして,パンを得る日々の仕事の合間に,あるいはその仕事を放棄~中断して一定の作業をすすめたとして,何度もかすめる想いは,このように集め,配列し,コピーし,配布し……という過程が,n次元の渦を平面化し,既成事実化し,固定化していくことへの加担ではないか,という不安である。
松下の「概念集・1」を普通のエッセイ集でもあるかのように扱ってそれを電子テキスト化しインターネットで公開することがわたしがやろうとしたやりつつあることである。*1しかしその試みは上記の二つの不可能性を自らがくぐることと同時に行わなければならない。
なぜ資料なのか?占拠という言葉がヒントになろう。ある行為が刑事または民事の裁判を引き起こすかそれと同等のひんしゅくを買うとき、無言とうらはらに「表現」へのベクトルが加速され資料が大量に生産される。それが契機だ。一方で誰かがそれを暴力的に要約し価値づけるその要約の方が世間には影響力を持ってしまう。(例:有罪か無罪か){時の楔}は、そのような構造を批判〜転倒することを意図したものである。として概念集もまたそのとおりであるはずだ。松下が高密度に抽出したその結果の文章だけを味読しようとしても無意味である。
14に書かれていることは取り散らかった事実の破片を編集する労働量の過大さへの愚痴であり、15は編集行為によって意味を取りだし得たとしてその反面n次元の渦を平面化してしまうことへの怖れである。
大学闘争の課題が,言語の発生以来の諸領域はそれぞれの諸領域の区分ないし根拠の解体の水準でしか真に対象化しえないのではないか,という直感から出立していることをかみしめねばならない。(同上)
仕事=仕事 という自同律が 成立してしまう範囲が仕事領域であり、科学=科学 という自同律が 成立してしまう範囲が大学領域であること。
混乱にみちた複雑な現実をある図式に還元することで明確化しうるなら学問あるいは知は有効性を持つ。しかし実際にはそれに失敗しながらなお言説としての権利だけ主張しているすぐにでも消え去るべき言説は多い。大学というシステムがそれに対して有罪なのであれば大学解体というスローガンはいまからでも推進していくべきだということになろう。
諸領域の区分ないし根拠の解体の水準に立つとは、専門家と素人の区別がないということであり、必要があればわたしたちも専門家なみに勉強するしかないということだろう。考えてみれば民主主義はわたしたちを主権者と名指しておりその時点でわたしたちはすでに膨大な義務を負ったには違いない。
前記のことは任意のテーマから論じることが可能であり,しいられた任意性の一つでさえも膨大な問題群へ対数的に拡大していき,生活ないし生涯をかけても,なおその一断片にふれるにすぎないという絶望に似た感覚の断崖に{私}たちを立たせる。(同上)
わたしの十年の生は概念集の1冊以下だった。ある点でそう語りうる。しかし、
次の1か月あるいは1年何をしようとし何ができるか、しか人は問いようがない。
■ 時の楔通信 第<6>号の存在
については、時の楔通信 第<7>号の{序} に次のように記されています。
第<六>号は、一九七六年四月九日以降の六年間の< >を媒介に、<みうカレンダー>を含む未宇(約)書の(序)として構想しており、その表現も準備をおえたが、あえて原本性のまま六甲空間に眠らせておくことにする。
わたしは存否を確認したことはありません。また、このことについて松下氏が何か話しているのを聞いたこともありません。
次には第<11>号の存否について書きます。
■ 時の楔通信 第<11>号の存在
については、時の楔通信 第<12>号の{序} に次のように記されています。
< >獄の中で記した全ての表現を基軸とするものは、第<一一>号として
回覧可能な宙吊り状態におき、この状態からのエネルギーをたえず
応用しつつ、世界に投げていくことにする。
(< >獄とは1984.12.17から1985.4.30まで(あるいは「現在」まで)の被拘束空間のこと。)
(8月17日追記)
*1:これは正確ではないので後で訂正する。