時の楔通信 第<7>号 一九八三・四


      第<7>号  {序} 

  第<六>号は、一九七六年四月九日以降の六年間の< >を媒介に、<みうカレンダー>を含む未宇(約)書の(序)として構想しており、その表現も準備をおえたが、あえて原本性のまま六甲空間に眠らせておくことにする。
……この号は第<七>号である。

 目次から推察されるように、この号も、大学闘争とくに裁判過程を中心とする個別テーマへの没入に視えるかも知れない。しかし、それらの一つ一つがもつ持続性、包括性はすでになにものかであり、部分的かつ抽出的な記述形態になるとしても、そこに現情況への切り込み方、不可視の全テーマ群へ の架橋の意志表示をよみとっていただければ幸いである。第<三>号三ページで表現領域の抽象度と逆過程の手ざわりについて記したし、第<二>号一ページ、第<〇>号三ページでも<無>限とみえるものとの格闘にふれているが、その関係性が、ここでもより深化した条件で追求する必然をもって、 私たちを包囲している。

 この号の叙述をおえつつ確認したことの一つは、どのテーマについても権力ないし抑圧してくる諸関係の私たちに対する規定力が、きびしい宙吊りにさらされていることである。公判の未開始、実質審理の省略、強制執行の極めてゆるやかな展開〜というような様相でそれは現象しているけれども、それは根底において十年性の情況の膨大な拡散に対して私たちがたたかう時の反撥力が幻想性総体をつつみ込んで、ゆっくりと殺到してくる構造からきているように思われる。それゆえに宙吊り性とみえるものの前例のないきびしさもあるのだ。私たちは、これまで獲得した方法を、どこまでも、どこへでも応用する場を確実に創出しつつあり、その成果を共有する回路は全ての人〜関係性に開かれている。入口の標識をあえて掲げるとすれば、記述や索引や手続きの対極から私たちへ向かって出立せよ!

 私たちへの異和や批判は、国家からのものであろうと、<反>国家のつもりの人々からのものであろうと、{ }過程の展開に不可避的にかかわるものから順に対応し、反批判ないし止揚していく。私たちに対処されうるためにも、自らの依拠する時間や秩序の軸を私たちの困難な情況と共有させるという不可欠の条件があることを述べておこう。<放置>している<敵>は多いが決して許したり、忘れたりしているのではない。何かの準備、そして鎮魂のためにも、今は黙しているだけなのだから。


 〜一九八三年四月九日〜
   時の楔通信発行委員会           
           (連絡先の<一>つ=神戸市灘区赤松町一−一(松下 昇〜未宇))