去年はこう書いたわけですが、
GW連休にずっとパソコンの前に座っていたのに何も成果が無かったので、
今年も同じでした。というか7日もあった休みのうち、パソコンの前に座って松下のことを考えようとしたのは半分以下の日数でしかありませんでした。
1日は三田の湖にバス釣りに息子を連れて行き、1日は神奈川県で親戚の寄り合いがあり行ったので、残り5日は暇だったのに。
久しぶりに、概念集5から「裁判提訴への提起」というのをキーワード登録しました。
実は、4/13から、わたしは、もう一つのhatenaグループ「従軍慰安婦問題を論じる」を発足させました。そこに熱心に書き込んで居たわけです。その熱意は虚偽ではないものの、自己の存在根拠を賭けてとは言えないものであり、であればいったい何なんだ、ということにもなります。
元「従軍慰安婦」が国家を訴えた裁判に最高裁で敗訴判決が出た時に、
「10年を費やして最高裁から「NON」という一言を貰うためなら、わたしの人生とは何だったのか? いままでに数千人(以上)の人たちがそう自問した。
その問いに対する答え(へのきっかけ)が上記にあるかもと思い、突然だが引用した。」
と考え、「裁判提訴への提起」の一部を引用したのでした。
元「慰安婦」を原告とする裁判に関わるなら、当該(元「慰安婦」)と私との対等性というものを、何としてでも確保しなければならない。不可能に近いそういうことがそれでも必要だ、というようなことをぼんやり考えたのでした。
現在の裁判提訴の総体的な状況を見ると、被拘束状態にある人がおこなう裁判提訴としての〈獄中訴訟〉が私たちの裁判把握の本質に最も近い。
裁判提訴への提起より
連れて行かれたところは、とても明るい部屋だった。机の上には缶詰、すいかなどが置いてあり、昨日私に笑った木坂という隊長がいた。隊長は私に『食べろ』と言ったが、私は『いらない』と言って、そこに立っていた。彼はまた私に『そこに座れ』と言った。彼は食べ終わると、私の体を洗った。洗った後彼は私を犯した。私は幼く、何も分からなかった。*1朝になると、また辺高和が来て、私を農家に連れ戻して監禁した。
そして、この日の昼間に大勢の日本兵が私のいる部屋にやって来て、強姦された。それは本当につらかった。夜になると、また隊長のところに送られて、昼には兵隊たちがやってくる。
半月ほど過ぎると私は病気になった。体がもうだめになったと見ると、彼らはやっと私を姉の家に返した。
(郭喜翠さんの話)『ガイサンシーとその姉妹たち』ISBN:4816606106
被拘束状態の最も酷い例として、郭喜翠さんの場合を考えることができる。
しかしながら、中国大陸と日本という距離、戦後60年という時間的隔たり、にもかかわらず、彼女が「被拘束状態にある人がおこなう裁判提訴」を行うことができたというのは、奇跡的な出来事だと評価しても良いのではないか。
安倍首相の「慰安婦」問題での「謝罪」は、彼のレジュームチェンジの根拠が空虚であることを明らかにした。
それはまた、「被拘束状態にある人がおこなう裁判提訴」という松下の方法論の、ある面での勝利だ、と考えることもできるかも知れない。
*1:15歳だった