人と人との言語コミュニケ-ションによる相互理解を否定するわけではないが、いやむしろその不足を攻撃するが、それを拡大することによって世界や小宇宙の矛盾が解決するとは全く信じていない。この点について加藤三郎氏たちとわたしは同じだ。だが彼らは人と人との言説を超えたコミュニケーション(セックスを含む)や神秘体験を体験しその厚みを知り肯定している。それはある種の体験を神秘化し祭り上げることではない。それに対しわたしにはその種の体験の分厚さはない。しかし言説のなかで〈外〉なるものを執拗に語り続けるとか、希望を持ち続けているとか、いわば否定神学的構えが身に付いているとかいうわたしの構えは、神秘体験無き神秘主義者とも言える。
このようなことが今度分かった。ような気がした。
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