※5 ふしぎな,かつ必然的な一周というべきであろうが,6年前の企画においても,{私}たちは現在と同じ問題,表現と掲載のズレの止揚,発行委員会の仮装性,構成リストの膨大さなどととりくみ,その作業は宙吊りになったとはいえ,そのときの手ごたえを忘れずに生きてきたつもりでいる。
1978年現在、全共闘的なものの残り火は消え去ろうとしていた。しかし松下とその周辺は、“わたしたち”を情況として発見し、情況に働きかけようとしていた。概念集が始まったのは1989年、十年経っている。松下昇の基本的な構えは変わっていない。しかし、松下の孤独(孤絶)はより深まっている。概念集を構成するひとつの文章が、一人の優秀なインテリゲンチャの表現として過不足のないものだと評価しうるとすれば、そこに松下の強いられた仮装~限りない不幸が存在するかもしれない、とも言えるのだ。
※6 従って,現在,{私}たちが,別の位置で,別の構成リストを作成しているということはできないが,もし,当時と現在の構成リストに差異があるとすれば,6年前のリストは,その一つ一つがほほビラなどで公開されており,テーマとして分類しやすかったのに対し,現在のリストは出現~開示の範囲が,さまざまの幻想領域を横断しつつ孤立しており,テーマごとに,まるで別の星雲に投げこまれたような異相を呈するであろうということであり,これこそ情況の困難さの証し(同時に,ほんとうの何かが始まる証し)と考えてよい。
さらに30年経ち、情況の困難さは目を覆うばかりだ、とまず言えるとしても、松下がすでに「見てしまった」と言った、“大学~マスコミ~「左翼」の真の姿”が露呈しただけかもしれない。さてわたしたちは30年前と同じく非力であるがそのことが問題なのではない。わたしたちは強力すぎるパソコンや情報手段(インターネット)を持っているとも言える。すでに編集された巨大な〈構成リスト〉~刊行リストもある。わたしがわたしの夢と切迫を自己のものにするなら、わたしたちは絶望するに及ばないのだ。