松下昇~〈 〉闘争資料

2010-08-15

サイト掲載・メモ

・・「不確定な論文への予断」が長い間読めなくなっていたようだ。

このファイルは、カウンターを付けたのでデータベースに接続しているのだが、データベースのパスワードをある時変えたのに、このファイルの方は直してなかったので、開けない状態のままだった。今日回復。

・・「表現集」の「〈ハンガリー革命〉ーー〈六甲〉」 ひさびさの掲載。

http://666999.info/matu/data/hanga.html

(12時22分)

2010-07-25

北川透「『海の古文書』序章の試み」

現代詩手帳2010年1月号 p70

北川透「『海の古文書』序章の試み」

「わたしが語ろうとするのは、またしても三人の男の行方です。

ひとりは狂死、ひとりはアルコール中毒死、もう一人は行方知れず。」

が最初の2行。(5ページびっしりある散文詩)


松下/菅谷/北川 を読者に思い出させるように書いている。

内容は取りえのないただのデマゴギー、と私は思った。

2010-06-27

波(サインカーブ)が揺れながら語る

 かならず、すべてのものは、感覚にとらえる前に弯曲してしまうのだと思いこんで、やっと動きだすことが可能になり、動きはじめて以来、いつでも、どこでも、強調しようとした感覚が、逆にかすんでしまうのを知った、と波が揺れながら語る。

(松下昇 「六甲」第5章)

 この1行をどう読むか。

安保闘争という大きな国民的運動の高揚後、どんな(政治的)行動への誘いにも反応できなくなっている自分がいる。思い〜情動〜行動といった一連の過程になめらかさが失われ大きな落差(弯曲)を指摘してからでないと行動できない。そして実際に運動しても例えば大きな声を出せば出すほど空洞感覚を生み出してしまう。そのような観察は「挫折の季節」に一般的なものだ。


波とは何か? サインカーブである。であると同時にその微分であるコサインカーブである。サインカーブが位置を示すのに対し、その微分は加速度つまり主体のせき立ての強度を表す。

sin(x) の微分はcos(x)。 今がどん底であるとしよう。どん底=sin(-π/2) cos(-π/2)はゼロである。方向性を喪失しているがかってのようにマイナスのエネルギーに満ちているわけではない。どん底まで落ちきることによりわたしは老子的無に近づき、再生(回春)を遂げる。主体的意欲が高まると位置もいやいや付いてくる。主体的意欲が臨界に達してもなお上昇は止まらない。運動の高揚期に実は主体的意欲はゼロになってどんどん下がろうとしている。(このとき安保闘争においては樺美智子の死があった。その直後に動員数だけ最大だが無駄なデモがあった。(たぶん))

sin(x) の微分はcos(x)というのは、高校で習うが、すぐにより難しい応用問題を解かせるので、日常生活に適用できるはずという話は教わらない。わたしたちが日常観察できるのは「位置」の方だが、主体において大事なのは「加速度(やる気)」の方で、この二つのものは日常生活においては分離して観察できない。そのせいでわたしたちはいつも誤る。


波というたった一つの言葉の背後に、こうした三角関数の微分の逆理というシンプルな数学的真理が潜んでいる。


松下は高級難解なレトリックに淫しているだけのように思えるがそうではない。現実というものは常に微分の位相と通常の位相と二つの位相において存在している。それを見ずに生きてしまうことの方が弯曲しているのだ、実は。

2010-06-22

1968年を論じた本リスト

★ここ五年以上、1968年を論じた本がコンスタントに刊行されてきました。たとえばここ約一年間に限っても、以下の書目が目につきます。

毎日新聞社編『1968年グラフィティ〔新装版〕』(毎日新聞社、10年1月)

加藤登紀子『登紀子1968を語る』(情況新書、09年12月)

アラン・バディウほか『1968年の世界史』(藤原書店、09年10月)

小熊英二『1968』(上下巻、新曜社、09年7月)

毎日新聞社編『1968年に日本と世界で起こったこと』(09年6月)

鹿島茂『吉本隆明1968』(平凡社新書、09年5月)

芹沢一也監修『革命待望! 1968年がくれる未来』(ポプラ社、09年4月)

http://urag.exblog.jp/10850962/

路上の全共闘1968

三橋俊明:著

河出ブックス 10年6月 本体1,300円 B6判並製カバー装248頁 ISBN978-4-309-62418-1

◆カバー紹介文より:バリケードは新しい世界への入口でありアジールだった。日大全共闘の当事者がその体験をあえて私的に想起しつつ「直接自治運動」としての全共闘を検証する、かつてない1968論。

◆帯文より:全共闘は学生運動ではなかった。もうひとつの1968論。

「私たちにとって現在とは、いまだ達成されざる1968なのだ」(244頁)。1968年に青年期を過ごした世代にとって、実感のこもった名言だと思います。

(同上)

補 絓秀実著作目録より

『1968年 ちくま新書』すが秀実(筑摩書房) 2006/10 ¥903

『Left alone 持続するニュ−レフトの「68年革命」』すが秀実、井土 紀州 松田 政男 西部 邁 柄谷 行人 津村 喬 花咲 政之輔 上野 昂志 丹生谷 貴志(明石書店) 2005/02 ¥2,310

『1968 思想読本 知の攻略』すが秀実(作品社) 2005/01 ¥2,100

『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』すが秀実(作品社) 2003/05 ¥3,360

http://www.geocities.jp/uwasano2008/suga-hidemi-tyo.html

全共闘を読む 情況出版 1997/09 ガイ・ヤスコー編*1

*1:私が持っている本はこれだけ。ちゃんと読んでない。

2010-06-15

未来において開始される「意味」

「〈 〉闘争の原像・1」第2分冊 p1 から 引用したい。

事実の意味というのは、過去形ではなく、未来において始めて開始されます。だから、過去形の事実を未来形の事実性として論じない限り、粉砕する他ないというのが、私の内部に湧き出ている声なのです。

(松下昇) 発言集1

これを読んだとき思い出したのは、劉燕子さんの、香港での天安門事件20周年の大集会の報告でした。*1

天安門事件とは何か?

 事件で17歳の我が子を失った丁子霖(ていしりん、Ding Zilin)は、たくさんの犠牲者の名前、年齢、職業、被害状況について記録しようとする運動を起こしました。*2

事実を明らかにするために、膨大な努力が必要であり、それは現時点での権力とのいさかい(闘い)を生じさせる。

そしてそれを次の世代に伝えることにより、<未来において始めて開始される>ところの意味が開かれる。

 

実際に言論の自由がかなり制限されている中国では、天安門事件の記憶すらが抹殺されようとしている。一方日本では、あふれる情報のなかでかえって安保闘争や大学闘争の意味は遠ざかり見失われつつある。

 

未来を切り開いていかざるをえないという力強い要請が彼らにはある。彼らからその磁場を学ぶことにより、一見消滅したかに思える日本における〈現場〉を回復していくことができるだろうか、私たちは?