松下昇~〈 〉闘争資料

2009-08-22

六甲・4章を読もうと

数日前から六甲・4章を読もうとしています。そもそも 〈 〉の変移を可能な限り展開していく  ということのイメージがうまく掴めず、難渋しています。

六甲の出発点については去年次のように書きました。

わたしの意識はむしろ戦いとその後の分裂の過程で歪み傷つき変色しているのだが、眼前にある山系が美しくわたしの無意識に浸透してくるときふと、山系という交響曲がわたしたちの矛盾の総体と呼応しているのに気付く。これが〈六甲〉 〈私〉たち の発生だ。

 山というものを数学的に抽象化すればピラミッド*1になる。自己と世界の不整合を、外部的ピラミッドと内部的ピラミッドのズレとしてとらえること。ズレは4次元空間において適切な変換をすればかんたんなものに還元できる。

http://from1969.g.hatena.ne.jp/noharra/20081108

わたしはもはや自己や世界の関係を〈 〉に入れなければ生きることも死ぬこともできない。正確にはもはやわたしでさえない。 *2

世代も体験も、国家も革命組織も、致命的な二重性に見える。普通につきあうと裏切られる、〈 〉に入れて様子をみてからつきあう、といった感じだろうか。


あなたは世界をn次元だと思っているが、実際はn+1次元だ、と。結論的にはたぶんそうなのだろうが、そこまで歩むことは不可能に近い。


〈 〉のない世界は、〈私〉たちが永遠に変革し続ける夢である。夢が恒常的な条件に限りなく近づくように! p79

この文章を正確に読むことは難しい。

わたしあるいは任意の対象は偏差として存在する。偏差を固定化し既成権力を支える方向に利用ししようとする力がこの世界には満ちている。偏差を〈 〉として可視化し、〈 〉の展開を加速させていくことによりそうした力と戦うことができる。

この場合、〈 〉のない世界というユートピアを求めているわけではない。〈私〉たちが永遠に変革し続けるために、そのための道具として〈 〉はある。


Aというよりもむしろわたしの前にあるのは〈A〉だ、と。

〈A〉は Aに対して 回復の衝動を持つ しかしそれは出発点にすぎず、どれか一つに拠ることも、循環することも虚しい。

Aが〈A〉へと偏差していったことには情況的必然性がある。その情況をまるごとひっくりかえさない限り虚しい。

したがって、〈A〉という偏差自体を追求するのではなく*3、〈 〉の展開を加速させていくという問題意識を持たなければならない。


六甲・4章は、「*」という見逃しやすい符号によって6つの部分に分かれている。

6つの部分の色合いの違いをメモしようと思ったがなかなかうまくいきません。

1.〈 〉の運動を展開しようと考えるときにじみ出るイメージ の例

このようなイメージを、自在に、また制約されて変移させていくとき、それらが、別の時間=空間のリズムをもつ境界を訪れているというフィクションをまず作成してみる。*4

2.情況に対して 様々な仮装で対応している主体たちの

時間的/空間的変移をさぐることによって、別の主体の運動/構造へ入り込んでいける。


3.〈 〉をつける箇所や、〈 〉をつけてから変移させていく方法が、さまざまに変移していくことへの不安。


4.他者からのメモつまり、中絶の時間=空間が挿入されたのは、再起と深化のためにはよいことなのかもしれない。


5.α、β、γが、たとえば政治の領域において、相互に、時間的脱落感、空間的脱落感、組織的脱落感をもっているとして、これらの脱落感は同位であり、どれか一つに拠ることも、循環することも虚しい。


6.第4章は、かいてきた表現とかいてこなかった表現の間隙にはさみまれたままである。表現に再度〈 〉を付けることにより運動させよ。

*1:三角錐。四角錐でもいいが三角錐の方が抽象度が高い。

*2cf p78

*3:例、党建設

*4http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051114#p5