<フリーター>考
総務省が5月末に発表した労働力調査によれば、非正規雇用者数が全雇用者数に占める当年3月までの平均割合は34%近くに及ぶという。この数字の背景に進行している労働市場の過酷な実体から湧きあがって来る「生きさせろ!」という叫びが「フリーターユニオン」「派遣ユニオン」といった新たな共同性の端緒を浮上させている。若者を中心とする流動的な労働階層は、経済の同心円上に形成されている大衆の平均的な生存形態から弾き出されてしまう自らの不可避性を求心的に捉え返し、別の生き様を模索し始めているのではないか?
「フリーターユニオンふくおか」の小野俊彦委員長(32才)は、インタビューに応じて、イタリア語のプレカリオから派生した「不安定な雇用を強いられた人々」を表す「プレカリアート」という言葉を軸に「アタラシイ労働運動」を目指し、現代の「生きづらさ」を語りたいと述べている。(6月3日朝日朝刊)
彼らが主宰した「五月病祭」の仮装パフォーマンスが、いつか独自の回路を辿って38年前の或る<仮装>パフォーマンスの意味に橋を架けて飛翔することがあるかもしれないな、という妄想も湧いてくる。その時は死んでいても参加したいものだ(笑い)。
このような妄想は、ネット上でたまたま出会う複数の象徴的な表現の印象にも由来している。例えば「ハトポッポ批評通信」を無料配信している自称文学批評家でフリーターの青木純一氏の表現等がそうである。登録者への配信とサイトでの公開をほぼ同時にやってくれるのでシャイな自分にはうれしい。20才も年長のがさつな文学音痴が識見豊かな深い洞察を心地よく読める文体が不思議でもある。
関心を寄せるのは次のような箇所だ。漱石の「夢十夜」を長期に亘って丹念に掘り下げた後、
『この問いから見るならば、「明治の精神」は明治という時代に所属しているのではありません。しかし、ぼくたち現代人がその精神を所有しているわけでもありません。「明治の精神」はぼくたちの現在をたしかに条件づけながら、なおこの時代の記憶の果てにある時空間の星座として存在しています。漱石もまた明治という時代に所属しようとしたのではないし、また時代の共同観念に侵蝕されたのでもありません。漱石は、明治という時代をひとつの時代として画する危機の意味を、自分の思考の内部にいわば奪い返しているのです。「明治の精神」と漱石が呼んだものの実質は、近代の悪夢の因果律を、ぼくたちの近未来にまで照らし出す「黒い光」の核心であり、近代の心的世界を展開する精神の詩的な核心のことです。』<『夢十夜』というギャラリー(23)>
と述べつつ漱石の表現過程を<無所属化の運動>として捉えなおす。思わず共感の相槌を打ちながら、同時に若い層の幻想世界に拡大し始めている時代や共同性に対する<無所属化>の欲動の適確な<文学>的表現でもあるのではないか、といった深読みに誘惑されるのである。
フリーターやニートと呼ばれる現象は、現象としてみる限り「定職を持てない」多数派と「定職を持たない」少数派に分岐しているだろう。小野氏や青木氏は高学歴~高能力の言わば過渡的に落ちこぼれたエリートの側面も持っているにちがいない。しかし、「持てない」不可避性と「持たない」意識性の内外の葛藤を社会的合流~共闘の方向に解放し、そこからしか見えてこない文明の歪さに<否>を対置し続けてほしいと願う。長続きする職を得るかどうかは切実な問題だが、結果のいかんに関わらず自己に内在する<フリーター>性を生涯に亘って仮装し切ることが重要なのだ。既成の文化やメディアや政治性に足をすくわれることなく生き続ける未踏の条件を秘めているのだから。
かつて学生達が労働者予備軍の状態を逆用して、社会及び同比重で自己の変革の起爆剤たろうと夢想した時代よりも<現在>の拘束性は深刻度を増している。数十年前の渦中にあった大多数の若者は「生活はもっと良くなる。チャンスは平等。落ちこぼれるのは努力不足」といった日々増幅される<恫喝>と、周辺国の後進性や社会的弱者を踏み台にした経済動向の重力のもと、<いや、何より各々の「生活」概念の逆バリケードの前に!>予備軍から正規軍へと成り上がっていった。世界史的な<敗北>の過程は、羽振りの良い物質や資本のあふれと裏腹な思いがけない桎梏を蔓延させる。若い夢想の生成~解体の循環時間は極度な短縮を強いられ、自働的かつ自立的な共同化の契機を失って拡散する。屈折沈殿する欲動は孤立した<犯罪>となって社会現象化し<消費>される。
しかし、人類の幻想過程が物質過程を呑み込むように発生した闘争の本質的な表現はまだ共有の場を創り出していないが、確実に<存在>していると言おう。
「~変革可能性の第一歩が大衆的に確認されるまで旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、しけん等)を放棄する」と一枚の宣言文が或る大学の構内に張り出されて40年近い時が流れた。
松下昇は最初の自覚的<フリーター>であった。~刊行委に委託されているパンフ群と未刊資料は「生きづらさ」を変換して生きる始めるための基礎データである。データへのアクセス回路を新しい兆しに向かって公開せよ、とささやき続けている…。
《ところで、前回も言及した「存在と言語」の刊行主体は、「本の販売宙吊り=包括的な会議の実現」という野原氏~の要請に対し、逆に「そちらの勝手なネット販売には何の意義も共感も価値も見出せないから、松下がパンフに収録している自分達の文章を削除せよ」との趣旨を要求してきたらしい。彼が松下の運動に関わったというのは本当か?パンフを受け取った段階で異議ないし意見の開示責任を共有した人間から今頃こんな要求が出るはずがない。恥ずかしいと思わないのだろうか?
「村尾本」に対しても~刊行委に削除とか破棄といった発想はないが、本質的には松下の表現運動と問題を切り離して扱うことはできないことがはっきりしてきた。批評集γ篇に文章を無断で収録された、あるいは自発的に掲載させたと思っているできるだけ多くの人の意見も聞いて見なければならない。より拡大的な<場>の設定を目指すべきだろう。今まで主に本の出現過程を問題にしてきたが、中身についても共同で検証して行ければ面白い。ネットを含むパンフの情宣が「勝手」なことかどうかもその過程で明らかになっていくだろう。》 2007.7.10 eili252