ゴミ(!?)
5月は申告書提出期限の会社が多いので相も変わらず数字の泥沼に浸かり込む一方、3月に他界した母の認知症~についてあれこれ考えをめぐらしながら過ごしていた。
松下<作品>の収録本をめぐるやり取りは意識の後景に退いていたが、5月22日付で「存在と言語」第2巻「後註」のゲラ刷りが送られて来たので、今回もそれについて少し註を加えておきたい。
このテーマで鳴り続けているのは<共通の対象が個体間相互のみならず各個体の内在性においても分離的に社会現象化して来る構造をどう統合~表現しうるか>という問いである。
或る主体の<作品>が、Aにとって対関係の記念碑であると同時に経済性に繋がりうる遺産の位相も持つ。一方、Bにとっては自己史に深く関わる事件を読み解く基本資料であり、Cにとっては内的な飢餓を充たすかけがえのない文芸作品であり、またDにとっては自らのライフワークに欠かせない作業素材であり、Eにとっては表現主体から応用を委託された<武器>である、等々…。
入射角の違いは<作品>と個々の関係付けを様々な方向に分離し、それぞれの心的構造に見合う独自の強調点を見出そうと運動している。相互的には、相容れることのない対立から思いがけない共闘的様相を含む幅で複合的な関係構造を形成する。この内外の差異総体への視線の深まりと働きかけを介して、自己の幻想性の受容パターンに創造主体の<無言>を包括して行くプロセスが、新たな~刊行過程に<作品>を招き入れ応用して行くための基本条件ではないだろうか?
ゲラ刷りによれば、私(たち)とのやり取りをそのまま本に収録する方法で読者に公開し、<村尾建吉著>を<村尾建吉編・著>に改め、収録表現の著作権が自らに帰属しない旨を明記して刊行を進めると言う。こうすれば異論者に対する公平性と現行法を含む<著作権>問題に対応しうると考えているのだとすれば、やはりひどい倒錯だと言わねばならない。
著作権者の承諾~委託、あるいは<著作権>に関わる関係性総体の討論過程が熟さないまま、先のように明言するだけで他者の<作品>を収録して出版販売することが許されるなら、任意の他人の作品を「自分に著作権は在りませんよ」と公言しつつ独自に編集して自費出版し、可能な販売網を使って海賊版を自由に販売することも正当だということになる。それも正当だという論拠は無視しないが、その論拠に立つなら、既成出版界で旬の人や作品についても同じ条件で刊行し販売するのでなければ既成性への戦闘的意味を持たないだろう。
むしろ、直接抗議できない死者の表現や、明確な<権利>性を主張できない表現位相のビラ~といった事実性に依拠して他者の表現を扱う場合の退廃と権力性は逆に極めて深刻な領域にあり、既成出版から少しだけ外れた販売網を潜らせることで問題性がクローズアップしにくいこととあいまってより陰湿な事態を招きよせている。『存在と言語』の刊行主体はそのことに自覚的に振舞っているようには見えない。これは赤字覚悟とか収録する表現の選択基準に主観的真実性をどうこめるかといった個別恣意以前の、表現に対する<道義>的基本問題である。
ゲラ刷り261ページ下段には「この大竹の試みを『存在と言語』の作業にかかわらせていえば、膨大なゴミを枠に収めて作品化するという大竹の試みは、不用になったものとしてのゴミを< >化しているように思えてくるのである。」とあり、己の刊行作業を言葉の次元におけるゴミの< >化と捉えたいイメージが見えてくる。
表現位相に散乱する文字の集合物を物質文明から排出されるゴミに対比する発想は、彼が或る紙片を不用になったゴミと判断すれば文字のみ拾い上げて自分の本という枠に収め、新たな<作品>へ変換できるのだ、それは忘れ去られる運命にある表現を復活させ< >化する作業であるという自負に行き着くだろう。社会的<権利>性の枠を外れた廃棄物の山に向き合っている(テレビが今日も追いかけていた或る意味荘厳でもある孤独者の)像も浮かんでくるが、この場合は社会の下層性を潜っているわけではない。こういった発想の必然性がやはり当初の<村尾著>を引き寄せたのだなと思い至る。「後註」の言い換えによっても本質はそのままである。
言葉の次元では(かなりの時間性に耐える<船>でもある)紙という物質的側面の朽ちることが即ゴミになることをもちろん意味しない。6対の< >の描かれた黒板の除却が記憶の痕跡として存在する表現位相の意味や像のゴミ化を意味しないように。
松下は< >の中身ではなく、< >そのものを問うことで文明の偏差に根底から対決し続けた。村尾氏は本という枠が< >に対応しうると思うのであれば、まず松下に習って本そのものを問わねばならない。
しかし、本は< >ではないし、< >は枠ではない。本という枠は思想の伝達~保存手段と、それゆえ逆立した幻想性拘束の手段でもある双頭の蛇なのだから、本への収録をもって< >化と気安く発想する自分の根拠をまず< >化すべきだろう。
私(たち)とのやり取りについても、パンフ化して第1巻の販売圏で無料交付する等のステップなしに一挙に定価のついた本に載せてしまうやり方は、対等性を考慮した方法どころか抗議の本質に耳を傾けようとしない強引な対応である。<神戸>大学教養部広報や裁判調書の水準への退行さえ思わせる。値段が付いている分なお気色悪い。
今後、各販売書店に直接<著作権>者位相から問題性を指摘する文書を送付する等の対応が必要になるが、別に急ぐ必要もないし、基本的には個々の作業を本質的に深化し展開可能な水準を獲得する度合だけこのテーマへの批判の根拠も運動性を開示するのであるから。
ちなみに、村尾氏は私に一度も出会ったことがないそうだが、私の方は2度出会い言葉も交わしたことがある。
2007.6.1 eili252