~刊行委の存在根拠
古本買取販売店で、小林秀雄集(筑摩書房日本文学全集42)を買った。値段105円(タバコ7本分)。何だかとても得した気分だったものの、凝縮された言葉の重量感に疲れやすい自分が読了まで行き着くかどうか覚束ない。「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」を読んだ後、ボリュームを再確認するようにパラパラめくっていると、最終ページ空白部分に「此の本は路傍の石の上に捨てられていた」と鉛筆での書き込みがある。裏の見開き部分にも1行「秀雄も路傍に捨てられていた」とあった。大正昭和時代をリードした著名な批評家の本の処遇に無常の思い極まったのか、文字遣いの感じからおそらく自分よりも年長者と思われる見知らぬ先輩読者の心理状態を思った。幸か不幸か私(たち)は松下の表現について此の類の嘆きを許されていない。
書き込みの触感に導かれるように、よく知られている「無常ということ」を読んで見た。小林は「この世の無常→人間の置かれる一種の動物状態」と定義している。冒頭に引用された「一言芳談抄」の短文は不思議な雰囲気を持つ文章だ。その舞台である比叡山山王権現付近を散策中に彼を襲った或るのっぴきならぬ心理と切り離して口語に移してもさらに遠ざかるだけなのは分かっている。まして、原文の輝きにはいかなる変形も許さない確たるものがある。しかし、あえて自分のレベルまで引き下ろしてみよう。
『あるいはこうも伝わる。比叡山東麓の日吉(ひえ)神社に巫(カンナギ)装束で仮装した未だうら若い女官が入り込み、深夜、人も寝静まった後、十禅師社の僧形~童形像を前にして、姿勢を整え気息を正して鼓(つづみ)を打ち、清澄な声に心を託して「どうせいずれにしてもそうなのですよ。ねえねえ…」と歌った。場違いな性的表現をも疑った目撃者に歌の意図を強く問われ、こう答えたそうだ。「生き死にする哀れで果かない人の有様を思えば、この世のことはどうせいずれにしても、他の生き物と変わらぬことを繰り返すよりほかないじゃありませんか。だから、ねえねえ、どうか、女の穢れは成仏の妨げなどと結界に閉じこもらないで、死んで後の世にまことの人間に成っていく過程を私にも与え、助けてくださいなと歌ったのです」…』
女人禁制の神域へ侵入し、何事か表現せざるを得ない「なま女房」の仮装性の根拠(悲しみ~祈り~愛?)、さりげない記録者の耳目の透明度、神域をも舞台に巻き込みながら宗教や政治権力や様々な欲望が織り成す史実の溢れ、散策する意識に交差した解釈を超絶する迫真のドラマ(鎌倉絵巻)は、小林秀雄という稀有な個性の存在領域を根底から揺り動かし「人間の相の動じない美しい形」~「歴史において常なるもの」の予感を、むしろ自らの内に眠っていた<記憶>の像へと変換する。
「源平盛衰記」さえ読んだことのない粗雑な素養にとっては「過去生」でも妄信しなければ到底訪れようのない経験には違いない。しかし、文献的こだわりのない位置であえて独自な口語に言い換えようと試みることで重なってくる気配もある。「なま女房」が歌い掛けた対象は、物語の樹下の深い闇の中、神域を支配する人智を超えた存在であったのだろうか、はたまたそこに潜むもう一人の具体的他者であったのか?歌は本来的に対象の人称区分を透過していく方向軸を持つ。もしも彼女が何らかの共同意志から派遣されたコマンドであったなら、いや、そもそも記録者の背景が一篇の絵空事であったとしたら…。様々な成立理由の可能性を斟酌しても、なお無視できない劇の形式(→本質)が歴史の根に存在する。
生きることが「どうせいずれにしても」一種の動物状態に過ぎないのなら、この世はどこまでも無常である。生きている人間の側は未だ人間の歴史に参入していない。死者だけが「常なるもの」に連なる本当の歴史に参入している。そう小林は言い切りたいのだと思う。言葉のもどかしさに耐えながら比叡山での経験を彼は次のように記す。
「僕は、たヾ或る充ち足りた時間があった事を思ひ出してゐるだけだ。自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかってゐる様な時間が。」そして、さらに記す。「上手に思ひ出すことは非常に難しい」と。
そうなのだ。あまりの径庭を一気に飛び越えながら意を決して言えば、~刊行委の存在根拠は上手に<思い出す>ことにかかっているにちがいない。目にできる< >的な言葉の集合は「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間」の<記憶>に繋がっている。個々のテーマが歴史の根源的テーマと避けようもなく響きあっている時間、はるかな過去から問われ、はてない未来にわたって発生するであろう全テーマは、前世紀後半の時代性において不可視の表現行為に芽吹いている。交差している個々の私たちがその時間を思い出せないだけなのだ。
過剰な言葉たちの奔流に沈んでいる<記憶>の形をそっとすくい上げ、物語の樹下の深い闇の中、~私~に向かって「なうなう」と歌い掛ける「なま女房」に応ずる一行を<思い出す>ために、かつてもこれからも~刊行委は存在するだろう…。
2006.7.20 eili252