立秋。もう秋か。ロトムデジャ、とか言って気取っている場合じゃなく、これが敗北であることは確認しておかないといけない。8月11日
とりあえず、写経でもしようと、パソコンに向かう。概念集1の目次はここにある。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/keyword/%e6%a6%82%e5%bf%b5%e9%9b%86%e3%83%bb%ef%bc%91
1.) バリケード 法廷 監獄 の三つはとりあえず跳ばす。なぜ跳ばしたのかは後から考える。
最近、反日の「
βー今後、何一つ〈日本〉語では表現しないで生きようとする意識」 を思い出した。
あるところで(審査:東浩紀(主査)、北田暁大(副査) http://www.hirokiazuma.com/archives/000314.html) 次のような出題があったので思い出したのだ。「課題:1970年代以降の日本の思想あるいは作品(ジャンル、メディアは問わない)をひとつ取り上げ、日本語で考え発表することの意味を軸として、作家論あるいは作品論を展開せよ。」アカデミズムにおいては「日本語で考えず/発表しない」ことがむしろスタンダードだったことに改めて気付かされた。
丁度坂本さんの自身の論文翻訳と時期が一致したがそれはまだ読めていない。
松下の「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する」というアプリオリは興味深いものだ。一見不可能であると考えられる。わたしたちは何か特定のイデオロギーなりエピステーメーなりをすでに獲得しその上でものを考えている。その前提は確固としたものではない。他者や出来事と出会う中で小さく大きく揺れ続けている。しかしメタレベルの良心~自己はそれを上手くゴマカシ一応確固たる自己同一性があるかのように記述していく。役所の書記がその典型的あり方である。松下の「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する」というのは(一面では)さほど難しいことではなく、本来小さく大きく揺れ続けている実存を、開放し肯定していくことに過ぎない。*1
3.)「非存在」から写経をしていきたい。
これは概念集1のp16-17であるが今回パンフ現物を引っ張りだすことはせず、画像ファイル(tif)があるフォルダにあるのでそこから読んでみたいと思う。
「 非存在
参加ないし出頭することを関係性から要請されている場合に、あえて要請に応えずに別の時・空間に存在することによって、関係性への反批評ないし転倒を試みる行為。」
というのが1行目。
*1:ふーむ。開放することによって他者に出会うことを回避しないこと。他者が与え続ける耐えがたい他者性をごまかさずに受け止めること。そのような時間が〈存在様式の変換〉につながっていくだろう。