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4noharranoharra   3  敗北 から非存在へ

「 非存在

 参加ないし出頭することを関係性から要請されている場合に、あえて要請に応えずに別の時・空間に存在することによって、関係性への反批評ないし転倒を試みる行為。」

というのが1行目。

関係性という言葉があやしいといえばあやしい。文法用語で言う「非人称のit(英語)」のようで、遍在性がある。しかし普遍的な言葉かと思って聞いていると突然、わたしたちの関係性としてたった10人ほどのそれが普遍に変わるものとして登場する。カルトそのものだ。と揶揄的に書いてみたが、そうも言えるというだけのことでそれだけでは批判にも何もならない。さて、

「さまざまな思想史的な概念規定を詳しく調べてから述べるのではなく、また、調べてみることからは前記の行為への発想は生じなかったかもしれないと考えつつ述べるのであるが、多くの概念規定においては、非存在という言葉から消極的ないし否定的な意味づけをしているであろう。(註-1)」

例えば中国思想においては仏教からきた「無」が、道家を経て、「無極-大極」として世界の始源に(朱子学派によって)据えられた。しかしまあこれは「非存在」というよりむしろ限りなくあふれ出る「超存在」という感じかな。

「註-1」を読んでみる。

「図書館などで手当たり次第に読んだ限りでは、予測通りであった。西洋思想では、非存在を非実在ないし無として把握する傾向が強く、東洋思想では逆に一種の有として把握しつつも静止状態に放置しているように感じられた。詳細は、直接討論で述べる。」

わたしもちょっと本棚を見ると北村透谷の「「黙」の一字」という短いエッセイが目に留まった。「天下 言を要するもの多し。然れども言すべき所に却(かえ)って 黙を守るは、言の要せらるるよりも要せらるるなり。」と冒頭にある。「道は虚なり、然れどもその人に入(い)るや実なり。」と新儒学っぽい構図を背景に、道(真と至)のない発言は何の価するところもないものだから、そうした場合は当然「黙」すべきだ。などと論じる。ここで興味深いところは、言というものが「主体-言-情況」を〈道に合う〉形で貫いている場合だけ評価されているところだ。「主体- -情況」から「言」だけシーニュとして抜き出して意味を論じうるという構えを東洋思想はとらない。ここで、松下は、わたしたちが思っていたよりも、東洋思想の流れに棹さしていたのではと発見がやってくる。そうした予感を抱いて先に進もう。

「しかし69年以降に非存在の方法が開示してきたのは、運動エネルギーに満ちた積極性であった。いくつかの例を上げると、

 a-会議(教授会など)や授業への公開的な意志表示をともなう欠席

 b-大学当局が設定する審査を打ち切らせない楔を打ち込みつつ行なう欠席

 c-警察当局の任意出頭要求の拒否や、逮捕状が出た後の潜伏(声明を媒介的に出す)

 d-裁判所が召喚する公判への不出頭(分離された他の公判への出頭は持続)

などがまず想起される。特性として、社会的に上限の強制力をもつ関係性に対する孤

立したしかし本質的には対等の比重を持つ対処の仕方であることが上げられるが、それ

と共に、前記の行為は期限つきのものではなく永続性を帯びていること、および、強いら

れる、時・空間に匹敵するものの創出を目指していることを強調しておく。a、bは生産点

における無期限ストや反処分闘争、c、dは、一般的な反権力性と重なる部分は勿論

あるが、そこからはみだす跳躍度に注目すべきであろう。」

 ここで松下が予想しなかった死語が生まれているので注記しておかなければならない。「生産点」がそれだ。スト(ライキ)といったときそれはプロレタリアートによるそれをまず第一に意味し、生産点とは彼らの職場(工場など)を意味する。ひどく古くさく感じられるが本当にそうだろうか?次のような新左翼に一般的な言説は現在大量の底辺労働者の発見とともに再発見されつつあるものかもしれない。

それは、青年労働者が、みずからの労働の質そのものを問い、労働者自身が、「何を作り、どこへ売るのか」を決定する生産者としての直接民主主義、労働者民主主義を構築し、その中から、「抑圧されているものが抑圧する」絶対的矛盾のうえにのみ成立する現代資本主義の「秩序」「体制」そのものを、生産原点から一歩一歩つきくずし、生産者としての労働者のあらたな団結を勝ちとっていこうとする現在的革命闘争なのである。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/myweb1_215.htm

この引用をしてみて分かることは新左翼とは「(革命)主体を形成するぞ」という叫び声以外の何ものでもなかったのだな、ということだ。松下の場合もそれの大きなベクトルを共有しつつ、自己の内側を掘り下げ「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する」というシュールな(あるいは精神分析的)方法を追加することにより「主体形成」をより自由な形で成し遂げようとしたものだ。そんなふうに言うこともできるだろう。

 当局、警察、裁判所といった大文字の権力と直接対立する羽目に至る人は現在少ない。しかし現在はけっこうさまざまなレベルからのメール(による召喚)が行き交っており、時々刻々微分的審問に晒されていると、そんなふうに記述しうる生き方をしている人も少なくなかろう。

「情況的な推移によって次のような例も現れてくる。(註-2)」

(註-2)を読んでみよう。

「a~gに関連する具体例については、まず、五月三日の会通信24号27ページ以下の非存在闘争論(序)を読み、その後で、時の楔通信の各号に散在している非存在のテーマへの言及に注目していただければ幸いである。」

ふむ、ではこの写経(後十数行で終わる)が終わったら、五月三日の会通信24号を見てみよう。

ついでに、註3を 写し、後で正しい場所に移動させよう。

「註三- 仮装、宙吊りについては、別の項目で扱う。この概念を、非存在と交差させて論じているものとして、73年~75年に同志社大学で行った発言記録(発言集に収録)等を乞参照。」

「e-刑事事件による被拘束状態を逆用する他の事件(刑事、民事、人事院審理など)への非存在的な(ある意味で存在するより存在的な)参加

 f-これまでの共闘者との未対象化のテーマ群を具体化する媒介としての会議や審理への非参加(対権力関係にとどまらない偏差~抑圧関係を開示する契機として)

 g-仮装や宙吊り(註-3)との関連における非存在闘争の試み

などが70年代に大きい成果を示し、現在まで方法的にも深化し続けている。

 表現論に交差させて述べると、本来、非存在のイメージに最もふさわしいのは、中身の視えない〈 〉であり、a~gや、さらにあふれ出る各項目は、〈 〉闘争と呼ばれる、名付けがたい過程の特性でもある。非存在の概念に存在している現実性や運動性は、この概念を、人間の生きる全幻想性の領域を把握し、変革していくことのできる位相へ押し上げた世界史的必然から来ているであろう。ところで、ワープロの初心者である筆者が、いま一番面白く感じているのは、空白の挿入や削除によって移動や結合を可能にする技術のさまざまな領域への応用であることも付け加えておく。」

さて、以上が註を入れて、約1.4頁の写経だ。

写経が出来て良かった。・・・

返信2007/08/11 14:24:02
  • 4敗北 から非存在へ noharranoharra 2007/08/11 14:24:02
    「 非存在  参加ないし出頭することを関係性から要請されている場合に、あえて要請に応えずに別の時・空間に存在することによって、関係性への反批評ないし転倒を試みる行為。」 というのが1行目。 関係 ...