下に理由を書きますが、村尾版松下昇表現集 について在阪の書店に文句を付けに行こうと思った。その準備として本屋のサイトを訪問すると検索窓があったので「村尾建吉」を入れてみた。結果は下記の通り3冊だが、『存在と言語』は一切存在しない。
6ヶ月前に出た新刊なのに何故だろう?、不思議だ。1月の梅田の旭屋には確かにあり一緒にいた私の友人が購入したのだが。
http://www.junkudo.co.jp/search2.jsp?ARGS=%91%BA%94%F6%8C%9A%8Bg&VIEW=word&x=0&y=0
● キーワード 村尾建吉:3点
1. 人質論
村尾 建吉 著 かもがわ出版 版
1,470円(税込) 2004年09月 発行 ISBN 978-4-87699-835-7
書棚は、その他社会問題です。 在庫無し
2. 援助交際社会のゆくえ
1,500円(税込) 1999年02月 発行 ISBN 978-4-8463-0311-2
書棚は、家族論です。 在庫無し 現在この商品はご注文いただけません。
3. マージナルな14歳
2,100円(税込) 1998年04月 発行 ISBN 978-4-8463-0269-6
書棚は、事件・事故です。 在庫無し 現在この商品はご注文いただけません。
● キーワード 松下昇:0点
該当する本は有りません。再度、検索を行って下さい。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?KEYWORD=%91%BA%94%F6%8C%9A%8B%67
1. 人質論
村尾建吉 /ウインかもがわ(かもがわ出版) 2004/09出版 170p 20cm ISBN:9784876998357 \1,470(税込) 新宿本店
2. 援助交際「社会」のゆくえ
村尾建吉 /鹿砦社 1999/02出版 291p 20cm ISBN:9784846303112 \1,500(税込)
村尾建吉 /鹿砦社 1998/04出版 331p 20cm ISBN:9784846302696 \2,100(税込)
松下昇
該当データなし。
■ netdirect旭屋書店 ■
1 書籍 人質論 村尾建吉
かもがわ出版 1470 カートに入れる 本棚に入れる
鹿砦社 1500 カートに入れる 本棚に入れる
鹿砦社 2100 カートに入れる 本棚に入れる
松下昇 なし。
Amazon.co.jp: 村尾建吉 - Amazon.co.jp: ホーム
こちらも3冊
松下昇は 誤ヒットが1件。
はじめて違う結果が。しかしこれも北川透編集の古い雑誌1冊が追加されただけ。
http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon_result
日本の古本屋:書籍検索結果一覧
あんかるわ 第33号
北川透編/村尾建吉「一行の〈法廷〉・他」、松田征雄「党派覚え書」他、あんかるわ発行所、1 、1973.4
松下昇は(誤ヒット1件を除くと)10件(はじめて!)
しかし、共著である『序曲』(1970年)が6冊あり、4種類。103出版以降のものは1セットだけ。
序曲 試行小説集 〈試行叢刊第3集〉
矢島輝夫、松下昇、浮海啓、加藤龍之 、試行出版部、1冊、1970
普通 書籍に日焼け等の中古観。表面に汚れや・・・
まつおか書房 800円
松下昇表現集 あんかるわ別号≪深夜版≫2 あんかるわ発行所
松下昇 北川透編集、1冊、昭46
鯨書房 2,100円
不可視の拠点から 解放学校拡大自主講座 83頁 背少ヤケ
解放学校・菅谷規矩雄・松下昇・北川透、1冊、昭47・11
鯨書房 2,625円
松下昇表現集 あんかるわ別号《深夜版》2
松下昇/北川透(編集人)、北川透、昭46
172頁
カバラ書店 3,000円
序曲/試行小説集
矢島輝夫.松下昇.他、試行出版部、昭40.9
初.カバ.名前記 (管理:古書43-1176-・・・
文教堂書店 800円
序曲
松下 昇、試行出版部、昭52
試行叢刊第三集矢島、浮海重版
古書 落穂舎 2,500円
松下昇についての批評集(α篇、β篇。計2冊)
松下昇批評集刊行委員会(準)編、松下昇批評集刊行委員会(準)、初版B1988年計2000円B4判(謄写印刷)
文雅新泉堂 5,000円
序曲 試行叢刊第三集画像あり
矢島輝夫、松下昇他、試行出版部、'70
カバ 少シミあり 二刷
古本・あじさい屋 2,000円
序曲 試行叢刊第三集
矢島輝夫/松下昇ほか、試行出版、1 、1972
カバヨゴレ・背ヤケ・B
高原書店 1,000円
序曲 試行叢刊第三集
矢島輝夫・松下昇ほか、試行出版部、1 、1975年
4刷
やまびこ書房 800円
ネット依存~Google依存はやはりかなりわたしを偏向させてしまう。
『存在と言語』は下記の11店舗だけでしか最初から扱っていないのだ。ジュンク堂や旭屋に置いてるといっても本社は関知していないのだ。ましてやネット販売部門とは無縁だ。そういった世界はGoogleからは見えない。
『存在と言語』の取り扱い書店は以下の通りです。 1冊 3,500円(税込)です。
(東京)
・模索舎
(大阪)
・旭屋書店(北区曽根崎2-12-6、06-6313-1191)
・ジュンク堂難波店
(中央区難波千日前12-7、06-6635-5330)
(尼崎)
・三和書房(昭和南通7-161、06-6413-1112)
・小林書店(立花町2-3-17、06-6429-1180)
(神戸)
・ 同 三宮駅前店
・ 同 神戸住吉店(シーア4F)
・神戸大学学生会館
そもそもこの本は出版社はどこなのか? まったくの自主出版ということで取次とのコネクションが無く上記を除けば販売所もないということか。
村尾氏は「著作権という問題意識は私にはなかった」とか語っているが、本当か? すでにより公認された出版形態を何度も経ている村尾氏がなぜ今回よりマイナーな形態を選んだのか?
より公認された出版形態では、著作権問題でチェエクが入る可能性が強いと判断し、よりマイナーな形態を選んだのではないのか?
さて、上記に電話番号も書いてあるし、早速電話してみようか?
今回のゲラp253で村尾は「野原氏や永里氏は単なる「批判」を行っているのではない。刊行作業の息の根を止める宙吊り要請を行っているのである。いくら村尾たちの逸脱ぶりが許せないとしても、そのことを自覚してほしい。」と書いている。
ふーむ。この被害者意識は何なのか、ちょっと驚く。「わたしたちとの話し合いがつくまでこの本の配布を宙吊りにされるよう」という要請が何故「刊行作業の息の根を止める」こととイコールなのか。『ドイツ語の本』の編集過程で、松下たちから話合いの要請が来たとき、三一書房の編集部はここまで短絡的発想はしなかった。話合いが長引き決着が付かず最後「息の根を止められた」のは松下ら異議申し立て側だった。実績ある出版社に比べ村尾は弱小な個人かもしれないが、「話合いの要請」=自らの企画の否定 という結論はいったいどこからでてくるのか? 被害者意識というしかない。
「表現集」などの編集・発行主体は、話合いに対して開かれた態度~思想を持たなければならない。これをわたしたちは最初の公理としている。と言っても良い。
これを根拠にして、私は上記書店に電話をしてみようか?
なんだかやる気が少しづつ萎えているが・・・
昨日、二つの郵便物が届いた
坂本さんからと村尾さんからだ。(いま「さん」と呼びかけて分かったがお二人に会ったのは私が21歳の時の自主ゼミでだった。)
<坂本>こと~ さんからのには、「言葉の質量をさかのぼる」「<“衆己”>の前史をさぐる」と、相変わらず初めてみる言葉と語法がある。「いつ頃からだろう?<あれ>を探していた」・・・
さて村尾さんからの封筒は大きい。「偏らないようによく注意した結果、このような形になりました」という文章を読んで、わたしは<初めて>深い強い怒りを感じた。
「『存在と言語』第2巻のゲラ刷りですが、往復書簡のやりとりの部分を送ります。」
『存在と言語』については、すでに1/13付けで「わたしたちとの話し合いがつくまでこの本の配布を宙吊りにされるよう要請します。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13/9 」との要請を送っている。
その要請を拒否したばかりか、その要請を含む私の文章を「本」として出版しようとしている。
おそるべき権力性への居直り をわたしは感じた。
明日になればジュンク堂ほか2,3の本屋を回り、村尾との取引停止を要請しようと考えた。もうすぐ行かなければならない。
しかしながらいま書いてみると、わたしの怒りは「出版が権力である」限りにおいて成立しているのか? 「出版が権力である」ことは村尾本のようなほとんど売れそうもない本においても真実か。 「権力」というなら、私がこの文章をUPしようとしているインターネットも権力であろう。
誰も読んでくれなくても良いと思って安易にUPしてしまっているが、読んでくれる人は永里さん以外にもおそらく10人以上はあるだろう。意外と読まれているかもしれない。一定の影響力はあるのだ。
わたしがやっているのはすべて無料のブログや掲示板であり「誰でもできる」ことである。しかし実際には誰でもできるわけではない。ネットの中でだけ考えているとこの落差は見えないがこの権力差は歴然と存在する。わたしはこの掲示板でも村尾発言を引用し批判しているのだから、村尾が彼のメディアで同じ事をするのを否定するのはおかしいことにならないか?
確かにそれはそうだ。そうではなく、
第一巻の松下(彼は死んでしまっているので反論できない)テキストの転載を批判した野原の論理に対し理の通った反論を提示できないにもかかわらずその行為を止めようとしないことに、私の怒りは向けられている。
さて、ところでここに対する野原の書き込みが4ヶ月半近くも途絶えていた理由を考察する必要もある。
α:野原の別名問題。
β:相続人の権利の問題。
γ:??
である。
で村尾からの「ゲラ」読んでみる。 朝食のあとに。
さて村尾氏から送られてきたのは、「後記」のゲラp226-259 34頁、17枚(A41枚に2頁)。
p226の最初の行は、
「※ 第一巻の刊行後、次のような批判が寄せられ、それに対する反論を返すというやりとりが続いたので、そのままここに掲載しておく。」である。
p259の最初の行は、「* 椹木野衣の秀逸な大竹伸朗論」云々とある。おそらく、この*は※の誤りであり、p226からp258の最後の行までが一つのパートであるのだろう。
さて以下に今回読んだ紙片から2点だけ触れておきます。
村尾氏 4.05付けに
「村尾は単に「書くこと」を続けているだけの人間であり、かつてのビラや資料をコツコツと拾い集め、並び替えて本をつくろうとしているだけの職人にすぎないのであって、」p251
この文章は(少なくとも主観的には)50%以上の真実があるのだろう。書くことについて、自分の書く態度を確立しているとはいえない野原から見ると、尊敬を交えた他者性を感じる。ただ村尾氏は松下から「長すぎる」と批判されていたが、書くことは得意でも編集し読者の前に提示するのは得手ではないのでは。だとするとだとするとその気がなくとも、松下の悪しき村尾化を提示することしかできないのではないか。(この批判は野原に返ってくる)
「松下をめざさないなかで〈松下昇〉に出会う未知=途を探し出そうとする、というのが村尾の考えていることである。どうがんばっても、村尾は村尾以外の存在にはなりえないし」p251
「松下をめざさないなかで〈松下昇〉に出会う途」という修辞はわたしも自称してもよい。ただし「野原は野原以外の存在にはなりえない」とはどういう意味なのだろうか? 自己を思想的あるいは文学的だと思っているのでないとこうはいえないのではないか。意識からではなく外側からみればたかだか定年退職ですら私の存在様式に大きな影響を及ぼす。そんな風にとらえる方が「存在様式の変換」という松下の発想に近づけるように思っています。
・・・
村尾さんへ
5/22付のゲラの送付、ありがとうございます。
(1)『存在と言語・1』の配布の宙吊りを拒否するなかで、さらに『存在と言語・2』の出版企画を着実に進行させているとは“良い根性しているな”と感じました。
わたしたちの無視しえないはずの提起を無視して、授業再開~試験再開を強行した大学当局のような振舞いですね。授業や試験は常識的には善であるものでありその宙吊り提起には強力な理由が必要です。それに対し出版はまさに私人の自由でしかない。授業を阻害する側に挙証責任が求められるのに対し、この場合には挙証責任は出版する側にあるといえるでしょう。
「ズレ自体は恥ではないがその総体をいつでも開示しうること」を松下は言いました。おまえの(村尾あるいは野原の)表現の根拠は解体しているのではないか?を問う〈なにものか〉の声として。
(2)
今回のゲラp253で村尾は「野原氏や永里氏は単なる「批判」を行っているのではない。刊行作業の息の根を止める宙吊り要請を行っているのである。いくら村尾たちの逸脱ぶりが許せないとしても、そのことを自覚してほしい。」と書いている。この被害者意識は何なのか、とちょっと驚いたのだが。わたしや永里さんの提起に「刊行作業の息の根を止める」だけの力量があるとは残念ながら思えない。実際「息の根を止める」ことはできていないのだがそのことは今はおく。「息の根を止める宙吊り要請」と村尾が受け止めた主観的リアリティはどこから来たのか。それは野原/永里ではなく、むしろ村尾自身からきた。
わたしは本を出したことがないので分からなかったのだが、村尾は過去3冊本を出しているが今回は正式の流通ルートにのせない形での出版形態をとっている。これは「あえて」そのような「こそこそした」流通形態を取ったということだ。(としか理解しえない。)違法だされる一線を越え事件化されること、を恐れなかった松下の行動原則とは違う。違っても良いのだが、問題は、この「こそこそ」を村尾が自らの思想に照らして正しいと主張できない点にある。主張できるならしている筈である。主張できないので論点自体を隠そうとするしかない。
これが「公開の話合い」を拒否する村尾の「根拠」である。と断言しても外れていないと思う。
「その総体をいつでも開示しなければならない」というなにものかの命令に最も基底的に背きながら、村尾は何をしようとしているのか!
つづく(6/3現在 草稿)
(3)
ところで、これは事実確認だが、p231にこうある。
今年の1月に入って、以上(野原と永里発)の手紙が連続して村尾建吉宛で届いた。八木氏の手紙には日付が記されていないが、先に届いた順にここに転載している。
日付を入れ忘れたミスは謝ります。しかしこの手紙は1月13日にほぼ同時にメールしたものと同文同時発送である。http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13/9にも同時掲載している。2007/01/13 17:06:42
したがってこの手紙の日付は1/13である。「先に届いた順」というのは村尾氏の勘違いであろう。
(4)
この取り組みは生涯をかけるに値する作業だと身に沁みているので、我々にとっては刊行作業~配本の宙吊りは絶対にありえないことなのです。どこからの宙吊り要請であろうとも、腰砕けにはならない覚悟を持っています。
(ゲラp246)
語調はきわめて強いが、根拠の空洞を隠蔽するために強がっているのではないか?だいたいかっての村尾であればこれだけの材料があれば数百頁に渡って考察を繰り広げたはずだが、今回総括部分の考察はわずかに1頁強。自分を信じて突き進む点では同じでも信の中身が空洞化しているのだろう。
「そして……いまの刊行作業に行きついている。」と村尾は語る。
刊行作業とは何なのだろうか。村尾にとって。
××書店 御中
貴書店で販売されている「村尾建吉著もしくは村尾建吉編・著」の『存在と言語』については下記のような問題点があります。
松下昇気付刊行委員会が作成配布していたパンフの著作権は現在(ご遺族を含む)刊行委員会に継承されています。自らを刊行委員会として開いていく意志を持たない村尾氏は、松下あるいは刊行委員会の権利を侵害し、松下の著作についても自己の著作であるかのような形で本を出版してしまいました。これは刊行委員会の原則だけでなく現行の著作権法にも違反する行為であることは明白です。
直ちにその本の委託販売を中止されるよう要請します。
この点についてご検討の上、当該書籍の販売について貴店のお考えを文書でご回答ください。
いま上記のような要請文を考えた。*1
これは「刊行作業の息の根を止める宙吊り要請」なのだろうか。だいたい「息の根を止める/宙吊り」というのは対立語である。松下は宙吊りという言葉を愛好した。「息の根を止める」といった大げさで実現することができないことばが、マイナーな目標を追求する小さな共同体を強化する二次的作用を持つ故に愛好されるといった事情を憎んだ為もあるだろう。
(5)
「あるべき掲載」と「あるべきでない掲載」の基準を超えて、「間口の広さ」が追求されなくてはならない。 ゲラp252
いやこれはもう清濁併せのむ自民党みたいな論理であり、論理からの逃亡と批判されるしかないだろう。
(6)
「このことに関連して、『存在と言語』第二巻以降、「松下昇〈全〉表現集」の明記もしない。また『存在と言語』第一巻の村尾建吉著を訂正し、『存在と言語』全巻にわたって、村尾建吉編・著」とする。」ゲラp258
と村尾は書く。
しかしながら、著作権(常識的解釈の)に配慮すれば、第一巻や それと同じくらいの分量の松下表現を含む本を村尾が独断で出すことは不可能である。小細工でごまかせる問題ではない。
(7)
7月に話合いの場を具体的に設定したい。追って連絡します。
「わたしたちとの話合いがつくまでこの本の配布を宙吊りにせよ」と再度要請します。
6月22日までに回答がない場合、おそらく上記のような具体的要請を書店に対して行います。
2007年6月9日
野原 燐
*1:eiliさんの原案を大きく修正