仮装 という言葉を亀と甲羅の比喩でもう一度考えて見よう。
職場のわたしや 家族としてのわたし 子供の頃は存在しなかったのにいつのまにかものとして堅固なものとなって ついにはしばしばアインデンティティすら抱いているところのそれを 甲羅と考える。
それに対し 中身のからだ こそが本当の私であり 甲羅は本来脱ぎすてるべき仮装にすぎない。 というのを 近代的仮装観 と名付けておく。
野原燐 の本名を H○○ とすると H○○/野原燐 の関係は 甲羅/中身 なのだろうか?
そうだとするとしかし そうした近代的仮装観にはかなり問題があるのではないか。
野原燐とはいったいどういった存在様式なのかといった問いかけ、強い疑いが、(多くは無言のうちで)わたしの友人たちから問われ続けてきたが、わたしはいまだうまく答えられなかった。
職場や家族や国家 そうした「生のままの現実(累積的な諸力や関係性)に交差する主観の構造の分岐性こそ」(eili252)を重要だとみなします。というのが正しいだろう。
甲羅こそが本来の私であり その中身というのは抽象的な、フィクションとしての近代的市民人格であり そのような空間にしか存在し得ない幽霊を 尊重する必要はない。
さてそうだとすると 仮装とはなにか?
何も甲羅といった重苦しい比喩を使う必要はなく
まあ“名札のついた服”をわたしたちが日常着ているとしてその服を交換する といったところだろうか。
「存在の根拠を交換すること」
着脱自在な衣装の交換は実はそれだけでは済まず 存在の根拠の交換につながる。
近代的工場、事務所における労働は交換可能な主体を前提とし/によって遂行されます。近代は交換可能な主体を成立させた。誰もが主体性を持ち個性を持つべきだとは実はもっと基底的な「交換可能性」において成立する。反体制運動~言論の自由というものが、近代という与えられたシステムの上で動いているだけのものであれば無意味だ。というのが全共闘運動が明白に私たちに教えたことでした。
しかしながら私たちは次の一歩をなかなか踏み出せずにいた。
図式を整理すると
-1.国家(裁判所、議会など )
0.生のままの現実(累積的な諸力や関係性)
α.甲羅
β.名前の付いた服
γ.亀の中身
わたしたちは実は、目に見ることも触ることもできない甲羅を
服の上からさらに分厚くまといつかせている存在なのでしょう。(イメージしにくいか?)
現実と私の間の軋轢を βの内側のγに主観として担わせ主体による言論として 裁判所~議会などで扱うというのが近代のシステムだった。
前近代が 0./α.の関係の調停のなかで社会が進んでいったのと対照的です。
「 敵でも味方でもない、ある圧倒的な力によって問題提起の正しさが彎曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚のむこうに、はじめて、ほんとうの闘争がはじまっている。(松下昇)」
わたしが戦うことにより関係が見え始め、
αが血を流しながら α’ α’’ に変容(彎曲)していく。
仮装を、そのように捉えることができましょう。