http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13/10と同文。
http://from1969.g.hatena.ne.jp/bbs/13/8 で「p3「既刊表現の総体と今後の作業方向」『概念集・9』」からの引用として
「仮想的かつ本質的な刊行委メンバーとして作業を持続していくことを切望する。」という松下の文章を引用した。
「わたしたちは刊行委員会である」という自己規定からわたしたちは出発している。それを根拠にしてわたしたちはむしろわたしたちこそが松下昇~刊行委員会の著作権継承者であると主張する。極めて大事な一文である。
ところがそこに誤植があったというのだ。
金本氏からの手紙の一部。
〈仮想的かつ本質的な刊行委メンバー〉という意図的?思いこめた?誤うち*1 に目をうばわれました。松下昇(氏)はここまで行っていたのか、と。確かめると〈仮装的かつ本質的な〉となっていて、仮想的であること(ヴァーチャリティ)がどれほど仮装的に〈響存〉しているか。--この理路がどこのみちであるかわからないのに、追走したがっているからです。
仮装とは、個人AがBの名前の下に何かをすることだろう。
仮装はキーワードになかったので、概念集1 p18~19を転写しいまUPしました。
インターネットなどではIDとパスワードがないとアクセスできないということがよく起こるので、つい一時的にそれを貸してあげるということが起こりがちだ。しかしそれはトラブルの元になるからしてはいけない、というのが一般的な道徳になっている。しかしそれにあえて反抗するのが松下の「仮装」という主張だろう。BがアクセスできるところになぜAがアクセスしてはいけないのか? 情報は基本的には排他的財産ではなく公開しても価値が減らずかえって増大するとも考えられるのだから、基本的に仮装は推進すべきであるという発想。
一方、仮想とは事実でないことを仮に想定すること、とある。しかし英語で
virtual を引くと
【形-1】実質上の、事実上の、実際上の、実質的な◆実体・事実ではないが「本質」を示すもの。
【形-2】仮の、仮想の、虚の、虚像の
とあり、表面に現れていない本質といったイメージがある(むしろ第一義)ことがわかる。これはアリストテレスに遡る。
ところで「virtuel」が、元々の意味は「力をもった」潜在性であるということをこの論考で知りましたが、アリストテレスの「dynamis 可能態」との関連はどうなのだろうと思って中原氏に質問しましたところ、デュナミスがラテン語でヴィルトゥスと訳され、英語のヴァーチャリティにつながったそうです。
ピエール・レヴィという人の「ヴァーチャルとは何か?―デジタル時代におけるリアリティ」という本(翻訳有り)がありこんなことを言っているようです。
http://eboshi.s140.xrea.com/MT/archives/2006/04/post_66.html
eboshilog: ヴァーチャルとは何か? デジタル時代におけるリアリティ
本書におけるヴァーチャルとは、アクチュアルと対比させられる概念です。
このヴァーチャル-アクチャルの関係は、ポテンシャルーリアルと対置される対概念であります。説明の都合上、後者から先に描写したいと思います。
ポテンシャルなものとは、既に全てが構成されているが、未発の状態にあるために姿を見せない"可能的なもの"の集まりです。
ポテンシャルな状態に留まっている可能的なものは、何らかの選別作用を経て、現実世界に存在を占めることにより"実体"あるリアルなものへと変貌します。
前者から後者への移行は、あらかじめ決定され定義された可能的なものを無機質に選び出すことで実行されます。すなわち、ポテンシャルなものとリアルなものの関係は純粋に論理的なもので、言わば多対一の決定論的な原則に従います。
これに対し、ヴァーチャルなものとは、存在することへの傾向、ないしは諸力の潜勢態と言うことになります。
ヴァーチャルなものはあらかじめ定義されておらず、要請された"問題"をその時々に応じたやり方で"解決"することによって現実世界に作用し、アクチュアルな"出来事"へと変貌します。つまり、アクチュアルなものはヴァーチャルなものに"問題"を提示し、ヴァーチャルなものはそれを"解決"するために生起的に"到来"するということになります。
あらかじめ定義されないがために、ヴァーチャルなものは常に異なるやり方でアクチュアル化します。問題提示ー解決というこれら二者の関係は、弁証法的なものであり、観念の変容であり、新たな質をもたらす一種の創造・創発であると言えます。
ポテンシャルーリアルとヴァーチャルーアクチュアルの差異は、決定論か新たな創造かという対立と捉えれば分かりやすいでしょう。
先立って構成されているがために、ポテンシャルなものからリアルなものへの変貌は、"可能的なもの"の集まりから定まった"実体"を抜き出す一種の選別作用として捉えられます。
これに対し、ヴァーチャルなものからアクチュアルなものへの変貌は、その弁証法的な性質ゆえにきわめて創発的です。これゆえにアクチュアル化は、常に偶発的であり流動的な"出来事"として把握されます。
長く引用したが、これは松下における 〈 〉の説明にもなっているのではないかと思ったからである。
というわけで、仮想的であること(ヴァーチャリティ)は、松下の仮装というヴィジョンにけっこうひびきあっているように感じた。
(下層は、最近の流行語でマルクスのプロレタリアート、ルンペンプロレタリアート、ネグリ/ハートのマルチチュードと関連する。)
*1:うちに強調のための傍点
仮装 という言葉を亀と甲羅の比喩でもう一度考えて見よう。
職場のわたしや 家族としてのわたし 子供の頃は存在しなかったのにいつのまにかものとして堅固なものとなって ついにはしばしばアインデンティティすら抱いているところのそれを 甲羅と考える。
それに対し 中身のからだ こそが本当の私であり 甲羅は本来脱ぎすてるべき仮装にすぎない。 というのを 近代的仮装観 と名付けておく。
野原燐 の本名を H○○ とすると H○○/野原燐 の関係は 甲羅/中身 なのだろうか?
そうだとするとしかし そうした近代的仮装観にはかなり問題があるのではないか。
野原燐とはいったいどういった存在様式なのかといった問いかけ、強い疑いが、(多くは無言のうちで)わたしの友人たちから問われ続けてきたが、わたしはいまだうまく答えられなかった。
職場や家族や国家 そうした「生のままの現実(累積的な諸力や関係性)に交差する主観の構造の分岐性こそ」(eili252)を重要だとみなします。というのが正しいだろう。
甲羅こそが本来の私であり その中身というのは抽象的な、フィクションとしての近代的市民人格であり そのような空間にしか存在し得ない幽霊を 尊重する必要はない。
さてそうだとすると 仮装とはなにか?
何も甲羅といった重苦しい比喩を使う必要はなく
まあ“名札のついた服”をわたしたちが日常着ているとしてその服を交換する といったところだろうか。
「存在の根拠を交換すること」
着脱自在な衣装の交換は実はそれだけでは済まず 存在の根拠の交換につながる。
近代的工場、事務所における労働は交換可能な主体を前提とし/によって遂行されます。近代は交換可能な主体を成立させた。誰もが主体性を持ち個性を持つべきだとは実はもっと基底的な「交換可能性」において成立する。反体制運動~言論の自由というものが、近代という与えられたシステムの上で動いているだけのものであれば無意味だ。というのが全共闘運動が明白に私たちに教えたことでした。
しかしながら私たちは次の一歩をなかなか踏み出せずにいた。
図式を整理すると
-1.国家(裁判所、議会など )
0.生のままの現実(累積的な諸力や関係性)
α.甲羅
β.名前の付いた服
γ.亀の中身
わたしたちは実は、目に見ることも触ることもできない甲羅を
服の上からさらに分厚くまといつかせている存在なのでしょう。(イメージしにくいか?)
現実と私の間の軋轢を βの内側のγに主観として担わせ主体による言論として 裁判所~議会などで扱うというのが近代のシステムだった。
前近代が 0./α.の関係の調停のなかで社会が進んでいったのと対照的です。
「 敵でも味方でもない、ある圧倒的な力によって問題提起の正しさが彎曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚のむこうに、はじめて、ほんとうの闘争がはじまっている。(松下昇)」
わたしが戦うことにより関係が見え始め、
αが血を流しながら α’ α’’ に変容(彎曲)していく。
仮装を、そのように捉えることができましょう。