※14 {時の楔}の作業について,この感覚を少しずつのべてみよう。わずか数ヵ月という短い期間にしぼった<資料>群についてさえも,それらを集め,配列し,編集していく準備は大きい困難にぶつかる。一つ一つを確認し,コピーをとり,討論のための配布をおこなう経済的・労力的な重圧は,ここでは省くとしても,全くその存在さえ確認されないまま,ある力を及ぼしているもの,原本性の宙吊りのために複製不可能なもの……。
今日は早く起きれたので、「レジュメ」を読む作業を続けたいと思った。ところが作業を始めようとして、つい自分のブログのおとなり日記というのを読むと色々興味深いことが書いてあった。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20060301
「つくる会はシオニストに乗っ取られた!」というエントリーを昨日書いた。これは日本の愛国主義集団が親イスラエル勢力に乗っ取られた、という内容。これに対して、今日読んだのは「戦国時代日本娘をキリシタン勢力が多数海外に売っていた」という話。親ユダヤ=キリスト教的愛国勢力と、反キリスト教的愛国勢力がいると。でそうしたことはそれなりに興味深い論議の対象ではあるわけです。
ただこのスレッドのテーマのひとつは「コピーの容易性(の持つ落とし穴)」です。ブログでは、カットアンドペーストが一瞬でできるので、2,3個のサイトを見て回るだけでほんの十数分で百行以上の「文章」を簡単に作り上げることができます。
引用ばかりとは言っても自分のブログを簡単に否定したくないというか、否定すべきでないとは思うのですが、圧倒的な「容易さ」がそこにあることは事実です。
ネットに上げられた文章はすべて容易にコピー可能である。しかし既成の印刷文化(書籍、雑誌、ミニコミ)もまたコピーすることを、文化とか政治活動とか呼んでいるにすぎません。
〈全くその存在さえ確認されないまま,ある力を及ぼしているもの,原本性の宙吊りのために複製不可能なもの……。〉
あるいは、
〈それらを集め,配列し,編集していく〉〈一つ一つを確認し,コピーをとり,討論のための配布をおこなう経済的・労力的な重圧〉、大小の砂をすりつぶすような果てしない作業、そのような〈感覚〉を置き去りにして、容易さにだけ溺れてしまうことを、松下は遠くから糾弾している。