えーと、哲学研究者が哲学書を読むときどういう風に読むかというと次のようだ。
もし、内包されている哲学的言明を純粋に取り出し、それらの詮議考究を、ある種の組織立った仕方で為すならば、それも当然ある程度は可能であろうし、実際、多くのプラトン研究というものは、そうしたものである。
プラトンをこういう風によむと、プラトンはいかにも冗長な無駄の多い本を書いた奴でしかない。
判断主体を社会と現実に於ける人格として描きつつ、かつ、ある特殊な原理と態度を経て、その現実内での通常の知識と判断を根本的に改変して、哲学的判断を形成するに至る、その記述の全要素こそ、プラトン読解を意義あるものにし、また、そこにこそ不滅の魅力がある、と思うのである。(ところで、哲学の古典たる著作は、ほとんどすべて、これあるが故に、不滅の意義を持っている、とも私は考えている。我々は、ただ、そのように読まずにすむような読解を、いろいろな理由から、よしとしてしまってるだけであって、もしこの不滅のものたる由縁に即して読もうと勉めるならば、すべての古典は、そのような要素を読者に語り告げてくれるものとなるであろう。)(同上)
はじめに哲学があったのか?つまりオリンピックという制度があったから、必死で努力してみましたみたいな話なのであればつまらない。そうではなくあるひとがはまりこんだ(選び取った)自己と情況との間の抜き差し成らない戦いの報告が、結果として哲学なり文学なりといわれることになるということなのだろうか。
ソクラテスは、如何にして、彼の斯かる判断と知識を形作ったのか、それを導き出したのか、何故それらは、通常の知識と判断のままでは、彼に取って十分なものではなかったのか、これらをプラトンの記述する場面に即して読み取らなければいけない。(同上)
松下は直接わたしに語りかけてくる。良くも悪しくも。・・・しかしながらいずれにしても十年経ち直接性が失われつつあることは確かだ。したがって、資料たち~テキストが描き出すとおりの{松下}がそこにおり何かを語ろうとしているがタイムラグがありただちには分からない、そのような解読の材料として資料たちを扱うこともできる。
松下に対する思い入れの強さがしばしばイカロスのように失墜し憎悪に似たものに変化するのをわたしたちはしばしば見てきた。わたしたちがあらかじめ持っている思いこみを一旦排除して、松下の描き出す松下に、「何故それらは、通常の知識と判断のままでは、彼に取って十分なものではなかったのか?」という問いを発することは、とても意味があることだと思える。