松下昇~〈 〉闘争資料

2019-02-06時の楔通信 第〈0〉号から

第二部「公判期日から最も遠い審理についての記録(抄)」のごく一部を今回野原が抜き出してみた

一部引用(京大教養部自主ゼミに関わる部分)

その二 ―― 昭和五一年度の京大教養部自主ゼミは、参加者の討論によって〈ドイツ語〉の成績評価を制度上の担当者である池田浩士助教授から解放し、その段階の卒業予定者と在学生の〈相互評価〉として記入~提出していくことを確認していた。この作業は{松下 昇~未宇}を担当教官とする昭和五二年度自主ゼミの実現を教授会に要求する過程で学外者をふくむ{自主ゼミ}実行委員会の責任で展開されていた。ところが、○○○○に就職の内定していた卒業予定者の一人、M・K君(現住所=東京都○○○○)は、三月下旬になっても単位が出そうにないことに恐怖して、父親のR氏と共に池田氏の自宅を訪問し、池田氏から成績評価は自主ゼミ参加者に委託してあるということを聞くと(これ自体すでにM君は討論過程で熟知していたはずであるが)、その直後に、自主ゼミの人たちが自分については例外的に(!)卒業を認めてくれた、という〈偽証〉の電話を池田氏におこない、池田氏は、それを信じて(と、池田氏は、のちに自主ゼミ参加者に証言しているが、ここには大きい矛盾がある。〈相互評価〉の原則を数年間の活動から実践している自主ゼミ参加者が、M君についてだけ例外を認めるはずかないし、池田氏はM君の証言を公開の自主ゼミで再検討する責任があった。)学外の自主ゼミ参加者が自主管理している成績表とは別の(!)、教官に予備として与えられている成績表に記入してM君を卒業させてしまったのである。{自主ゼミ}実行委員会は昭和五二年四月以降にこのことを知り、M君に対しても文書、電話などで質問し、かれは虚偽の証言や教官との秘密交渉で卒業したことを認め、この件についてレポートをかき続けて行くことを約束した。本来、〈相互評価〉とは、卒業後も単位制を媒介する諸テーマにかかわり続けていくために、卒業生が在学生の成績評価に責任をもち、その度合だけレポート〜出席をふくむ自主ゼミヘの参加が要請されていたのであるから、{自主ゼミ}実行委員会は、かれの約束を信じて待った。しかし、その後n力月、何の連絡もなく{自主ゼミ}からの電話に対しても家族だけが出て、本人は不在とこたえて切るようになったので、ついに、十二月一五目、{自主ゼミ}実行委員会の一人が上京して職場のかれに連絡し、驚いたM君は、約束を守らなかったことをわびると共に、夕刻、東京駅で待っていてほしい、といった。約束の時間をはるかにすぎてもかれは現われず、自宅をさがして訪問すると、元特攻隊員と称する会社重役の父親が、金を出せというのか、息子はいない、脅迫するなら告訴も辞さないし、この場で切って捨ててもよい、と日本刀で〈脅迫〉したのである。{自主ゼミ}提起者は、忍耐づよく討論を続け、その後も数回にわたって家族総体との自主ゼミを展開した。とりわけ~一九七八年三月三一日~付のM・R(父)あての戦争体験~戦後体験の振幅で論じられたM問題レポートは、単位制の解体へむけての必読表現であるといえる。この三月段階に訴訟費用の問題が情況の枠につきささろうとしていた。{自主ゼミ}参加者か生きている、さまざまの領域で宙吊りになっている〈木の葉〉(〈給料〉の〈一〉部、〈患者〉へのお見舞、教科書 ―― 生物学やドイツ語 ―― の印税、M君が送ると約束した自主ゼミからの連絡費用~)を運動させるためにも、K・A気付{自主ゼミ}実行委員会は、M君あてに、{卵}裁判の訴訟費用と〈同額〉の〈三九、二七四円〉を送り、あなたの〈一行の詩〉と共に松下 昇気付{自主ゼミ}実行委員会へ送ってほしい、という提起をおこなった。何かの座標系か転倒したと感じたM君の父は、うろたえつつも、息子は今、新婚旅行で海外(ヨーロッパ)にいっているから渡せない、と{自主ゼミ}参加者の職場をしらべて電話し、六月一五日付で「K留守につき」という〈一〉行と共に三九、二七四円を発送人あてに返送してきた。との経過の総体を自主ゼミのn年間との関連で、どのように転倒していくかが、{自主ゼミ}参加者全てにとっての重い課題であろう。~八・二八~付の{自主ゼミ}参加者気付{M・K子}からM・Kの配偶者である{M・J}あての提起(~一〇三出版~による、応用のためのマス・プリあり)は、この課題をひきうけていく重要な突破口を切り拓いている。

一部引用(仮装被告(団)という表現について)

その三 ―― 仮装被告(団)という表現は、一九七〇年代の、とりわけ各地~各段階の裁判所が、不安といら立ちをもって眺めてきた概念である。かって神戸地裁の山下鉄雄裁判長は、「仮装被告(団)などというものは存在しない!」といって、この名称による求釈明文書の受理を拒否したことがあるし、同位相の対応は、現在の名古屋地裁の吉田誠吾裁判長にもみられる。一方、裁判所は思いがけぬ、無意識のユーモアももっているらしく、{卵}裁判の上告審判決に添付されている被告人の上告趣意の筆写に際して上告表現の中の仮装被告(団)は一つ残らず、「仮装被告(国)」と筆写~コピーされているのである!この原本ないし原表現を、今すぐに{あなた}に開示できないのは残念であるが、ともかく国家は、ある偶然と必然によって、自らを仮装被告であると判決しつつあるといえよう。いや、いわせていかなければならない。そして、この努力の過程で、私たちは相互に、まだ出会ったことはないが、確実に何かを共に創出する関係性としての仮装被告(団)に出会ってきている。この意味を、訴訟費用の問題を媒介して語りたい。一九六九年四月二八日の首都における斗争で起訴されたのち、困難な問題を一つ一つ切り拓きながら~国家~への表現を持続してきた{永里繁行}を含む仮装被告(団)に対し、昭和五三年二月一〇日付で最高裁第二小法廷は上告棄却決定を、二月二七日付で~{異議}~申立棄却決定を出した。(以下略)

   一部引用(この世界の変革必要度について)

 実刑について、いま、何かを記すことが可能であるとして、またそれをさまざまの位相に飛翔させつつ論じることや〈国外〉釈放という超法規的措置を国家にしいていくことが必要であるとして、忘れてはならないのは、この瞬間にも実刑に服している膨大な人たちの、実刑について何かを語る条件のないままに耐えている日々や、それを媒介として生じている、この社会の欠損総体の重さであろう。

(略)

 {卵}裁判の一審判決、二審判決における執行猶予の発想を、権力のとらえている実刑概念の裏がえしとして私たちは批判してきた。

また先述の{一〇三}公判の罰金刑の延長に労役場への留置があり被告団の現状から、より深い~労役~が開始されたことものべた。

以上の二つの方向性で示した領域に、さらに次のいくつかのヴィジョンを加えておきたい。

(略)

〈このようなヴィジョンは、さらに列挙することが可能であるが、重要なのは、法~国家が、このような位相の共斗から決して逃亡することができないということである。権力性の守護者たちは、法をかり、法を無視さえして、正当な提起をしりぞけ、処分や処刑を追認するがよい。それは牢獄をふくむ体制の実践的破壊の必然性を追認するだけであるから。しかし、忘れてはならないが、矛盾の根源的止揚は、牢獄をふくむ体制の実践的破壊のみによっては完了しない。本件を想起してみよ。決してそれのみによっては本件を出現させた全ての問題は解決せず、むしろ、先に列挙したような例をふくめて、幻想性のあらゆる位相の逆バリケードを突破していく試みに本件への敵対者が自覚的に共斗していくことが不可欠であり、その深さと包括性において牢獄をふくむ体制の実践的破壊も生命を帯びるのである。

 さて、本件中立に対して、どのように判断するか?それによって審理されるのは、{あなた}をふくむこの世界の変革必要度である。〉

 もう一つ、深いつぶやきとして…いつも胸の底で鳴っているのは “{未宇}区に存在しないことが、{私}たち相互の}実刑{、{未宇}の存在しない世界に存在をしいられていることが{私}たち全ての}実刑{” という}うた{である。いまは、きく耳をもつひと~関係性にしかとどかないとしても、それは、すでに星雲のようにn次元を渦巻いている。

   一部引用(松下昇、萩原勝、菅谷規矩雄、池田浩士除籍処分など)

1978.10.13〜14 京都における 日本独文学会の開催を契機とする{自主ゼミ}実行委員会からの提起 (文責 松下昇〜未宇)

 日本独文学会は、その存続〜活動の前提として少なくとも次のテーマについて討論し、その経過を関心をもつ全ての人に公開すべきである。

1,1970.5.3の日本独文学会における被処分者に関する討論の内容、その後の対応の仕方。

2,現在まで、会費未納を表面的な理由として、学会からの連絡を停止され、除籍処分を受けている人々(確認しうるだけでも松下 昇、萩原 勝、菅谷規矩雄、池田浩士…)の問題を抜きにして〈ドイツ文学〉の〈研究〉は成立可能か?

3,今季の学会が開催されている京都大学の教養部において1974年以来おこなわれている、ドイツ語ゼミナール(詳細については資料参照)の問題を抜きに〈ドイツ語〉の〈授業〉は成立可能か?

4,5(略)

(略)

   一部引用(壇上占拠〜見えないものについて)

 この提起をうけとった人の中には、会場でのガードマンとのもみ合いや、壇上占拠という風なイメージをもったものが、反撥するとしないとにかかわらずあり得るが、それらの発想は自らの発想の浅さ、もろさを暴露している。現段階の大学や学会、それにしがみつく人々が、一つ一つの具体性としては打倒に値いするほどの内実をもちえていないことは自明ではないか。{私}たちは、必要があれば、そのような〈さわぎ〉のイメージ以上の物理的~〈 〉的ゲバルトを、いつでも加えてやれるけれども、問題は、かれらの全てを一まとめにしても、前記の提起の中に出てくる被除籍者相互のテーマ群や実績に及び得ず、そのことに気付く能力すら、もっていないということ一つの中にも現われている。{私}たちの提起は、紙片をうけとってよめば、何かの声~行為を与えられれば判る、というようにはなされていない。かれらが生涯に何回とあるのではない危機の瞬間に、自らの生きざまとたて前の、目をおおうほどのズレ~ギマンをみつめて、一九七〇年代の{私}たちの位置に生涯をかけて、にじりよろうとするとき、かすかにみえてくるかもしれないものなのだ。

 提起の準備期間をふくめて、〈占拠〉中のゼロックス室には、多彩な人間〜関係性が参加し、酒宴をふくむシンポジウムも展開されたが、たとえ、可視的に〈一〉人の参加者がないとしても、この空間性および、いくつもの同位相の空間性の}孤独{の意味をとらえようとすることなしには、どのような表面上の活動や生活にもかかわらず、一九七〇年代の基底に足をつけ得ない、ということは断言しておこう。

 なお、原稿用紙のこの註の部分は、十月十三〜十四日の〈占拠〉中のゼロックス室で記されている。

(以上)