松下昇~〈 〉闘争資料

2009-09-18

私たちの生死をかけうる情況

人間解放の物質的条件を洞察する科学的真理と、そこに解放される人間の実存的支柱とは、解放の過程にあってもたえず触れ合っているものでなければならない。

梅本克己*1

敗戦後すぐ、マルクス主義者を中心に非マルクス主義者をも巻き込んで行われた学際的論争「主体性論争」というのがあった。その核心として田島正樹氏が抜き出したのがこの1行。

「「実存的支柱」とは「科学的真理」を己の生き方として選択する主体の信念の実存的投企のよりどころのことである。梅本は、河上肇を例に引き、その「科学的真理」としてのマルクス主義への実存的献身を支えていたものが一種の宗教的信念(実存的支柱)であることを鋭く指摘している」*2


いずれにせよ、我々はここで再び「主体性論争」の問題に出会っているのである。唯物論の「物質の運動」(自然史的過程)であれ、「仏の本願」であれ、「神の摂理」であれ、なんらかの包括的原理は、いずれ主体性と激突する。むしろ、この激突によって初めて真の主体性が生成するのだ。(同書 p205)

 いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。(松下昇 一九六九年八月 http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

「闘争」という言葉の背後に、梅本のように科学的真理、全体性、革命といった概念の連鎖(マルクス主義の伝統)を想起することは明確には求められていない。当時の若い学生にとっては闘争への駆りたてが先に存在し、マルクス主義の伝統や全体性への信念はむしろ希薄だった。マルクス主義の伝統への不信がむしろ行動的ラディカリズムへの傾斜に加担した。最も誠実敬虔な人物であったヨブとは真逆の方向から、つまりここで松下が語りかけている学生は、「真の主体性」に近づいていくことになるわけだ。


「私たちの生死をかけうる情況」というフレーズは奇妙だ。普通は「私たちが生死をかけうる」に形容されるべきは「信念」とか「党」であろう。全体性(信念)や党と言うものを信じない地点まで歩み出でて、なお“自己と状況の接点”に、(全体性をそれなりに包括しうる)思想を見出しうると松下は考えた。というより、「私たちが生死をかけてしまう情況」はすでに〈山崎君の死〉において到来していたのだ。*3

だから、「いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ」とは、むしろそこに存在すべきなのに不在である神の、仮の名であった。

*1:p88 田島正樹「神学・政治論」isbn:9784326154050 から孫引き

*2:同書 p89 文章を少し変えて引用

*3:「神学・政治論」という本には、1967.10.8、羽田闘争で亡くなった山崎博昭に対する言及がある。あとがきp322に。献辞はないがあってもよかったように思える、そうした本である。