2009-09-11
■ パラレルワールド
行為の同時性だけでなく、論理の同時性を示している 接続詞indem……その誤訳。
大量の紫外線の照射をうけて、他の菌の染色体をつかんだまま亡命するヴィルス。
快活な対話者の内部で、無関係に機能している腸管たち。
ふたつ以上のピラミッドが重なっているとき、それをパラレルワールドにおいて重なっていると考えることができる。
ただパラレルワールドという言葉は聞き慣れていてもそれを理解するのは容易ではない。わたしたちの世界は3次元だがそれを4次元5次元と拡張していくことは困難ではない、それがわたしの世界であるからだ。しかしパラレルワールドとはこの世界とは別の世界を想定することである。別の世界は想定はできても理解はできない。
海と山にはさまれた細長い都市を並行に走る鉄道の同じ名前の駅。著明な丘の反対側に位置する同じ名前のレストラン。
こうしたことはちょっとした偶然であり小さな会話の種にはなってもそれ以上ではない。ここからパラレルワールドのリアリティを感受する人などいない。
質料をもたないとされる天使は、一方で知性的存在とされるわけだけれど、トマスはそこで「では天使の認識とは一体どういうものなのか」と問うことになる。(略)けれどもそこでトマスは「では天使は他の天使をどう認識するか」と問い、そこから間主観性(フッサール)ならぬ「間天使論」が導かれ、独我論を脱するのだという。
哲学的には「私が世界を構成している」わけで他者の世界とむりやり重ねているだけなのだが、そう言ったとしてもわたしたちがたった一つの世界に生きているという圧倒的な事実を覆しうるわけはない。
想定はできるとしても、あえて想定する必要もない。
六十年安保闘争においてその運動の頂点は次の二つの日付である。それを松下は「六・一五虐殺の時間が生れでる何ものかを圧殺する六・一八葬送行進の空間へ転移したこと」と語る。
〈六・一五の首都〉と〈六・一八の首都〉は全く同じ(わたしたち)でありながら、まったく別のものであった。違った空気・論理・香りに支配されているのに、別のパラレルワールドであることに誰も気づかないのだ。
全く同じ(わたしたち)ではない。(もう一人の私)として交換可能であるかに見えた同じ隊列で歩んでいた(わたし)は、すでに遠く別の稜線上におり会話すれども心は通わないままだ。
自己と世界を理解する枠組を喪失し呆然としていた松下は〈六甲〉を発見する。「〈私〉たちが、この風景の中へ反対派として歩み出すとして、いま眼前にある山系が美しいと言えるだけでなく、ひしめき合う現実過程の曲線とも、弯曲する〈私〉たちの意識とも交換できるのは不思議なことだ。」
〈六甲〉は松下にある啓示を与える。生きられないという実感から脱出可能であるという暗示である。「たてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点=屍臭のただよう三つの論点」そのような地平に閉ざされていることから、それらを「さまざまなピラミッドの稜線上」に分配された“〈私〉たち”と見なすこと。
「いくつかの丘陵には、ここからは決して見えない別の次元へと曲線の切れ目が続いていて、」もっとも確実なものであるはずの大地には常に別の次元が普通に存在している。だからそのことを分裂したまま言葉を失っている〈私〉たちに応用すれば、「〈私〉たちは、かれらが無意識的に拡散していくかたちを意識に総体化することができるのだ。」
〈六甲〉をどう捉えるか? それぞれのパラレルワールドに置かれたピラミッドの重なりがたまたま可視化したもの、というのが一つのモデルである。
ここには二つの困難がある。まずパラレルワールドを感知するためには、「油コブシ」のような巨岩が離陸していくことを感受する、離人症・離世界症を患っていなければならない。そして復路では、循環、往還、ジグザグ状、ラセン状という風な諸運動をふたたび統合する〈統一理論〉が予感されなければならない。
同じ名前のレストランを発見したというありふれた冗談から即時に、わたしたちは〈 〉の隙間に滑り込む。