松下昇~〈 〉闘争資料

2008-08-15

すべての空間は所有されている

「この号の叙述をおえつつ確認したことの一つは、どのテーマについても権力ないし抑圧してくる諸関係の私たちに対する規定力が、きびしい宙吊りにさらされていることである。  http://666999.info/matu/data/K7jo.html

ちょっと読みにくい文章だが、権力的なものが例えば排除といった攻撃を仕掛けてくるのに対し(わたしたちの闘いにの成果として)その攻撃をしばらく停止させることに成功しているといったことだろう。

40年前に比べるならば、所有権(あるいは所有権に基づく管理権)が強大化しきった世の中に生きているといえるだろう。わたしの身体は普通空間を所有していない、したがって歩いているときあなたは常にあなた以外の誰かが所有する空間を占有しており、したがってそれは(場合によっては)不法占拠と呼ばれ処罰の対象となる。法理的にはかってもいまもそうだったわけだが、実際にそのような処罰に近いものが発動されそれ以上に私たちが自己規制を深く深く内面化している情況にわたしたちは居る。

不法占拠なんて馬鹿げたことだろうか。許される空間以外はすべて許されない空間であるという彼らの論理を肯定することでわたしたちは何か得るものがあるのだろうか。


「私たちは、これまで獲得した方法を、どこまでも、どこへでも応用する場を確実に創出しつつあり、その成果を共有する回路は全ての人〜関係性に開かれている。入口の標識をあえて掲げるとすれば、記述や索引や手続きの対極から私たちへ向かって出立せよ!」

 松下は入り口の標識を高く掲げた。そこには解読不可能な文字しかならんでいなかったにせよ。わたしが松下のテキストをネットで公開するという試行を続けているのはもちろん、「その成果を共有する回路は全ての人〜関係性に開かれている」その回路の一つを拡大するためである。しかし成果とは何か、限りなく絶望に近いものの堆積以外にそこに何があるのかと反問されたときうまく答えることができるかはどうか分からない。


わたしはもっと自分に引きつけて語るべきなのかもしれない。しかし松下の残した膨大なテクストを盲が象を撫でるように断片的にコピペ〜紹介していく作業のなかでその平面性に気づきそれを突破していくという契機がないと次の段階に移れないと思っている。